朧月


雨がさらさらと舞い落ちている。
霧のように降りかかる雨の中に立つと、衣が水を含んでいく様子を肌が教えてくれた。
春の雨夜。
けれど、この雨はすぐに止む。あと半時もすればきっと…。
「夜見っ、何やっているんだよ。カゼひくぞ」
タオルを持った真樹が、縁側で僕を呼んだ。神である僕が風邪をひいたりしないことは、彼だって分かっているだろうに。
人の優しさは、温かで愚かだ。
「せっかく雨を浴びていたのに……」
「やめろよ。現代の雨は、排気ガスとか酸性雨とか、とにかく綺麗な水じゃないんだぞ」
差し出されたタオルで、肌に纏いついた水を拭き取りながら、答える。
「そうだな、今の雨水は、ひどく病んでいる。だが、水道水よりずっといい。水道を通った水は死んでしまっているからな」
「その水道水を飲んで生きてる俺達は、どうなるわけ?」
人は死んでしまった水を飲んでいる。それでも人は生きてゆける。
綺麗で生物が何一つ存在しない殺菌処理された水。
「他の食べ物で命を補っているんだろう?」
もっとも、死んだ水に慣れてしまった人は、生きた水や病んだ水を飲むと体調を崩してしまうほどに身体が弱っているらしい。
 病んだ水を静かに受けとめてゆっくりと癒しながら病んでいく大地。
病んでいく大地を照らす清浄な月光。
「あれ? 晴れた?」
 真樹は水滴を青白く浮かび上がらせる月を見上げた。
雲間からさしこんだ光は、雨の名残をまとって霞んでいる。
「朧月か……。……? 大丈夫か? 真樹」
 恐らくは、月が姿を見せたと同時に影響を受けた僕。真樹がぎこちなく僕から視線を逸らした。
「雨に打たれて濡れたままのソレは、反則だ……。すっげぇ艶ありすぎっ。夜見は今夜、俺の手の届く範囲に立ち入り禁止っ」
 そう宣告して雨水を吸い込んだタオルを受け取ると、母屋に戻っていく真樹。
彼は気付いているだろうか。
先ほど彼が言葉と供に無意識に自分の周囲に張り巡らした結界。
斎主が弓月夜見から身を守るために作る結界と同じものだった。
僕には踏みこめない領域。
 雨上がりの朧月は、霧のような光を注いで孤独に空を進んでいた。



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