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社会主義考18321世紀は「新しい社会主義」の時代人民の力代表 常岡雅雄


新しい社会主義=地球社会主義」の難路を

「自分自身」と「自分と隣人との場」から


 21世紀のこれからの社会主義運動を、私たち「人民の力」は「地球社会主義」と「言うべきだ」と考えています。

 今年の新春号(1000号)、二月一日号など、ここ数回の「人民の力」誌上で既に言ってきたことですが、この「地球社会主義」とは、私たち「人民の力」が「社会主義者としての自分たちの歴史と思い」を込めて、新しい気持ちで決断する、「新しい社会主義」についての考えなのであります。

 21世紀初頭の人類の世界は「資本主義一色でおおわれた冷酷無惨な世界」です。

 政治や社会のあり方、産業の構造や企業のあり方、教育の思想や体系、行政の思想や制度、情報やマスメディアの価値観やあり方、学問やスポーツの思想やあり方、人びと一人ひとりの思想や価値観や「人としてのあり方」、人と人との人間関係、諸国家間の国際関係—、どこをとっても人類世界は「資本主義万能の冷酷で無残な世界」です。


(A)「地球社会主義」とは何を意味するのでしょうか?

21世紀の新しい帝国主義に騙されず資本主義に呑みこまれず

「新しい社会主義」の道を探し続けて生きる


 「地球社会主義」とは、そもそも何を「意味する」のでしょうか—何処に「意義がある」のでしょうか?

(一)それは第一には、現代の人類世界を一色にとらえ尽くしている、この私たちが生きている資本主義世界にたいして

(イ)「根っ子から対決」する「思想と価値観」です。

(ロ)「根っから対抗する社会(そして世界)」を「構想し切り拓いていく」ことをめざす運動です。

 現代の人類の世界は冷酷な資本主義一色に蔽い尽くされています。

そうだからこそ、「地球社会主義」とは、その「資本主義にたいする根っ子からの批判」であり「資本主義世界にたいするとことんの引っくり返し」なのであります。

(二)したがって、「地球社会主義」の「心と目指すこと」とは、人類世界の「明日」であり、「未来」なのです。

 これが地球社会主義の第二の意味であり意義です。

 私たちの提唱する「地球社会主義」とは、既に歴史の彼方に滅び去った「社会主義」ではありません。帝国主義や資本主義に変質してしまった「名ばかりの社会主義」ではありません。そうした「旧い社会主義」に「再生」の息を吹き込もうとする時代錯誤の願いや試みでもありません。

 「過去へのノスタルジア」でも「過去の再生をめざす後ろ向きの復興運動」でもありません。

 私たちは、どんなに難しかろうとも、自分たちの及ぶかぎりの「人間主義と理性」を尽くして、今日この瞬間に「明日」を築きあげるために頑張るのです。どんなに遠かろうとも、「一〇〇〇年人力—万年人力」の「悠々の気構え」をもって「きっと達成できる人間解放」の「未来を信じ」て、どこまでも歩みつづけるのです。

(三)第三には、「地球社会主義」とは、社会主義運動の「新しいあり方を創りあげていく社会主義」です。すなわち、「心構え」も「方法」も「進む道」も「旧社会主義」とは違った「新しい社会主義」なのです。

 「旧い社会主義」の時代は終わりました。

 「旧い社会主義」は資本主義に呑みこまれてしまいました。「旧い社会主義」は「帝国主義に変質」してしまいました。人間解放をめざす「真正の社会主義」は21世紀初頭の今日では地球上のどこにも見当たりません。

 「社会主義」は「新しい思想と理論と人間性と方法論をもつ社会主義」として、新しい「探し求めと創り出し」の「苦しみを覚悟」しなければならない時代となったのです。

 すなわち、私たちの言う「新しい社会主義」が懸命の探求と模索をもって登場しなければならない人類世界の新しい段階をむかえたのです。

 「新しい社会主義」とは、ひとり私たち「人民の力だけ」の心や想いではなく、「全地球規模の人類世界全体の進むべき道」となったのです。「地球社会主義」として、その前途がどんな難路であろうとも、築き上げていかなければならない人類世界の「新しい段階」をむかえたのです。

