ペルシア戦争に関連して…テルモピュライの戦い




 暮れゆく街並みの中で、夜の賑やかさに溶けこんでいる青年が、囁いた。
「オト、テルモピュライの英雄達の話を知っているか?」
 市民に混じって酒場へ向かう途中の唐突な言葉。
 若き元首の意図を汲み取れなかったオトは、首を横に振った。
途端に、青年の顔がほころぶ。
 道ゆく人々は、気付くだろうか。
たった今、とても純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべたこの青年が、数年前に元首の地位に就いて以来、ローマ随一の名君と呼ばれているネロであると。
「そうか。例の酒場までは、まだ、だいぶ歩くんだろう? せっかくだから、これから語ってやる。あの、素晴らしいギリシアの、遠い昔の英雄達の話だ」
 幼い頃より演劇役者を夢見ていたという元首は、芝居がかった口調と身振りをまじえて、遥か遠い昔の物語を静かに言葉にかえていった。

◇ ◇◇◇◇

古戦場テルモピュライ。
 テッサリアの野原からピンドスとオトリュス山をつなぐ山路を抜け、しばらく歩くと、木々の間から1つの石像が見える。
 孤高に佇む戦士の石像。
石の戦士は、長槍を大空に高く掲げ、何も無い虚空を見据えている。
まるで何かを討ち果たそうとしているかのような、真剣な、しかしどこか悲しげな、戦士の表情。
 かつて、この場所で幾千幾万もの人々が戦い、傷つき、逝った。
 この地に立つ石碑は、石碑家シモニデスが、ギリシア諸国の人々の想いを受けて造ったものであるという。

◇

 それは、ローマがまだ歴史の表舞台に顔を出す前。
紀元前500年から始まった、ペルシア戦争。
 大帝国ペルシアが、更なる領地の拡大を図り、ギリシア地域にあった国々へ侵攻を繰り返した戦い。
 ギリシアは、まだ小さな都市がそれぞれ小国家として覇権を争っていた時代。
 1度目の侵攻で、アテネと友好関係にあったイオニアは、ペルシアに敗れ、滅び去った。
 2度目の侵攻では、マラトンの戦いにおいてアテネが敵討ちに成功。
この時、42.195キロを走りぬいた連絡係は、後世のスポーツ競技「マラソン」の起源となる。

 そして、紀元前480年。

 ペルシアという共通の敵に、ようやくギリシアの国々が、「ギリシア同盟諸国」として協力をはじめた頃。
 ペルシア王クセルクスは、3度目のギリシア侵攻のため、大軍を率いて船出した。


