THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考159 「旧い日本」か「新しい日本」か?常岡雅雄



21世紀の世界と人民の力


苔むす大国主義と成長主義

芽吹く「理性と友愛」主義



 人々(ひとびと)の一人としての「人民の力」


 人(ひと)は、生きている限り、誰でも「夢」を抱いている。

幼稚園児にも小中学生にも、高校生にも大学生にも、夜間中学生にも夜間高校生にも、その一人ひとりに「夢」がある。幼児にも、児童にも生徒にも、学生にも若者にも、壮年にも、そして、もちろん高齢者にも老人にも、その一人ひとりに「夢」がある。教師にも、教授にも、学校職員にも、その一人ひとりに「夢」がある。農民にも、漁師にも、山林に生きる人々にも、その一人ひとりに「夢」がある。

 在日の外国人にも、その一人ひとりに「夢」がある。日本で働く外国人にも、その一人ひとりに「夢」がある。

 労働者にも、管理者にも、経営者にも、その一人ひとりに「夢」がある。正規職にも非正規職にも、その一人ひとりに「夢」がある。政治家にも、官僚にも、その一人ひとりに「夢」がある。女にも、男にも、その一人ひとりに「夢」がある。障がい者にも、その一人ひとりに「夢」がある。

 画家にも音楽家にも、あらゆる芸術家にも、学者にも、思想家にも、理論家にも、スポーツ家にも、その一人ひとりに「夢」がある。商人にも、料理屋にも、手工業者にも、その一人ひとりに「夢」がある。この世に生きている、その全ての人(ひと)の、誰にでも、その一人ひとりに「夢」がある。

 どんな種類の「夢」であろうと、どんな程度の「夢」であろうと、この世に生きる人(ひと)は誰でも「夢」をもっている。長続きする「夢」であろうと、一瞬の「夢」であろうと、生涯を貫く「夢」であろうと、後世に託する「夢」であろうと、人(ひと)は誰でも「夢」を抱いている。

 他人(ひと)から邪魔されたり奪われたりしたくない、その人自身の大切な「夢」を誰でも持っている。公言していようと、胸の奥深く秘めていようと、この世に生きる人は、誰でも、「夢」を持っている。

 或いはまた、組織も機構も団体も、それらがどんなものであろうと、それらの一つひとつが、自分自身の「夢」をもっている。それらが「夢」をなくしたとき、「夢」を語らなくなったとき、それらは、哀れな「むくろ」でしかない。図体が大きければ大きいほど、それらの「むくろ」は醜悪なのだ。


 「夢」は—それは「」だ


 「夢」とは、幻や蜃気楼でも戯言でもなく、それを持つものの「命(いのち)」なのだ。

 71年結成いらい40年の歴史を積んで、新しい40年に向かいつつある、私たち「人民の力」は、新鮮な思いで、それら一人ひとりの人(ひと)の「夢」に、一つひとつの「夢」に、眼を向けるべきだし、耳を傾けるべきだし、心を寄せるべきだし、胸を開くべきだし、それらの「夢」の一つひとつを、その「夢」それ自体として尊重すべきだし、サポートし激励すべきだと心定める。


 私たち「人民の力」は「夢の結晶!」だ


 私たち「人民の力」自身も「夢」をもっている。

 そして、その私たち「人民の力」を構成している「同志たち」の一人ひとりも、自立した一人の人(ひと)として、その「同志」なりの「夢」をもっている。

その「同志たち」一人ひとりの「夢」は、それがどんなものであろうと、私たち「人民の力」の同志や機関から邪魔されたり奪われたりはしない。「同志たち」の一人ひとりが気持ちと熱情をこめて自分なりの「夢」をもっている。それら様々な夢を抱いて生きる「同志たち」の「集まり」であり「絆」であるからこそ、私たち「人民の力」には、人(ひと)としての自然の「生き生きさ」がある。

