聖魔月(for 春霧様)


夕方の色に染まった空に、月が輝きだす時間。
信志は、出生届を役所に出しに行ったまま、なかなか戻らなかった。
数日前に生まれた、信志の息子。真樹という名前に決めたと、うれしそうに語ったのは、僕が今日、目覚めてすぐのことだった。
あれから5時間ほど経ったろうか。

逢魔が時。

雲と風の悪戯か、月は凶相を帯びつつある。
魔が、近づいてくる。
母屋から、火のついたような激しい赤子の泣き声がした。
なんだろう、僕を呼んでいる。赤子に呼ばれている?
カタカタと、母屋の戸を鳴らす魔が見えた。
魔が、赤子に憑こうとしている?
「………」
突然激しく泣き出した赤子に、異常を感じ取りながらもうろたえる母親が見えた。
母親の不安げな表情。今、この家には彼女と赤子しかいないのか…。
魔が忍び寄っていくのが、はっきりと見えた。
「…しかたあるまい……」
僕は母屋に駆け入ると、月の神気で赤子に忍び寄る魔を除けた。一瞬、退魔の光が僕の顔を照らす。
「夜見様……?」
信志の妻は、僕のことが判ったようだ。
………流石と誉めるべきだろうか。
まだ物を認識できぬはずの真樹の瞳が、僕を写して泣き止んだ。
「ほう、賢い子だな……。女君よ、月水は残っているか? 産後の清めに使った水だ」
「いえ……」
今、ここで僕が魔に染まるわけにはいかない。ここには、斎主がいない。
魔が再び忍び寄ってくるのが解った。
先ほどと同じ手は、おそらく通用しないだろう。
月は魔に染まりつつある。
この部屋の近くにある、魔を拒むことのできるもの……僕の飲みかけの神酒くらいしかない。
縁側に置いた杯を呼び寄せた。瞬時に手のひらに現れた神酒は、ほんのわずか。
「真樹をしっかり抱いて信志が戻るまで動くな。これから、隠れるための結界を作る。だが、見つかれば、その子は、魔に憑かれてしまうぞ」
赤子を抱きかかえた彼女は、無言で頷いた。
残っていた神酒を指先にすくい取り僕の神気を込めた後、彼女のまわりに神酒で円を描く。
パシン…という乾いた音を立てて、僕の作った結界は、親子を隠した。
あとは。
できるだけ魔を誘いながら、染まらずにここから退かねばならない。
魔に染まった僕は、きっとあの結界を壊して赤子に魔を植え付けてしまうだろうから。
「どこへ行こうというのだ? おまえ達を受け入れる僕は、こっちだよ」
境内に降り立って魔を誘う。
指先に、足首に、誘われた魔が絡み付いてくる。
魔が与えてくれる快楽に流されまいとするのは、苦痛を伴った。
甘く、僕を誘う声。
弓月夜見が「魔に逆らうのはやめろ」と、囁く声まで聞こえる。
視界の先に、薄暗くなった石段を歩く信志の姿が見えた。
「たわけ。何をしているっ」
信志に告げたのは、僕か弓月夜見か。
事態に気付いた斎主が妻子のもとにたどり着くのを見届けて、僕は弓月夜見に全てを譲った。
「…このような苦痛に……よくも耐えたものよ。夜見に免じて、あの子は見逃してやろう…」
弓月夜見のそんな独り言を、僕はどこかで聞いていた。



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