 夕闇が空に深く影を落とした。
 ギリシアへ向けて快調に進む船の甲板。
ペルシア王と戦略について語っていたデマラトスは、告げた。
「わたくしの心配は、ただ1つ。アテネと対等の勢力を持つスパルタでございます」
「スパルタ?」
「はい。他のギリシアの人々は、何とでもなるでしょう。しかし、彼らスパルタ人は、必ずや我々に刃向い、戦いをしかけてきます。スパルタ軍は、ギリシア最 強の軍団。あなどってはなりませぬ」
 ペルシア王クセルクスは、これを鼻で笑った。
目の前の海には、率いる船がひしめいている。
「デマラトスよ、我々は今、5万の兵がいる。後に合流する予定の軍を含めれば、200万は超えるだろう。大帝国たる我らと、とるにたらない小国1つ。何を 案じることがあろうか」
「お言葉ではございますが、ご存知のようにわたしは、かつてスパルタの王位についた者。その強さは、誰よりもよく心得ているのです」
 波の音。
 相変わらず船がひしめき合う海を眺めているペルシア王は、かつてのスパルタ王の言葉を黙って聞いている。
「スパルタの主君は、王ではなくノモスと呼ばれる法律なのです。いかなる大軍を前にしても決して背を見せず、おのれの部署を制するか討たれよ、という法に 全員が従う。スパルタの男は皆、6歳から戦闘訓練を受けつづけ、耐えられぬものは生きられぬ国家。…ゆえに、スパルタ軍はその統率、戦闘能力において、世 界最強と謳われるのです」
 デマラトスは、そのスパルタの人々に自分が追放されたことを思い起こし、表情を暗くした。
ペルシア王の方は、口元に不敵な笑みを浮かべている。
が、いずれにしろ、すでに闇の広がった甲板では、互いの表情など見えなくなりつつあった。
「世界最強とは、思い上りも甚だしい。が、そうであってこそ、戦い甲斐があろう。……デマラトスよ、お前はスパルタを誇大評価しているのだ」
「いえ、そのようなことは……」
 それまで、視線を落としていたデマラトスが、顔を上げて声音を変えた。
「ペルシア王よ、もしも我々がスパルタ軍を打ち倒したなら、ギリシア本土において我々の前に立ちはだかるものは全て取り除かれ、ギリシアはペルシアのもの になるでしょう」
 今度こそ、ペルシア王は声も高らかに、デマラトスの言葉を笑い飛ばした。
「はははっっ。……これほど小さなスパルタとやらを誇大評価しているとはな。広いギリシアにあるたった1つの小さな軍隊を倒したからといって、何が変わ る? 馬鹿馬鹿しい」
「変わります」
 その声には、明らかな自信が含まれていた。
「生まれながらに戦士の彼らには、それだけの勇敢さと力がある。この言葉が間違っていたなら、この身をどのように愚して頂いてもかまいません。それでは。 そろそろ兵達を見まわる時間ですので、失礼させていただきます」
 暗い甲板で、デマラトスの立ち去る足音が消える。
「いつまでも過去に囚われて…。愚かな……」
 それからしばらくは、ペルシア王の嘲るような笑い声が波間に響いていた。

◇

一方、スパルタでは。
 この時期に行われる「カルネイア祭」という神聖な行事が、出征の大きな妨げとなっていた。
 ペルシア帝国がギリシアに近づいているという知らせは受け取った。
しかし、戦いの準備は祭りの準備と重なって大幅に遅れ気味だったのである。
そんな中、王宮の会議室では、数人の老人と精悍な目つきの男性一人が向き合って話していた。
「レオニダス王よ、このたびの戦は、いかがなさるおつもりかな?」
 そう告げた大長老の言葉は、さして感情も含まれずに事務的だった。
一人向き合っていた男性が、答える。
「われらが出征しなければ、他の国々では一人たりと兵を出そうとはしません。このままでは、ギリシアは協力する前にペルシアに滅ぼされてしまうでしょう。 とりあえず、守備隊をここへ残し、私は300人の精鋭を連れ、先制部隊としてテルモピュライへ赴きましょう。長老の方々、よろしいか?」
 大長老の隣に座っていた老人が、声を発した。
「300人とは、少なすぎぬかな? ほとんどの兵が、ここに残ることになろう?」
「いいえ、これはギリシアの国々からの出征を促し、力を結束させるために赴く軍です」
「うむ」
 聞いた老人が頷くと、端にいた老人が次の質問をした。
「して、その300人は、どう選ぶ?」
「私の親衛隊より、後を継ぐべき子供のある者を選びます。聞けば、ペルシアはかなりの大軍とか。いずれ戦うことになれば、恐らくは、命を落とすものも多く 現れましょう。王の親衛隊を務めるような優れた血筋は、残さなくてはなりません」
 スパルタの王位にいるレオニダスは、迷うことなく自らの考えを長老達に告げる。
彼の計画に間違いや不備があれば、経験豊富な長老達が指摘し、意見を述べる。
それが、スパルタの法だった。
「デルフォイの巫女の神託はいかに?」
 神聖不可侵にして最高権威の神殿、デルフォイ。
その巫女の神託は、ギリシアの大地に住む人々の尊敬と信頼を受ける神の言葉。
「これに」
レオニダスが合図をすると、従者の一人がデルフォイの神託である詩文を読み始めた。
従者の声は、震えていた。

