その日、夕暮れ時にエレアザル・ベン・ヤイールは人々を集めて説いた。
「勇気ある戦士たちよ。我々はかつて、神以外のいかなる者にも奴隷として仕えない決心をした。今、神は我々に最後の手段を命じられたのだ。我々は、これに
従い、妻子と共に、誇り高き自由人として、神の名誉を迎えようではないか。ローマ人どもは、我々の一人でも多くが奴隷になることを望んでいる。今夜、我々
は奴らを驚愕させ、我々神に仕える者の豪胆さを示し、奴らを賛嘆させようではないか。神の治める国へ、旅立とうではないか」
既に周辺はローマの軍勢に囲まれ、彼らユダヤ人には逃げる道など残されていなかった。
彼らは最後の夜を迎えた。
「じじ、ねえ、お話しして」
その夜、何も知らない子供達は、いつものように白髪の老人の回りに集まった。
「そうさなぁ……。遠い、遠い国の愚かな王たちの生きざまを、話そう……」
老人の穏やかな声に重なるように無邪気な歓声が上がる。
それがひとしきり止んだ後で、老人の声が静かに流れ出した。
「最初の者の名はネロといった……」
声は深い暗闇へ吸い込まれていった。
◇◇◇◇◇
歴史に残るローマの大火からおよそ2年後。紀元66年5月中旬。
キリスト教の聖地エルサレムで熱心党と呼ばれるを中心とするユダヤ人の反乱が起きた。
彼らはローマに戦いを挑み、周辺領域にいたローマの軍勢をことごとく打ち破った。
そして、当時のローマ最高権力者ネロが行った、キリスト教迫害を真っ向から非難し始めたのである。
その日、ギリシア旅行中であったネロは、ユダヤにおけるローマ軍敗退の知らせを受け、いささか動揺していた。
「我が軍勢が、たかがユダヤ人ごときに敗れただと? ケスティウスの大馬鹿者めがっ」
白いトガの裾を揺らしながら、声を荒立てて、立ち上がる。
「……いや、断じてあってはならん。キリストごときに、ローマが屈するなどとは……」
彼は周囲を見渡し、声を張り上げた。
「だれか、ケスティウスより有能な将軍はおらぬか」
答える者はない。
「ええい、コルブロを殺すべきではなかった」
そうつぶやいて、ふと、ネロは苦虫を噛み潰したように表情を変えると、正面から目をそらした。
正面には、そのコルブロの死体が横たわっている。
敗戦の知らせを受ける直前、息子の謀反の疑いによって自決を命じられた、有能な将軍であった。
臣下の一人がぎこちなく進み出た。
「恐れながら、ヴェスパシアヌスはいかがかと」
「ヴェスパシアヌス? あやつは好かん」
彼は、かつて親友のように慕っていた青年を思い浮かべた。
最高権力者となった自分を敬おうとしなかった青年。それゆえに、ネロから離れて行った友。
「まて……確かに将軍としては長けているかもしれぬな。よし、ヴェスパシアヌスに行かせよう。早速準備を始めるよう伝えておけ」
そう告げると、もうそのことには一切触れようとしなかった。
彼はその後1年以上、娯楽のためにギリシアに留まった。
◇
1年以上最高権力者不在の続くローマでは、ネロの退位を求める声が高まっていった。
やがてネロがローマに帰ると、重なるように、ガリア人の反乱が起こり、対処の策を練らぬうちに、属州のガルバ将軍が反旗を翻したのである。
「ガルバが裏切っただと? あのおいぼれがっ」
報告に腹を立てて怒鳴り終わらぬうちに、新しい知らせが届く。
それには、ガルバ将軍にしたがって、その他の将軍も次々と反旗を翻したことが語られていた。
「ええいっ。 どいつもこいつも」
彼は、グラスを床に投げ付け、家臣を追い払い、自分の周辺にあったものをことごとく破壊すると、床に手をついた。
息を乱しながら、低く、自嘲気味に言葉を紡ぐ。
「さあ、ネロ。どうする? ガルバにひざまずき、命乞いをするか? 民衆の前で引き裂かれるか? ……いや、どちらもこのネロにふさわしくない。逃げる
か? いや、逃げ切れるのか? ……どうした? ネロ。おまえはそれほど死ぬのが怖いのか? ……おまえはこの手で数え切れないほどの者を殺してきたでは
