THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考153 白昼の真っ暗闇を凝視する 常岡雅雄



小農経営に心を寄せ農業立国を望む


ああ、許すまじ原発輸出


 国民を「蚊帳の外」にして総理大臣が決まる「民主主義」日本


 この九月一日号が読者諸氏のもとに届く頃には、民主党の代表選挙も終わって、新しい代表が総理大臣の座につき、新政権が始まっている。

 だが、日本という国家の最高責任を負う総理大臣を、その国家に所属する国民が選出できるのではない。国政を主導する党派が選出するのである。それも、その党派の全ての党員がその選挙に参加できるのではない。僅か400人にも満たない国会議員たちが勝手に選出するのである。

 戦後日本に一貫して続く伝統的な仕組みであるが、それは、戦後「民主主義国家」日本の実体が、実際には「不徹底な民主主義国家」=「欠陥のある民主主義国家」でしかないことを意味している。国民の一人ひとりは、自分自身で総理大臣を選出することができない。自分の運命を預けることになる国家最高責任者の選出にあたって、一人ひとりの国民は「蚊帳の外」に置かれる。特定党派の国会議員たちの演じる選出劇を傍観することしかできないのである。どんなに最高責任者に相応しいと考えても、その人を自分たち自身で直接に最高責任者に送り出すことはできないのである。

 それだからこそ、国民と国家にとっては「小物」にすぎない政治屋がキングメーカーでもあるかのように「大物風を吹かせる」ことになる。それだからこそ、政党や政治家たちが「コップの中の嵐」にすぎない「離合集散」劇を得意げに演じることになる。それだからこそ、建設的な理念も確固たる節操も不屈の根性も持ち合わせない「学者」や「文化人」や「評論家」たちが、さもさも真理や正義であるかのごとく粉飾して浅薄で出鱈目な価値観や情報を国民の耳目に流し込み続ける。それだからこそ、巨大資本なしには存在しえないマス・メディアが、あたかも社会に超絶たる審判者であるかのごとくに政治を操作して、総理大臣が猫の目のように変わる。

 こうした「不徹底民主主義=欠陥民主主義」のもとで、総理大臣としては画期的な「脱原発」宣言を発した菅直人氏に代わって、新しい総理大臣が数日後には登場する。それは「脱原発」宣言から暗転して「原発維持」総理大臣として登場することは間違いないであろう。


真夏の白昼に—脳裡の奥の真っ暗闇を凝視する


 さて、新しい首相の出現を数日後に控えた8月25日正午過ぎのこの瞬間。

 東日本大震災の被災者たちの「未曾有の地獄と悲劇」と、福島原発の崩壊によって日本が陥りはじめた蟻地獄の惨状に胸塞がれながら、私は、目を閉じて脳裡の奥を凝視する。そこは真っ暗闇だ。その真っ暗闇の奥に、さまざまな映像や想念が去来する。消えては浮かび、浮かんでは消えてゆく。それらの映像や想念に思索のメスを入れ、その髄を探り当てようとするとき、そこに何が見えるのか。その闇の奥に思索のメスで見抜かなければならないものは何か。思索のメスで探り当てなければならないものは何か。その思索のメスが探り当てたかに見える幾つかのことを、ここに語ってみよう。


非武装の大衆闘争こそ人民解放を前進させる


 先ずは反政府勢力が首都トリポリをほぼ制圧したと伝えられるリビアのこと。

 武装した民兵たちが政府軍を追い詰めつつ、勝利の祝砲を天に向かって打ち上げ続けている。そうだ、カダフィ政権の圧政からの解放をかちとった「リビア民衆の勝利」を「リビア国家の一歩前進」として祝福しなければならない。確かに、貪欲で無法で暴虐なカダフィ独裁政権にたいして果敢に銃撃戦をくりひろげる武装した民衆—その武装力によって「勝利を勝ちとった」ことは確かだが、その「武装した民衆」はこれからのリビアを何処に導くのであろうか。その武装力によって、これからのリビアに、どのような「国家と社会」をもたらしてゆくのであろうか。私の脳裏の闇の奥には、「新しいリビア」は「かつてのキューバ革命」が見せたような「健康的な姿」では浮かんでこない。

 更に、反政府勢力を支援したアメリカはじめEU諸国の武力介入—確かにカダフィ政権は打倒されなければならなかった。反政府勢力は勝利しなければならなかった。だが、一国の内部問題にたいして、その外側から外国が武力をもって介入しても、それは「圧政打倒」のためには「当然のことだ」「正義なのだ」と「安易に理解する風潮」は恐ろしい。大いに危険である。「米欧日などの民主主義国家」を「自称する先進国家」に「後発国家」問題への武力行使のフリーハンドを与えてはならない。

 脳裡の暗闇の奥で私の思いは行き着く—如何なる国家であろうと、人民の解放闘争は「非武装・非暴力の大衆闘争」と「人民側の不撓不屈の政治」であることこそが望ましい。


小農経営を護り豊かに発展させて「農業立国」へ

農業の大規模化は「日本の歴史と未来」を滅ぼす


 朝日新聞の昨日(8・24)の社説によれば、政府の菅首相を議長とする「食と農林漁業の再生実現会議」(議長=菅首相)がまとめた『中間提言』は、「平地で20〜30ヘクタール、中山間地域で10〜20ヘクタールの規模の経営体が大部分を占める構造をめざす」とうたっている。全国農業協同組合中央会(JA全中)も同様の提言を今春行っているという。

 日本農家の経営規模は、現状では1ヘクタール未満が55%を占め、平均2・2ヘクタールであるが、それを「10倍程度に広げる意欲的な内容だ」として、朝日の8・24社説は評価している。

