月読


声。
僕を呼ぶ力。
休息の眠りは、長い長い時間に鬱積していた僕の苦痛を癒してくれていた。
孤独の苦痛。
異端の苦痛。
忘却の許されない苦痛。
逃げることの許されない苦痛。
誰かが、僕に呼びかけている。
「起きろよ。契約の時間だぞ。もうこれ以上は、肩代わりできねーよっ」
怒ったような、優しい、声。
契約……なんだったのだろう。僕が物を思い出せないなんてことは……。
『十年だけ、俺の時間を夜見にやるよ。夜見にしてみれば、ほんの一瞬だろうけど。貴重な俺の時間だ』
眠りに就く前の記憶。僕に語り掛けたのは…真樹。
「まさ…き?」
優しい休息の空間の中で、僕は起き上がった。
ここは、真樹が僕のために創った世界。
僕のために彼がくれた、時の狭間。
「やっと起きたか。そろそろ交代だよ。夜見」
十年前と全く変わらぬ姿の真樹が、僕の前で手を差し伸べた。
「真…樹?」
「ああ、不思議だろ? 夜見の代わりしている間、俺の時間は止まっていたみたいだ」
差し出された手に触れる。真樹に預けていた僕の半身、弓月夜見の魂が返ってくる。
真樹の中で癒された弓月夜見は、穏やかに眠っていた。
 戻ってきた記憶契約の記憶。かすかに、胸が傷む。
「礼をしなくてはならないな」
 僕は……僕と弓月は、真樹から大切なものをいくつも奪ってしまった。
「別にいいさ。欲しいものはないから。必要な物は、もう全部持っている」
真樹の傍らに、幼い頃の彼によく似た子供が立った。子供の頭を撫でながら、言葉を続ける。
「桂夜は、見えるだろう? 彼が、この神社の神様、夜見だ。今、俺は借りていた神様の力を返した」
「とーさんの力、無くなったの?」
「いや、ここにある。この部屋そのものが、俺の力だからな」
そう言って視界を巡らせる真樹は、以前と何ら変わり無かった。桂夜と呼ばれた子供が、僕を凝視している。
「僕が見える?」
「………。 神様? とーさんの方が、神様っぽい感じだった」
僕が癒されている間、真樹がどのような時間を過ごしたのかは、弓月夜見が知っている。だから、僕も知っている。けれど、知ろうとは、思わない。それでいい。
「真樹、こんなことを言われてしまう僕は、どうしたらいい?」
「さてね、まあ気長に、いろいろ教えてやってくれ。次期斎主の教育は、夜見の仕事だろ? 俺は、もう斎主だ。夜見の姿が見えるとは言っても、幻のようにしか見えていない。どういうわけか、弓月夜見の君になると、はっきり見える気がするけどね。つまり、俺はもう弓月夜見に仕える者ってことなんだろ?」
姿が見えるというだけで、奇跡に近い。
それは、彼が僕等の力に限りなく近い状態を何年も維持した代償なのかもしれない。
「そうか。では、挨拶からはじめなければな」
僕は、桂夜を僕の目線に合う高さまで、浮かべた。
人に膝を屈すること無く、目線を通わせるのが、神の流儀。
「はじめまして、桂夜。僕は夜見。長い間、君の一族と共に生きてきた者。君が生まれるためにつながってきた人々の人生を知る者。そして、君と供に生きる者。月を読み、時を知る者」
「うん」
 桂夜は笑顔で答えてくれた。
「夜見、この部屋、消すぞ」
 真樹の祝詞とともに、僕が眠っていた空間が消失する。
「弓月と暮らしていたせいかな? 昔より自分の力が制御できている気がする」
 独り言のように呟いた真樹が、空を見上げた。
僕も視線を追って天を仰ぐ。
 久しぶりに見上げた月は、とてもなつかしく温かな光を大地に注いでいた。

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