ないか。そう、実の母、生まれたばかりの娘や息子、そして妻さえ躊躇せず殺したおまえが、何を恐れる? 死ぬ? そうだ。だれでも死ぬのだ。それが少しば
かり早まるだけではないか。死ぬ? ネロが? このローマ皇帝ネロが?」
彼はそのまま翌日まで部屋にこもっていた。
そして、彼は知らなかった。
宮廷のほとんどの者がこれを機に、彼の元から逃げ出して行ったことを。
翌朝早く、ネロは警備兵を声高に呼んだ。しかし、応答がない。
部屋から出てみると、警備の者はもちろんのこと、身辺の護衛をしていた者の影も形も無くなっていた。
金銭の類いも多く消失しており、急いで友人につなぎを取るが、全く返事がない。
「死ぬのを手伝ってくれるヤツさえいないのか」
落胆したネロに残ったのは、解放奴隷パオンと稚児スポルス、側近エパプロディトゥスと伝令係の四人だけであった。
「ネロ様、私めは隠れ場所となる洞窟を存じております。今はそこへ身を隠した方が、得策かと」
パオンが、ささやくように言う。
「ああ……。案内してくれ」
ネロは力なく同意し、一行は人目を盗みながら、郊外の洞窟へ向かった。
一方、ガルバ将軍は、ネロを公開処刑するために、探索命令を出した。
そして、どこかから郊外の洞窟にいるらしいという情報を手に入れると、兵士たちは、すぐさまそこへ馬で向かったのである。
同じころ、洞窟ではネロが四人を前に、彼らしくもなく取り乱していた。
「刺客が、ここへ来るというのは本当か? いや、まだ最後の時は来ていない。ああ……スポルス、慰めてくれ。……いや、そんなことはいいのだ。刺客などに
命奪われるなど、我慢がならぬ。自決するぞ。いや……まだだ、まだ、自決するときではない。……ああ、違う。この震えは何だ? 何を恐れているのだ? あ
あ、誰か……誰か」
四人は何も答えず、すがるネロを見つめていた。
その様子にネロは急に静かになると、額に手を当てて亜麻色の髪をかきあげ、嘲笑しながら言う。
「はははは……不甲斐ない。こんな醜態をさらして何になる? ネロにふさわしくない、まったくネロらしくない。わかっている。思い出したよ……ネロはここ
で死ななければならない。そう、これが、10年前に自分が望んだ結末だ……」
言葉を聞いていた一同が、語られた内容に驚く暇も無く、彼は短剣を鞘から取り出した。
鋭利な刀身にネロの青い瞳が映る。
「エパプロディトゥス、介錯を」
いままでとは一変した口調で命じると、目を閉じ、芝居がかった動作で、短剣を握りしめた。
「早駆けに走る軍馬の蹄音わが耳を打つ」
そう呟いて上を向き、短剣を喉につき刺す。
紀元68年6月9日の夜明け。彼が皇帝についてから14年後のことだった。
◇◇◇
ネロの死から2カ月後の10月。
ガルバ将軍はローマに入城し、最高権力者となった。年齢はすでに七十三歳。
初めのうちは、ネロを退治したということで、持てはやされていた彼も、急に課税額を引き上げ、役人の報酬を減らし、吝嗇な人物であることが露見すると、
人々は次第に不平や不満を持つようになった。
これには、14年間ネロの統治下にいた民衆が、彼の減税政策に慣れてしまっていたという経緯もある。
また、ガルバは事あるごとに愚痴を言った。
「まったく、民衆という者は勝手なものだ。ネロがいるときは、倒してくれと言っておきながら、ネロがいなくなると、この有り様だ。おまけに、ネロの臣下で
ありながら、ネロを死に追いやった逆族だなどと抜かす輩もいるとは」
「ガルバ様、そのようなことをおっしゃられては……」
まだ幼さの残る側近が、心配そうに周囲を見回す。
「ふん、誰が聞こうと、かまわぬわ。お前だとて、陰ではこのワシを『禿げ』だの『鷲鼻』だのと言っておるのではないか?」
「そ、そのようなこと、ありません」
「口では何とでも言える。近ごろの若い者は、老いたものを敬うどころか、馬鹿にするからな」
彼の臣下は、皆、彼より若かった。
