下弦月


夜が明けても空に残った朝月。
半月の形のものは、下弦の月という呼び名もある。
日々、欠けてゆく月の多くがこの名称の範囲に入る。
「夜見、万葉集の一巻にある、ヒムカシノノニカキロヒノタツミエテカヘリミスレハツキカタフキヌって歌、知っているか?」
「……真樹、それはどこの国の言葉だ?」
唐突に質問され、僕は戸惑い気味に真樹の手にしているノートを見た。
「あれ? 読み方間違えたかな? 万葉仮名だから、読み方はあっていると思うけどなぁ」
どうやら、万葉仮名で書かれてた和歌を、意味もリズムも無視してそのまま読んだようだ。
どこかの資料をそのまま書き写してきたのだろう。
「そんな棒読みされたら、作者もさぞかし無念だろうな。見せてくれ」
受け取ったノートには、いくつかの和歌が万葉仮名で書き写されていた。
古典の選択課題なのだそうだ。
「ああ、人麻呂の歌か。東の野に炎の立つ見えて顧みすれば月傾きぬ、だ。意味は…」
「ストップ。正しい読み方さえ解れば、意味はできるって。……なるほどね、今日みたいな朝月を詠っているわけか。しかし、つまらない和歌だな。どうやって鑑賞文書けばいいんだ?」
東の野に朝日がさしこむのが見えて背後を振り返れば、月が西の空に沈みかけている。
つまらない和歌といわれてしまえば、それまでだが。
「人麻呂は、天皇を称える和歌を得意とした宮廷歌人だ。もうすこし深読みすれば、どんな解釈もできるぞ。野に立つ朝の光は何を象徴しているか、沈みゆく月は何を表わしているか……」
言葉しか残らなかった和歌。
詠まれたときには、様々な人の気持ちと思惑が絡み合っていた代物。
時と場所によって、さまざまな意味合いを持った言葉たち。
「なるほどね、つまり、状況によっては、恋の歌にも哀悼の歌にもなるってことだ。夜見は、この和歌の真相、知っているんだろ?」
知っているのは、弓月夜見。僕は、知らない。
「嫌いな和歌ではないな。込められている想いが、懐かしい」
真樹はしばらく僕を見ていたが、何も言わずに今朝提出しなければならないという作文を書き始めた。
月が沈む。
「僕は、眠るとしよう」
立ち上がって寝所へ向かう僕に、真樹は手を止めて座り直すと、深く礼をした。
僕が毎日眠る前に、次期斎主と交わす儀式。
無言の挨拶。
僕は静かに眠りに就いた。


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