「国広きスパルタに住まう民よ 
汝らの誉れ高き大いなる町は 
ペルシアの子に滅ぼされる 
さもなくば 
王の血をもって 
国土は悼むことになろう
攻め来る者はゼウスの力を持つ故に
獅子の力を持ってしても
これを制するに能わず
敵はどちらかを成し遂げぬ限り
その勢いは止まらぬであろう」
 一同が、息を飲んだ。
沈黙が、一面を覆う。
「……な…んと!」
 まず沈黙を破ったのは、大長老だった。
驚愕の瞳でレオニダス王を見る。
レオニダスは、目をそらすことなく大長老を見つめ返した。
その真っ直ぐな瞳の中には、明らかな決意が宿っている。
「…スパルタが滅びる……王の死…どちらかが必ず起こると……そんな…そのような……」
 うめくように、別の長老が神託の内容を確認した。レオニダス王は、何も言わずにその言葉に頷く。
「…おぬし、おぬしは……」
 大長老のかすれた声は、言葉にならずに王宮の会議室に満ちた。
人々を取り囲む無言の言葉。
レオニダス王は、歴代の王たちと比べても、特に有能で人々からの信頼も得ている人物である。
 静まり返った中で、長老達を見渡したレオニダス王は視線を落とし、静かに語った。
「我が命でこの国が救えるというのなら、喜んでかの地へ赴きましょう。今度の戦いは、この身にかえて人々を守る戦い。生きて帰ることは叶わぬ、私の最後の戦 い。これで、私が親衛隊をたった300人、しかも後継者のいる者のみを選んだ理由がおわかりでしょう」
「し、しかし…無理にレオニダス、お前でなくとも…」
 口を開いた老人の言葉が終わる前に、レオニダス王は立ち上がって真っ直ぐな視線を再び長老達に注ぐと、よく通る高らかな声で告げた。
「デルフォイの神託は、絶対です。ゆえに、どの国々もデルフォイを恐れ、敬う。ならば、私はスパルタの王として、神々の与えた私の役目を果たすまでのこと。こ の国を滅ぼさせはしない」
 返す言葉も見つからぬ長老達を残して、レオニダス王は会議室を去り、しばらくして日が沈んだスパルタの町にも、夜が訪れた。

◇

 ペルシア王クセルクスの大帝国軍は、進軍しながら通過する占領諸国から兵力を補給する作戦をとっていた。
そのため、ギリシアのテルモピュライに近づく頃には、水軍兵51万7610人、陸軍兵180万人、という膨大な軍隊になっていた。
船出をした時の、約50倍の戦力である。
 ギリシアに送り込んだスパイからの情報を得た、クセルクス王は、デマラトスを呼び寄せて、嘲りを含めた声で告げた。
「つい先ほど、なかなか面白い話を聞いてな、デマラトス。スパルタの兵の数は、300人だそうだ。さてさて、お前の贔屓するスパルタは、たった300の兵 で、わが帝国にどのような戦いを挑むつもりであろうな」
 明らかに皮肉と侮蔑の含まれた言葉。
デマラトスは至極真面目な顔で答える。
「偉大なるペルシアのクセルクス王よ。スパルタ人を、たかが300と侮っていれば、必ずや痛い目を見ることになりましょう。彼らには、彼らの戦略があるは ず。数に惑わされてはなりません。油断は禁物でございます」
 かたくなにスパルタの強さを語るデマラトスの態度に、クセルクス王は気分を害して告げた。
「馬鹿馬鹿しい。とるにたらない小国スパルタの兵士一人が、大帝国ペルシアの兵士一万人を倒すとでも云うつもりか? デマラトス。おまえは、我が軍の兵士 達がギリシアに劣ると思っているのであろう? それは、この上ない侮辱であること、わかっているのであろうな?」
 怒りの含まれた言葉に、デマラトスは姿勢を低くして答える。
「そのようなつもりは、微塵もございません。お気を悪くされたのであれば、もう何も言いますまい。お許し下さい、偉大なペルシア帝国を統べるクセルクス王 よ」
 この時、ペルシアの総兵力は、230万を超えていた。