さらに数カ月経つと、ガルバは刺客に襲われることが多くなった。
そのため、身の安全を重視した彼は、滅多に公衆の面前に姿を現さなくなった。
宮殿にこもった彼は、自分の身の安全を確立しなければならないと考え、大きな間違いを犯す。
「私の命をねらう者は、オトだろうか。いや、ウィテリウスか? どちらでもいい。疑いのある者すべてに刺客を送ろう」
この安易な処置は、多くの将軍の反感を招いた。
そして、憤怒して立ち上がったのは最初に疑われたオトであった。
オトは『刺客にオトは殺された』という情報を撒き散らした。
この情報を信じたガルバは、すでに自分の周囲の者の大半がオトを支持しているなど、思いもしなかった。
「これで私は安心して町中を歩くことができるのだな」
「はい、謀反を企てたオトは死にました。ローマの人々は、ガルバ様の無事を祝福するため、皆広場に集まっております。お急ぎください」
ガルバは側近の言葉を信じ、護衛の者たちの先頭に立って広場へ向かった。
ところが、そこにいたのは、オトを次の最高権力者にと望む人々だったのである。
「これはいったいどういうことだ」
広場で突然刃物を持った人々に囲まれたとき、ガルバは叫び、護衛の者に助けを求めた。
ところが、護衛の者は誰一人として彼を助けようとしなかった。
紀元69年1月15日、老齢のガルバは、彼を嫌う群衆の前で刺し殺されたのである。
ネロの死からわずか七カ月しか経っていなかった。
◇◇◇
オトは、ネロの友人の中で最高の地位を占めた者だった。
二人の性格が一致したこともあるが、大きな原因は身体の交渉であったという。
細身で髭などはなく、顔付きも整っていて、身だしなみは女性のようだったという記録もある。
さて、ガルバを殺してローマ皇帝の地位についたオトは、ネロの胸像や立像を設置し、ガルバが追放していたネロの家臣たちを、元の職場に呼び戻した。
さらに、ネロが死んでから中断していた、『黄金の宮殿』と呼ばれる建物の建築工事を再開したのである。
彼にとってそれはすべて、ネロへの償いであった。
同じころ、ガルバより先に反乱を起こしたウィテリウスが、皇帝の座を奪い取ろうとオトに戦いを挑んできた。
「共同統治というわけにはいかないのか」
和平を断る書状を見たオトは、ため息混じりにつぶやくと、すぐに戦の準備を整えて出征した。
元来、彼は戦いというものを嫌っていた。
そのため、できることならばウィテリウスと和平を結び、ローマを共同統治したいと考えていた。
ウィテリウスはその弱みに付け込み、計略を立てたのである。
オトはその計略にまんまと嵌まってしまった。
「オト様、ただ今ウィテリウスの使いと申す者が、やって来ておりますが?」
「使い? 通せ」
この時オトは、和平できるかもしれないという期待を抱き、喜んで使者を迎えたのである。
「良く来てくれた。私がオトだ。して、ウィテリウスは何と?」
挨拶ももどかしく、オトは話を進めた。
しかし使者の言葉は不明瞭で、何を言っているのかよく聞き取れない。
そのうち、にわかに周辺が騒がしくなった。
人々のうめき声や剣のかみ合う音、馬のいななき、砂煙が舞い上がり、地響きがとどろく。
「何事だっ」
「ウィテリウスの軍勢がせめてまいりましたっ。目下抗戦中でございます」
「な……どういうことだっ」
オトは使者を見た。使者は自決して既にこと切れている。
「ウィテリウスめ、卑劣なまねを……」
「この場は危険です。どうか早々にお引き取りを……」
そこへ、ウィテリウスの兵が押し入ってくる。側近が剣を抜いて、それに応じた。
「スエトニウスっ、オト様をお守りしろっ」
「はっ。オト様、さあこちらへ」
部屋を出たところで、敵に対峙する。スエトニウスは舌打ちをして、剣を振った。
鮮血が飛び散り、おぞましい叫びが上がる。
オトの陣営内は激しい戦いによって、血臭が立ち込めていた。至るところに敵味方の死体が散乱し、切り落とされた手足が所々に転がっている。
その光景は、オトの心を深く傷つけた。