 だが、私は賛成できない。これこそ日本農業を近視眼的にしか見ていない偏った見地が生みだす「愚策」であり、だからこそ更に、農を愛し農に励む農民の心情と献身に想いを致さず、「日本農業も含めた日本の社会と自然の全体の将来」にたいして構造的な衰退をもたらす「破滅的な政策」である。

 日本農業の「大規模化」とは、それ自体すでに、反農業的であり、反農民的であり、反日本的である。その発想は、先ずは海外農業との競争に価格競争的に対処することだけを考えた「資本家的な発想」である。農業生産に実際に従事する農民的な発想ではない。今日の日本の農業問題にたいする発想は、何よりも先ずは、農業問題の根本にかかわり、そのあり方の全てを律していく問題として、あくまでも「現場の農民的な発想」でなければならない。農民的な発想だけが生産的で建設的であり、資本家的な発想などは結局のところ破滅的である。

 「大規模化」は、株式会社の参入など農業外からの資本参加による「資本家的な大規模農業経営」に道をひらく。それは、日本という風土と人間性が、農耕社会段階への日本の転化いらい営々として切り拓き建設してきた「日本農業と農民階級」とに最終的に「崩壊と消滅」とをもたらす。伝統的な日本農業の壊滅と農民階級の消滅をもたらすものである。したがって、それはまた、日本の「伝統的な田園と自然」の取り返しのつかない「構造的な崩壊」を急進展させていくものである。したがって、それはさらに、日本列島全体をいよいよ「資本主義的な工業列島化」させ、環境問題を「根底的に深刻化させていくもの」にほかならない。

 日本農業に伝統的な小規模農業の意義を、近代科学主義一辺倒に偏った生産力主義的頭脳をもって価値判断し、したがって、資本家的な競争主義の価値観をもって、「否定的に理解」してはならない。小農経営こそが、その農民たちの営々たる二〇〇〇年の歴史をかさねて、この「美しき日本」の「農山林漁業と社会構造と自然」との「生産的で有機的な循環」を築き上げ保持し続けてきたのである。

 そうであればこそ、小農経営は(一)まずもって資本家的競争主義の猛威に対して確固として護りぬかれなければならない。

(二)この小農経営にたいする保護政策が国家によって強力に遂行されなければならない。

(三)更に、今ある小農経営への保護政策だけでなく、小農経営を中心とした日本農業の発展政策が、「日本の国家と社会」の「これからの基本構造の発展」に関わる「根本的な国家政策」として行われなければならない。

(四)そのことは、国際貿易のあり方をも規定する重要問題である。即ち、「小農経営の防衛と発展のための国際貿易政策」を、「諸国家間の協調と協力と平和友好の関係の強化と発展」の基調にもとづいて、日本は国家として採ってゆかなければならないのである。

(五)その農業政策は、単に「農業領域に限られた政策」としてではなく、更に、日本の「国家と社会」の「新しい構造変革」の問題として探求されてゆかれなければならない。即ち、日本の風土は、人間生存に必要な様々な農業生産物種のすべてを生産可能とするのであるから、この日本的な絶好の好条件を目的意識的に尊重し生かして、(イ)「農産物種の圧倒的な多様化と豊富化」をはかり、(ロ)「各農産物種の自給率の圧倒的な向上(基本的に「完全自給」化)」を実現していくのである。

(六)この実現を小農経営によって成しとげて行くことのできる必要条件は何か。それは「農業生活に人生の生き甲斐をもって向かっていく青年層の圧倒的な増大」と、それによる「農業人口の圧倒的な増大」である。そのためには、農業労働における「労働時間と強度」の「圧倒的な短縮と軽減」が不可欠であり、そのために、国家的規模での政治的社会的経済的な国家政策が遂行されてゆかなければならない。


 これらの全ては、偏った資本家的な見地と発想にとらわれない限り、したがって、農民的で全社会的な見地に立つならば、時間はかかろうとも、「国家百年の計」として、更に遠くを眺望して「国家千年の計」として、確実に実現してゆけるものである。


ああ、許すまじ原発輸出


 「原発推進」路線からの決別を明確にする菅首相の「脱原発」宣言を、私たちは、国家の進路を決める最高責任者の国家的宣言として積極的に評価した。

 原発は「人類とも自然とも共存できない」からである。「3・11」がそれを疑問の余地なく全世界に明らかにしたからである。「原発」問題はこれからの「日本の国家と社会」のあり方を根本的に左右する「価値観的で構造的な問題」だと理解するからである。日本を封建から近代へと決定的に転換させた明治維新における攻守の闘いに例えるならば、「原発維持」は「佐幕」であり、「脱原発」は「倒幕」にあたると理解したからである。

 ところが、「菅辞めろ!辞めろ!」総攻撃に晒されながらも、まだ「退陣していない菅首相」のもとで、民主党政権は菅首相「脱原発」宣言に反して「外国への原発輸出を継続してゆく」という言語道断の恐るべき反人類的な政治姿勢を明らかにした。

 政権交代を遂げたはずの民主党が「3・11」の「地獄と悲劇」をもっとも深く真剣に理解しなければならないはずの政権党=民主党が何ということであろうか!


 「9条下の再軍備と軍事大国化」で全世界に恥を晒した日本は、更に今度は、首相「脱原発」宣言下で「他国に原発を輸出する」という恥の上塗りをしているのである。「フクシマ」の「地獄と悲劇」を全地球規模に「グローバル化させる」というのである。

 政権交代を遂げたはずの民主党に、この反人類的な帝国主義路線をとらせる日本金融独占資本の暴虐に対する闘いの道に私たちは立つことができなければならない。「白昼の真っ暗闇」のなかでの思いではあっても、その闇の奥を凝視して、私は進むべき道を探り当てなければならない。

(2011・8・25)