(四)この「新しい社会主義」としての「地球社会主義」は、第四には、これからの「21世紀の新しい帝国主義」=「帝国主義の新段階」の「無情で凶暴でまことしやかな実体」に対して「人間的で理性的に立ち向かってゆこう」と決意する社会主義であります。

「国家とか国(くに)」という思想をもってしても、「民族」という思想をもってしても、「人種とか部族とか」いう思想をもってしても、様々な「宗教」思想をもってしても、帝国主義に対抗して「とことんの人間解放」や「かぎりない平和実現」の達成を成し遂げることはできません。

 「帝国主義」とは「国家や国(くに)」や「民族や人種や部族」や「宗教」等々の「一見もっともらしい思想や姿」をもってあらわれて凶暴な猛威を振るうからです。

 そうであるからこそ、「21世紀の新しい帝国主義」にたいして最も適切に対抗していくためには、「国家」とか「国(くに)」とか「民族とか人種とか部族とか宗教」といった、実際には「帝国主義として発露」しやすい、或いは「帝国主義に騙され」やすい「狭く限定された思想や政治的立場」をとるのではなく、そうした「狭く限定された思想や政治的立場」を「人類全体に共通する地球」という「思想と政治的な立場」をこそ明確にすべきだと考えるのであります。私たちの提唱する「地球社会主義」とはここに起源するのであります。

(五)さらに「地球社会主義」とは、近代500年にわたって築きあげられてきた人類世界の「二重構造」にたいして「打破と変革をめざす社会主義」であります。

すなわち、言いかえれば、「地球社会主義」とは、近代500年にわたって全地球規模に侵略と暴虐と破壊のかぎりを尽くしてきたヨーロッパ・アメリカ・日本という「帝国主義列強」の侵略と暴虐と破壊のもとで「抑圧と残虐と抹殺と辛苦」を舐めさせられてきた「全地球規模での弱者」への熱い提言であります。即ち「地球社会主義」とは

(イ)「人間としての同情と友愛」の「眼差しと心」であり

(ロ)その「全地球規模の弱者解放の道」に「みずから立つ決意と覚悟」であり

(ハ)「連帯と協働と共闘の呼びかけ」なのであります。


(六)そして、朝鮮・中国はじめアジア・太平洋の人々にたいして筆舌尽くし難い「侵略と収奪と暴虐と殺戮と破壊」のかぎりをつくした「天皇制日本」—その「天皇制日本」と戦後(敗戦後)の「アメリカ隷従日本」の、その「体制内における社会主義者である私たち日本の社会主義者」としては、「天皇制日本及び隷米日本」が残虐のかぎりを尽くしてきたアジア・太平洋の人々と国家や民族や人種や部族をはじめとした「犠牲者や弱者」にたいして「心からの謝罪と償い」を行わなければなりません。

 「地球社会主義」とは、その私たち「日本の社会主義者」としての「懺悔と謝罪」であり「償いの決意」なのであります。


(B)「自分自身そのもの」と「自分と隣人との絆の場」から

「地球社会主義=新しい社会主義」は始まります


 「地球社会主義」とは「誰のこと」でしょうか?

 「地球社会主義」と聞けば「自分などの手の届かない大きなこと」のように聞こえます。「自分とは関係のない遠い他人ごと」のように思えます。

 だが、そうではないと思います。そう思ってはいけないと考えます。地球社会主義とは

(イ)なによりも先ず、今ここで、このように語っている「私自身のこと」「自分自身のこと」であります。

(ロ)そして、その人の「息遣いと血の脈動」が私自身にもろに感じられる「人間関係を私自身ととりむすぶ私の隣人のこと」であります。

 すなわち、「自分自身」と「その自分自身の隣人」との「人としての結びつき」—それこそが、「地球社会主義」の「真髄」なのであります。これこそが、「地球社会主義」の①とことんの大本(「源基的なかたち」)であります。②そして地球上のどこにでも遍(あまね)く行きわたることのできる「普遍的なすがた」なのであります。