◇

 さて、こちらはその大帝国ペルシア軍に敵対する、テルモピュライに集ったギリシア同盟諸国軍である。
スパルタの重装歩兵300人を先頭に、各国から出征した兵は3600人。
総兵力は、4000に満たないという状況だった。
 それこそ、ペルシア軍の足元にも及ばない兵力である。
このため、ペルシアの大軍が上陸し、テルモピュライに迫るや否や、ギリシアの寄せ集めの軍は多いに動揺し、撤退意見が頻繁に囁かれはじめたのである。
 夜の白む頃。
同盟軍の盟主レオニダス王は、各国から軍を率いてきた指揮官を集め、評議を行った。
「今、我々ギリシア同盟軍は、分裂の危機にあるにもかかわらず、敵の軍勢はすぐそこまできている。そこで、皆の意見を聞きたい」
 レオニダスの言葉を待ちわびていたように、一人が口火を切った。
「ここはひとまず撤退し、体勢を立て直すべきだ。このままでは、我々は無駄死にするようなものだ」
 言葉が終わらぬうちに、別の声がとぶ。
「無理だ! 時間が足りぬ。 ペルシアの奴等は、すぐそこまで来ているっ! わざわざ、敵の道案内をするようなことは、できぬ」
「では、ここで、討ち死にしろというのか? 我々は圧倒的に不利だ」
 更に別の声が怒鳴り返すと、悲観的な呟きが答える。
「いまさら、撤退してどうなるというのだ。もう、駄目だ。ギリシアは終わりだ」
 また、別の声が加わる。
「いや、違う。ここで撤退し、策を練るのだ。良い案があれば、我々の数でも勝てる」
 と、前向きな言葉を嘲るような声が、言い返す。
「馬鹿な。できるわけがなかろう。ここで逃げたら、少なくともこの周辺の国々は、ペルシアに滅ぼされるのだぞ」
「逃げるのではない。勝つために後退するだけだっ!」
「ここから我々が去れば、ペルシアの奴は止まることなく進み続ける。ペルシアが進軍すれば、それだけ我々の兵力が減っていくことに、なぜ気付かない? ま さか、おぬし、臆したから先程から撤退だ後退だと騒いでいるのではあるまいな?」
「なんだと? 貴様、もう1度言ってみろっ」
 小競り合いを始めた二人の指揮官がきっかけとなって、評議は喧騒に包まれた。
「ええい、ここを見捨てることなど、できぬ」
「取られたら、取り返せばよい。負け戦など、できるものかっ!」
「だから、策を…」
「無理だ。みすみす兵力を失うわけにはいかぬ」
「まだわからぬのか。貴様っ」
「なんだと、いい加減にしろっ」
 それぞれの意見の食い違いは、武力行使に発展しそうな険悪な雰囲気を生み出していた。
と、そのとき――。
「静まれっ!!」
 それまで何も言わずに、黙って飛び交う声を聞いていたレオニダスの声が、空気を切り裂いた。
 一同が、静まりかえる。
 各国の指揮官達が一目置く人物。
険悪な雰囲気は、一転して彼の発する言葉への期待に変わった。
レオニダスが同盟軍の盟主になり得たのは、彼なら、事態を最善の方法で解決できるのではないかという期待を抱かせる何か。
 やがて、レオニダスは正面を見据えて告げた。
「皆の意見、不安、思惑は、おおよそわかった。よって、この部隊は解散する」
 一瞬、指揮官の全員が息を飲んだ。
直後に湧き上がった反発の声。
抗議を手で制して、レオニダスは言葉を続ける。
「まあ、最後まで聞け。部隊は解散する。が、我々スパルタの軍隊はここに残る。して、時間稼ぎをしよう。皆は自分の国に戻り、戦えぬ婦女子を安全な場所へ 移動させ、体勢を整え、更なる軍備の拡大と同盟の結束を図ってもらいたい」
 一同が、ふと視線を落としたレオニダスを見つめた。
静かな声が続く。
「……スパルタには既にデルフォイの神託が下ったのだ。だからこそ、私は後の戦いのために、戦力の多くをスパルタに残してきた」
 顔を上げたレオニダスが、一同を見渡す。
「やがて、ギリシア全土が一丸となって戦いに臨む時が来るだろう。私は、その時にこそ、皆に活躍し勝利してもらいたい。今はまだ、時期尚早。神々は、スパ ルタがここに残ることで、ギリシアが守られると告げているのだ」
レオニダスの決断に、異議を唱える者はいなかった。
 終結していた同盟軍は、解散した。
 かくして、テルモピュライには、300人のスパルタ兵が残った。