 だからこそ、私たち「人民の力」は、69年秋の画期的な第34号「新たな飛躍を準備せよ!」いらい「43年余の新しい社会主義の歴史」を重ね、71年7月結成いらい「40年の新しい社会主義の政治同盟の歴史」を積んでくることができた。

 私たち「人民の力」を40年にわたって成長させ、継続させたもの—それは「夢」だ。私たち「人民の力」を「新しい40年」に向かわせるもの—それも「夢」だ。


 「沈む日本」対「浮上する日本」


▼「沈む」のは—「天皇制と資本主義と米国隷従」の「旧い日本」

▼「浮上する」のは—「理性とヒューマ二ズム」の「新しい日本」


 ところで、「日本経済新聞」の2月20日号は、「沈む日本」と、深い危機感を吐露している。「沈む日本」とは、見事な「時代規定」だ。今日の日本全体を重く蔽っている「時代的な気分」「時代的なムード」だ。

 だが、騙されてはならない。

 これから「沈む」には、これまで「浮いていた」のでなければならない。

 これまでの日本は、本当の意味で、「浮いていた」であろうか?

 浮いていたのは、「明治以降の天皇制日本」ではないだろうか。

 その日本とは、欧米列強に伍して資本主義的な近代化をすすめ、その資本主義的な近代化の力をもって、朝鮮民族・中国民族はじめアジア・太平洋諸国に残虐で非人間的で横暴な侵略と戦争と植民地支配を行ってきた日本ではないだろうか。そして更に、太平洋戦争の惨敗に至る「アジア・太平洋侵略と植民地支配」の挫折を、人間的人民的に、したがって「理性とヒューマニズム」に立って、根本的に自己反省するのではなく、勝者=アメリカへの隷従をもって、戦後の資本主義的な復活と高度成長を追求してきた「隷米日本資本主義」ではなかったのではないだろうか。

 日本経済新聞(2月20日)が云う、そして、今日の日本中を陰鬱に蔽いつつある「沈む日本」とは、この「隷米日本資本主義」ではないのだろうか。肯り、この「沈む」べきものは「沈まなければならない」のだ。

 そして、他方、「浮上すべきもの」は「浮上しなければならない」のだ。

 その「浮上すべきもの」とは、「明治以降の日本資本主義」=「天皇制日本資本主義と隷米日本資本主義」にとって代わることのできる、人間的・社会的な「精神と原理と価値観」にたつ「日本人であり日本社会構造であり、その地球規模の生き方」なのである。


 「浮上する日本」の「実体づくり」のために


 私たち「人民の力」は、毎年初春の二月と三月には、「人民の力」としての全国統一行動を二つ、相次いで行う。

 (一)第一には、「建国記念日」=旧「紀元節」の2月11日に当たっては、「新しい社会と労働者としての生き方を考える」集会と街頭デモ、(二)第二には、明治以降の天皇制日本が植民地支配した朝鮮民族の1919年3月1日「朝鮮民族独立万歳」闘争の日である3月1日には、研究集会と街頭デモである。

 明治以降の天皇制日本が犯してきた侵略と戦争と植民地支配への「天皇制日本下の日本人としての謝罪と自己批判」と「天皇制廃絶と新しい社会」探求の道にたった全国統一行動として行っている。今年2012年の初春も「2・11」は既に行ったし、「3・1」は目前に迫っている。

 私たち「人民の力」は、確かに、「日本に所在する組織」であり、「日本に生きる人間」なのだが、「沈む日本」の構成部分として「沈みたくはない」のであり、「沈んではならない」のだ。

 「2・11」と「3・1」の全国一斉行動は、その「反天皇制・反資本主義・反隷米主義」の「精神と原理と価値観」において、私たち「人民の力」が「沈む日本」ではなく、その対極に置いて芽吹いてゆく「浮上する日本」なのだ。

 しかも、その「日本」とは、「沈む日本」の対極において「浮上する」ものであるからこそ、それ自体として既に「日本」のみではなく、広く「アジア・太平洋的」であり、更に遠く広く普遍的に「全地球的」なのである。

(2012・02・23)