(一)こうした「地球社会主義=新しい社会主義」の考えは、「旧い社会主義」についての—「反省」と「後悔」からうまれたのです。

 「旧い社会主義」とは「社会の一握り」でしかない「少数の革命家たち」が「革命をリードし社会を指導する」ところの「一握りの社会主義」でしかありませんでした。

 その「旧い社会主義」には「社会の実体を構成する普通の人びと」は「革命の担い手や実行者」としてはいませんでした。「社会主義の本当の実行者で建設者としての役割」を「その社会の普通の人びと」が担うことはありませんでした。

 このような「一握り社会主義」が「次第に官僚主義的で権力主義的に腐敗」して「社会を資本主義へと転落」させたり「帝国主義としての蛮行を行う」ようになるのは、「一握りの政治集団や知的グループによる社会主義」という、その「旧い社会主義」の「本性的に歪んだ体質」からして「避けがたいことだった」し「当然のことだった」と思います。

(二)私たちの提唱する「新しい社会主義=地球社会主義」とは、このように変質し崩壊し衰亡した「旧い社会主義の根本的な欠陥」の「反省」にもとづいて「構想され探求されなければならないのだ」と考えます。

 すなわち、その「社会を構成する全ての普通の人びと」が、どんな生き方をしていようと、どんな思想や考えをもっていようと、どんな所に住んでいようと、どんな趣味や好みをもっていようと、「自由な人間として自分自身の意志で参加し主張し振る舞うことのできる社会主義」として「初めから構想され探求されていかなければならない」と考えるのです。

 すなわち、その社会(及び、それらの社会の総和としての人類世界)とは、それの実体を構成する「人びと」や「民族」や「人種」や「部族」や「宗教」などなどによって、万華鏡のように多彩で多様であります。そうした「多彩多様さ」の「全てのあるがまま」によってこそ、これから目指す「地球社会主義」すなわち「新しい社会主義」は切り拓かれていくのだと考えます。

(三)このように考えるとき、様々に多彩多様な人びとをもって構成される社会と、それらの総和としての人類世界における全ての「普通の人びと」が〈多彩多様なままに、自由に、「新しい社会主義=地球社会主義」の構成者となるのだ〉と考えます。

 限りなく多彩多様な人間集団(ひとつの社会としても、人類世界全体としても)のなかの「一人ひとりのひと」は、「自分自身」と「その自分自身と隣人との人間関係」という「最も狭い直接の場である」からこそ、「自分自身」と「その自分自身の隣人との人間関係」を、その社会と人類世界のもっとも「源基的なかたち」であり「普遍的なすがた」として築きあげていくことができるに違いありません。


(四)この「自分自身」と「その自分と隣人との絆の場」こそが、「地球社会主義=新しい社会主義」の「もっとも原子的で源基的なかたち」なのであります。

 「地球社会主義=新しい社会主義」の「もっとも原子的で源基的なかたち」として〈「自分自身」と「その自分自身と隣人との絆の場」〉を「築き上げてゆき機能させてゆく」ことは、「人間主義的で理性的である」ならば、「普通の人」の「誰にでもできる」ことであります。

 それができさえすれば、その「人間主義と理性」をもって築きあげてきた〈「自分自身」と「その自分自身と隣人との絆の場」〉は、〈地球上のどこにでも遍くゆきわたる「普遍的なすがた」〉としての意味(意義)をもっていくに違いありません。


 「地球社会主義=新しい社会主義」は、こうして「一人の人」と「その人と隣人との結びつきの場」という「最小の原子的かたち」に「源基」を置きながら、全地球規模に広がっていくのであります。


 「新しい社会主義」としての「地球社会主義」は—「全地球規模」という「巨大な広がりと重さ」をもちながらも、「一人ひとりの個人(自分自身)」という「最小の原子的規模」から始まるのであります。

 そして、その「万華鏡のような総和」として「地球社会主義」は「全地球規模に花を咲かせていく」のであります。

(2014年2月15日)