月水


 今日、僕に関わるのは斎主の信志だけだ。次期斎主は、姿を見せることも、見ることも禁じられる。
なぜなら、僕が神になるから。夜見ではなく弓月夜見になってしまうから。
「信志。なにゆえ、我のまわりに結界をつくった?」
 目覚めると凶月が見えた。しかし、この身を染めるべき魔が、跳ね返されている。
「私の体調が悪く、魔に染まった弓月夜見の君を抑えるほどの力が扱えぬゆえ、月水を使いました」
 隣に座った信志は、無表情だ。
 月水。月の若水とも呼ばれる。
 満月にむけて最も月の清らかな力が満ちていく吉日、十三夜に作られた水。
 十三夜の清らかな月光を凝縮した水。
 月水は、斎主や次期斎主の身体に植え付けられた魔を祓うために使われることが多い。それほど、魔を祓う力は強いのだ。
しかし、月水に僕を、弓月夜見を束縛する力は、まったく無い。僕が作った水だから。
「ほう、月水を使ったか。では、我がここから出たら、大変よな」
 斎主は答えない。
「……いつぞやの務めで、風邪でもひいたか?」
 信志が頷く。彼は昔から嘘がつけない性格だった。もっとも、神に人の虚言は通じないが。
「まあ、よい。仕方なかろうな。せっかくの我が一日だが、この中に居てやろう。ただし、相応のことは、してもらおうぞ」
  「心得ております」
 いつもよりも品数の多い供え物。傍らに立て掛けられている白銅の鏡。
 魔に染まっていないと言っても、凶月の影響は受ける。病人を気遣う優しさを期待してはいけない。
「まずは、興に乗るまで酒の相手をしてもらおうか」
 意地の悪い笑顔が、信志に見えたかどうかは、判らない。

 月が沈んだ。本来なら僕は眠っている時間。
「信志、大丈夫か?」
 柱にもたれかかった信志は、疲れ果てていた。
「弓…いや、夜見か」
「無理をさせて……すまなかったな」
 額が熱い。本当に彼は体調が悪かったのだから、当然だ。立ち上がる力もないだろう。
 背中と膝に手を回し、信志を抱え上げる。
「夜見?」
「黙っていろ。床の上じゃ、治るものも治らないだろ? 部屋まで連れていくだけだ」
 信志の目は、心配気に僕の方を見た。何を言いたいかは、察しがつく。
「心配するな。月が沈んでも、信志を運ぶくらいは出来る」
 部屋まで運ぶわずかの間に、信志は眠ってしまった。寝間着に着替えさせ、布団に横たえる。
「今日のような場合でも、我を封じる方法はあるだろうに……」
 斎主の体調が悪い時、僕は目覚める前に封じられるのが常だった。
 僕の瞳が月色に変わり、信志の寝息と一緒に疲れを吸い取る。
「さすがに、月が沈むと、これが限界だな」
 疲れだけを取り除き、信志の部屋を出た。月が沈んで随分経つ。
壁や柱をつたいながら、僕はしばらく月の無い空を見上げていた。





月読記へ