七夕月


「今夜は雨…か」
 夜空を見上げた信志が、ため息混じりに呟いた。
「そう、がっかりすることもあるまい。雨で天の川が増水して恋人達が出会えないなどという話は、もともとこの国には無かった。大陸から伝わった伝説だ」
今日は陰暦7月7日。
農村地域にとって、この日の雨は望まれる雨だった。
雨と伴に田畑へ降臨する『七夕様』は、笹葉で天の川の水を散らしながら地上を祓い清め、盆に降臨する農業の神々を迎える準備をする。
実際に行われた七夕行事の多くは、星を愛でるのではなく、空から降り立つ者を迎えて穢れを払う神事。
七度の食事。七度の禊。笹舟に乗せて流す人形。
短冊に願いを書いたのは、伝説がようやく人々にも伝わっていった江戸と呼ばれる時代。
願いを聞き届けるのは、恋人達ではなく、『七夕様』と呼ばれた者。
「小さい頃は、本当に七夕の夜に二つの星がぶつかると信じていたんだ。でも、いつも見ることができずにいた」
 そういえば、幼い頃に伝説を知った信志は、随分と熱心に夜空の星を見上げていた。
懐かしげに曇空を見上げる信志の腕の中には、不思議そうに雨を見上げる赤子。
「あー」
 それまで黙っていた赤子が、両手を空へ向けて笑顔で笑った。
「真樹? どうした?」
「将来有望な赤子だな。信志、珍しい来客だ。客は弓月が迎えるから、真樹とここに居ろよ」
「え……」
 あからさまな不安を表情に浮かべた父親を月色の瞳に映して、弓月夜見が告げる。
「今宵はこの上ないほど清らかな夜。お主等に危害はあるまい。それに、神を呼んだ真樹本人が不在というわけにもいかぬ。相手は、無邪気な真樹の呼び声に応えてここへ来るのだからな。」
 降り落ちる雨の中に降り立ったのは、人々から『七夕様』と呼ばれた神。
「久しゅう、弓月夜見様。先ほど空翔ける吾を呼び止めたのは…」
「そこの我が守護を受ける子だ、まだ神呼びも知らぬ赤子故、そなたが降りるのは意外であったが…」
「懐かしく親しい呼び声だったので…。しかし、赤子とは気付かなかった」
「ここへ来たからには、何もせずに去るわけにはいくまい?」
 弓月夜見から杯を受け取った来客は、半時ほど楽しげに赤子を眺め、清浄な空気を境内に満たして空へ帰っていった。



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