太陰


 ここ数日、真樹は僕を避けるようになっている。理由…実は知っている。
ただ、僕の方からは、動きたくない。単なる我侭なのは承知の上だ。
「信志。相談がある」
目覚めてすぐ。真樹が供え物を持ってくる前に、僕は斎主のもとを訪れた。
「真樹のことか?」
 どうやら、信志も悟っていたらしい。
「何か信志に言ってきたか?」
「まあ…な。だが、まだ何も教えていない。あれには、自分で選んで欲しい。その選択が私と同じだったら…」
 信志の表情に、かげりが浮かんだ。
「…同じなら…あきらめるさ。結局、斎主は夜見と別れなければならないんだとな。正直、夜見の姿が見えないのは、斎主にとって、救いでもあるんだよ。生まれたときから常にそばにいた相手を……」
 信志が差し伸べた指先は、僕の耳に触れる。
「少なくとも私は…夜見が見えていたら、耐えられなかったよ。そうでなくとも、自分が許せなくて苦しんだ…」
 それは、僕がここにいるから。僕がいなければ……。
「……しかし、清濁あわせ呑むことができなければならないのも、事実だ。月に光と影があるように、夜見にも、私にも、そして真樹にも、光と影がある」
 信志が顔をあげ、穏やかに言った。
「ほう。随分と成長したじゃないか。その若さでそこまで到達する者は少ないぞ」
「なんだ。私が初めてじゃないのか」
 苦笑した信志は、手を引っ込めて立ち上がった。
「また今度、ご先祖の話でも聞かせてくれ」
 つまり、信志が動くつもりはない、ということだろう。

 あでやかな月影。僕は桂樹の根元にもたれ、目を閉じた。
月が創った木陰の中。どうしても、月光を浴びる気分になれない。
しばらくすると、真樹が歩み寄ってくる音がした。僕の傍らに供え物を置き、立ち止まる。
僕に話しかけるわけでもなく、隣に座るわけでもなく、ただ見下ろしているような気配。
「随分と、悩んでいるようだな」
 目を閉ざしたまま、呟く。
「………」
 返事はない。
「この際、僕に話してしまったらどうだ? 真樹が望むなら、このまま聞こう」
 低いため息。真樹が横に腰を下ろした。
「夜見は何でもお見通しなんだな。いいよ。目を開けて聞いてくれ」
 目の前にあるのは、夜の世界。僕の足先がわずかに月の光を浴びていた。
「夜見は親父と二人のとき、何しているんだ?」
「…何が知りたい?」
 僕が信志と二人でいることは、少ない。斎主に会うのは、大抵、弓月夜見の方だ。
「うすうす、感づいてはいるんだ。何度か、その……」
「見たことがあるわけか」
 静かなつぶやきに、真樹は顔を膝に伏せた。
「実際に目にしたのは、ついこの間だよ。今まで何度か、夜見の声を聞いたことはあったけど……」
「……それで、何を悩む? 今更驚くようなことではないだろう?」
「すっげぇ衝動だった……。信じられねぇくらいに…。好きとかそういうのじゃなくて、自分にこんな感情あったのか? って思うくらいに」
 それはきっと、引きずり出されたもう一人の真樹。ふだん押さえているはずの、欲望。
「真樹。弓月夜見が僕の本性だってことは、わかっているな?」
「ああ…。知っては、いる」
「真樹、……僕は生まれたときからこんな身体だったわけじゃない。少なくとも外見の年齢くらいまでは、ごく普通の人間だったんだ」
 といっても、当時の記憶はない。
忘れることが許されなくとも、封じてしまうことはできる。だから、自分で封じた。決して思い出すことがないように。
それほど、人間だったころの記憶は優しく、残酷だった。
「……やがて、時の流れと共に多くの感情が消えてゆく中、孤独感だけは消えなかった。逆に孤独感で満たされたといっていい」
 次第に僕の瞳が月色に変化する。僕の言葉が、弓月夜見の言葉になっていく。
「斎主は、この身を清める。身に宿った汚れも、怒りも、孤独感も、すべてを清め消し去る。人と生きてゆくには、感情が必要だ。だが、忘却の叶わぬ我には、感情が邪魔だ。下手に力を持つぶん、蓄積された感情に流されてしまうと、とんでもない事態を引き起こす」
 だから、すべてを清め、消し去ることが必要になる。
「え? …弓……月…夜見っ…。いつの間に……」
 顔をあげた真樹が、目を見開いた。
「そう身構えるな。これほど穏やかな気分になったのは、久方ぶりのこと」
「…?」
 ためらいが、真樹に触れようとした指先を止める。既視感。違う。これは、予見。
視界が倒錯をおこした。

封じられた弓月夜見の身体。
眠りつづける僕。
泣いている真樹。
血を流して横たわる信志。
そして、僕に手を差し伸べる真樹。
笑いかける幼い子供。
……桂夜と名づけられた子供は真樹の力を受け継いでいる?
狂ったように荒ぶる弓月夜見の声。
月食。

「おまえは……この……」
「弓月…?」
 起こるかもしれない未来を垣間見た弓月夜見が、急速に身を隠す。
僕の視界は今までと何も変わらない。先程見たものは、忘れなければならない。
起きてはならない未来と、どこかで願う未来。忘却……封印…。
 真樹ノ記憶ヲ道連レニシナケレバ…。
「あれ? もしかして、夜見?」
 戸惑う真樹に、微笑みかける。
「真樹が望むなら、僕は相手をしてもいいんだけどね」
「なっ……」
 真樹の動揺が手に取るように伝わる。……面白いかもしれない。笑顔のまま、僕は続けた。
「ただ、そっちのことは全部、弓月夜見の方に任せちゃっているから、初心者同様だし、どちらかというと、僕は穢れを嫌うし、でも、ちょっと興味あるし。……ああ、身体が覚えているかもしれないな。どうする?」
「…夜見ーぃ、おまえ、ふざけてるだろ?」
 上目使いで僕を見据える。
「いや、真樹がどうやら僕に欲情…」
「だぁーっ。 誰がっ。違うっっ」
 慌てて僕の口を手のひらで塞ぐ。自然、僕の目の前には上からのぞき込む真樹の顔。
「俺が悩んでいたのはっ、いつか俺も親父みたいに」
 瞬間、僕は真樹の手をはねのけ、彼の頭を抱え込んだ。
目撃したという、脳裏に浮かんでいる光景を吸い込む。
真樹の時間を、供え物を持ってきた時まで戻す。
 久しぶりの力の消耗に起き上がる気力も無くしてそのまま寝転がっていると、真樹の驚いた声が降ってきた。
「夜見っ。どうしたんだ?」
「なんだ、真樹。僕が木陰で寝転がっていてはいけないのか?」
「いや、別に…。あれ? 何だろ。俺、今日こそ夜見に話そうと思ったことがあったんだけど……」
 真樹は気になるのか、口元に手を添えたまま、しきりに考え込んでいる。忘却と封印の成功。
僕はだるい身体を無理やりに起こして立ち上がり、月光を浴びた。
「ど忘れする程度の話じゃ、たいしたことないな。どうだ、屋根の上へ行かないか?」
 差し伸べた手を真樹が掴む。力の酷使に伴う苦痛。
決して真樹には気取られないように……。
 すべてを見届けていた桂樹は、風音を秘めるように揺れていた。



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