真木月


衣服の乱れをそのままに、僕は立ち上がった。
見下ろした視界に映る、白い肢体。
僕が育てた、大切な大切な斎主。
聡明で優しく、素質も十分にあったはずの娘。
「桂? 大丈夫か?」
 抱き起こそうとした指先に、確信とためらいが流れる。
忘れられるはずが無い。弓月夜見の中で僕が必死で押しとどめようとした、絶望の叫び。
もう一人の冷酷な僕は、この娘に魔を植え付けた。
魔に狂った僕は、娘の中にあった心の隙をみつけてしまった。
魔に染まり、少しの甘えも許さない弓月夜見が、斎主に与えた制裁。
 ほんの一刻前まで僕の体内で荒れ狂っていた魔が、彼女の中で息づいている。
祓えるだろうか?
『……否。』
どこからか、冷酷な囁きが聞こえる。
『…魔は、彼女の中で根付いた。無駄だ……』
桂に触れた指先が、ちりちりと焼け焦げるように疼く。
『これはすでに、触れてはならぬものに成果てた。あきらめるがよい……』
弓月の言葉を無視して、僕は桂を抱きかかえた。触れた部分の痛みは、僕のものか彼女のものか。
「夜見? ごめんなさい。魔に染まった貴方を止められなかった…」
 彼女の吐き出す言葉が臭気を発するほどに、彼女が弓月から受け取った魔は強大で。並みの人間なら、とうに息絶えてしまってもおかしくないほどで。
それは同時に、彼女の持っていた類稀な能力の証でもあったけれど。
「一瞬、夢見てしまった。こんなことになれば、弓月から見捨てられることも夜見を悲しませることもわかっていたのに」
 彼女の目にある涙は、苦痛のためか僕のためか。
「夜見、月水をもってきたよ」
 まだ幼さの残る次期斎主が、恐る恐る僕に月水を差し出した。桂の弟、頼真。
恐れを露にしているのは、魔に狂った僕に傷つけられたから。歓喜の表情で斎主を苛み、その体内に魔を植え付ける一部始終を目の当たりにしてしまったから。
 受け取った月水を、桂の口に含ませる。けれど、魔に蝕まれた彼女の身体は、祓いを享けつけずに苦しむばかりだった。そして、清浄なままの月水を吐き出してしまう。
『…無駄だ。深く根付いた魔は、もう切り離せぬ…』
 苦しみながら、声にならない悲鳴と喘ぎを続ける人間。僕の大切な……。
『……この者は死ぬまで苦しみ続ける。楽にしてやろう…』
 もう一人の僕の囁きに、頷くことのできない、僕。ためらい。
まだ救えるかもしれない、そんな人間みたいな愚かな希望が、彼女を苦しめ続け、僕を苦しめ、見守る頼真を苦しめていく。
 月が沈んでも、もう一人の僕から彼女の命を守り続けた僕は、次第に力を消耗していく。
 そして、月の出た夜。
『………よいな?』
 弓月の黄色の眼光が、彼女の瞳に映っていた。桂が微笑む。やめてくれ、といいかけた僕。
『あきらめよ。……始末に終えないところは、人間そっくりだな』
僕の行動が絡め取られていく。意識が沈んでいく。
 弓月の手が彼女の体内に宿る魔を引き裂いた。まさしく断末魔の悲鳴。魔の中から、桂の魂をそっと取り出す。
 死と再生。それは月が司るもの。
「お願い。夜見に忘れさせてあげて。貴方様だけが、知っていてくださればそれでいい。私はここに居たい。夜見と共に」
『いいだろう。……そこへ宿るがいい』
 それは、境内に芽を出したばかりの桂樹。


 さわさわと鳴る葉擦れの音に、僕は天を見上げた。なんだろう。
「夜見? どうした?」
 斎主の真樹が、縁側から僕を呼ぶ。
「時を越えた気分だ。…久しぶりだからだろうか。何か、今、封じていたものを思い出したような気がしたんだが…」
 真樹は、縁側に座り込んで、空を見上げる。
「そのうち、桂夜が、夜見の食べ物持ってくる。…まあ、夜見にとっては、その樹とも10年ぶりだよな。その樹、夜見に再会して、喜んでいるんだよ」
 10年の時間を僕に捧げた斎主、真樹。
 もしかしたら、僕の代わりをしていた10年間で、真樹は僕以上に僕のことを知ったのかもしれない。
「来た来た」
 面白そうに息子を見守る真樹の横顔。
 それは、多くの物事を知り、あえて口を閉ざす者だけが持つ雰囲気を纏っていた。



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