◇

紀元前480年。
午前10時前後に、歴史に残るテルモピュライの戦いは始まった。
180万の兵士を率いるペルシア陸軍に対したのは、300人のスパルタ兵。
勝敗はすぐに決すると思われた。
が、レオニダス率いる軍は少数ゆえに機動力に優れ、どの兵士も死を覚悟し、人間とは思えぬほどの力を発した。
 何物かに憑かれたかのように、大軍の中に突き進むスパルタの一団は、一糸乱れぬ重装歩兵特有の統率力と守備力を最大の武器とした。
その結果、翻弄されたペルシア軍は、乱れ、混乱した。
 大軍の混乱は、生きながらにして味方に踏まれたり押しつぶされたりするという犠牲者を生み出し、混乱の中で振り回される味方の武器に倒れる兵士も少なく なかった。
いや、スパルタの犠牲者よりペルシアの犠牲者が、圧倒的に多かった。
 スパルタの一団が大軍の中を動き回るたびに、ペルシア軍の混乱は広がり、ペルシア兵の犠牲者も増えた。
「何をしているっ。敵は一握りのみではないか」
 意外な惨状に、ペルシアの将軍達は慌て、兵をけしかける。
 あらゆる方向から攻撃を受けながらも、ペルシアの大軍をかき乱し続けるスパルタ兵。
 隣の者が倒れても、決して立ち止まらずに進む槍と鎧の集団。
しかし。
 しばらくたつと、ペルシア軍は、味方の犠牲者を増やしながらも、確実にスパルタ兵の数を減らしはじめた。

「レオニダス王っ」
 絶えることなく八方から降りかかるペルシアの攻撃が、レオニダスの手にしていた槍を折った。
とっさに庇った兵士が、肩に傷を受けながらも、変わりの白刃を渡す。
「すまぬっ」
 激しい戦闘で、多くのものが敵との距離を保てる槍という武器を失い、不利な白刃を手にしつつあった。
 それは、一瞬の隙。
 白刃の折れる乾いた音。
 スパルタ兵の間を縫うような槍が一本、折れた白刃を構えたレオニダス王の身体に吸い込まれた。
「レオニダス王っ!」
 悲鳴のような叫びに、スパルタ兵の動きが一瞬止まる。
 急所に敵の槍を受けて崩れ落ちる王の姿。
 何人かのペルシア兵が、息絶えて倒れたレオニダスの体を、スパルタ集団の中から奪うように引きずり出した。
「王の遺体が盗られたっ。王の遺体を取り返せっ」
 スパルタの一団が、突然向きを変え、隊形を変化させ、動き回る。
 大軍のさらなる混乱。
指揮官を失ったはずのスパルタの一団は、結束を崩すことなく、遺体を奪ったペルシア兵たちに襲いかかった。

 レオニダス王の遺体を巡る戦闘は凄惨を極めた。

 多くの仲間を失いつつ、王の遺体を取り戻したスパルタ兵達は、この後、取り囲み襲い来るペルシアの大軍の中で、4度の総攻撃に耐え抜いた。
そして、レオニダス王の遺体を持ってテルモピュライの丘へ上がった。
スパルタ兵の数は、すでに数十人に減っていた。
「王は、我々が一人でも多くのペルシア兵を倒し、奴等を足止めすることを願っていた」
 残った兵士達は、生き残ることなど考えていなかった。
「俺は、王に教えてもらった。俺達が、ヤツを食い止めた時間が、女達の逃げる時間だということだ」
 できるだけ長く戦うために、生き延びているのだった。
「それなら、オレも聞いた。しかし、オレは槍も刀も無くなってしまった」
 生きている間に、敵の数をどれだけ減らすことができるか、のみを考えている集団。
「まだ、拳が残っている。いざとなれば、敵に噛みついて食いちぎってやろう」
こうして。
 レオニダス王の遺体を丘の上へ運んだスパルタの残兵は、予想以上の反撃を見せる。
ペルシア軍は苦戦した。
 業を煮やしたペルシア王クセルクスは、弓矢隊に命を出した。
「大帝国ペルシアが、なんたる様だ。スパルタの王の遺体など、もうどうでもよい。矢の雨を降らせ、あの残党達を一網打尽にするのだ」
 戦いが始まってから一日が終わろうとしていた。
 非情な矢の雨。
武器も防具も失って素手で戦っていたスパルタ兵士。
 杭のような雨は、浴びたスパルタ兵全員の命を奪った。
 レオニダス王率いるスパルタ軍全滅。
 このとき、生き残ったスパルタ兵を救出するために引き返してきた一人の指揮官と100人足らずの諸国の兵士がいたが、力及ばずに全滅の悲劇を目撃したと いう。

◇

 レオニダス王は死んだが、その目的は達せられた。
 すなわち、300人で180万の軍に多大な損害を与え、わずかな時間ではあったが、足止めを食らわせたのである。
 ペルシア帝国の陸軍が、スパルタの300人と戦い、軍隊を建て直し、再び進軍を開始するまでの時間は、多数のギリシア諸国の人々を救い、なおかつ共通の 敵に対してより強い結束を生むことになる。

 数ヶ月後。サラミス海域において、アテネを盟主としたギリシア連合艦隊は、わずか20万の兵力で、51万のペルシア帝国海軍を撃滅させ、大勝利をおさめ る。

 さらに数ヶ月後の、紀元前479年。
 スパルタ・アテネの連合軍は、プラタイアイの戦いでペルシア陸軍を撃破し、ミカエレ海域でペルシア残軍を撃滅。
これにより、ギリシア諸国の勝利という形で、ペルシア戦争は終わりを告げる。


   テルモピュライに建てられた石碑には、次のような文章が刻まれている。

……かつてこの地に 三百万の軍勢と戦いたるギリシア同盟軍三百の兵……
……旅人よ 行きて祖国の人々に告げよ 我ら 命守りてここに倒れたりと……

◇◇◇◇◇

劇場の役者のような仕草で、ネロは語りを終えた。
「どうだ?」
「ああ、まるで芝居のように惹きこまれたよ。さすがは、偉大な芸術家だ…ネロ? どうした?」
 ネロは、立ち止まって後ろを振り向いている。
訝しげに、背後を振り返ったオトが目にしたのは、街角を曲がってゆく女性の後姿だった。
「いい女だったのか?」
「……。欲しいな……」
「追いかけて捕まえるなら、今だぞ」
 先程までの子供っぽい、無邪気そうなネロの微笑が、一転した。
5歳年上で兄のように慕うオトに誘われて夜の街を歩き回る際、時折のぞかせるようになってきた、狡猾な視線。不敵な微笑。それでも消えぬ、気品と気高さ。
 母親と家庭教師の言いつけに従い、純粋無垢に育ってきたはずの若き元首は、世に出て悦びや自由を学ぶたびに、何かが変化していくようだった。
 追いかけようとしたネロの腕を、オトは反射的に掴んで引き寄せる。
「おい、なにをするっ」
「そんなに欲しければ、これから行く店で何人か見繕ってやるよ。ネロは、こっちの通りへ来たのは、初めてだろう? それとも、店まで我慢もできないのか?  あの女のかわりに相手をしようか?」
「ふざけるなっ」
 手を振り払って、後姿の女性が消えた角へかけてゆくまだ二十歳にもならない少年を、オトは苦笑して見送った。


 賢帝と言われたネロは、友人達に誘われて時折、夜の街に姿を現すことがあった。
しかし、最初の頃は身分を隠し、責務も忘れて一人の好奇心あふれる十代の少年としての行動が多かったため、周りの人々も若さ故と、黙認できる程度だったと いう。
 やがて、宮廷にいた一人の奴隷女性をきっかけとしてネロは、年の近いオトに出会う。
オトはネロに同性の悦びや、夜の街の遊びをもたらし、次第に強い影響を及ぼしていったと伝えられる。
二人が一人の女性を巡って袂を分かつ時まで。
 しかし、それはまた別の話である。



帰路