「何ということだ。自分の配慮が至らなかったばかりに……死ななくてよい者たちまで、死なせてしまった。……こんなざまでは、ネロに顔向けができない。こ
んな犠牲を強いてまで、皇帝になろうとは……馬鹿げている。まったくもって、馬鹿らしい。もはや、この身に生きる価値などありはしない……」
彼は、後方から次々と駆けつける援軍を退却させ、二線、三線、に待機している無傷の軍隊にも退去命令を出した。
それから手元にある一切の書類を焼き捨て、持っていた現金のすべてを生き残った臣下に分け与えた。
「何を考えておいでなのです」
「我々は、まだ十分に戦えます。それを、どうして……」
「案ずるな。おまえたちも今夜はゆっくり休むがいい」
危惧の念をいだく臣下に、彼はそう告げると、寝所に入った。
翌日、紀元69年4月16日、日の出とともに微かな、押し殺すようなうめき声が、オトの寝所から漏れた。
護衛官があわてて飛び込むと、短剣で胸を刺し貫きこと切れたオトが静かに横たわっている。
自らの不注意が招いた大勢の死を目の当たりにし、全ての自信を失った結果だった。
彼が皇帝になってからわずか3カ月のことだった。
◇◇◇
オトに勝ったウィテリウスは、皇帝の座に着くと、自分のための治世を始めた。
ネロですら一目おいていた共和制を完全に無視し、独裁態勢を確立して行く。
稚児の言うことに従い、あらゆる贅沢を尽くそうとした。
そしてまた、彼は人間を殺すことに執着した。
学友や高貴な生まれの者に声をかけ、宮廷へ招く。そしてあれこれ理屈を並べて犯罪者と見なし、あるときは腹を裂き、あるときは目を貫き、四肢を切り落と
し、その者たちが痛みに苦しみながら死んでゆく様を見て、楽しみとした。
栄耀栄華と残忍非道に溺れる彼を見て、人々は口々にいった。『ネロやガルバの方がまだましだった』と。
当然、そんなウィテリウスの治世は長続きしなかった。
彼が、ネロほどの人心を捕らえる才能を持ち合わせていなかったことも、理由の一つだろう。
やがて彼は、民衆の熱烈な支持を得たヴェスパシアヌスの軍勢と、ヴェスパシアヌスに寝返った自らの軍勢によって捕らえられ、紀元69年12月20日、中央
広場で嬲り殺しにされる。
◇◇◇
さて、話はネロがヴェスパシアヌスにユダヤ出征を命じたときまで逆上る。
彼は、早速準備を整え、送られた二軍団、八騎兵中隊、十大隊を率いて、属州の一つであるユダヤの地に赴いた。
ヴェスパシアヌスは屈辱や怨恨などには執着せず、復讐を企てるような性格は持ち合わせていなかった。
また、機転が利き、常に謙遜で、人に対しては温和であり、猜疑心で他人を傷つけることもしなかったという。
何より、罪のないものが死ぬことを心から嫌った。
彼がネロの親友となった所以、そして逆にネロから離れなければならなかった所以、である。
彼は、まず軍規を正し、軍の指揮力を上げ、ユダヤの地に着くと、その統率のとれた軍勢を動かし、自らも参戦し、あっという間に形勢を逆転させることに成
功したのである。
「将軍っ ただ今、ローマからの知らせが」
彼がユダヤ出征を命じられた2年後、ネロは自害した。
「……そうか。ネロが……」
「将軍、この期に乗じてローマに向かい、権力の座を奪っては?」
「何を馬鹿な。私にはそのような才はない」
彼は、部下がどんなに薦めても、自分から皇帝になろうとはしなかった。
そして、それはガルバが死んだときも同じだった。
「何故でございます、将軍には、最高権力者となる才気がございましょう」
「買いかぶるものではない。それに、人には運というものがある。おのずと運は訪れよう。それまで、私は待てばよい」
変化は、オトが自害したときに現れた。
「オトからの封書?」
封書を受け取ると、開いて目を通す。そこには、オトがウィテリウスの卑劣な策略にかかってしまった事と、オトの最後の決意、そしてウィテリウスへの復讐
と、国家を救ってほしいという願いが記されていた。
オトは死ぬ直前、ヴェスパシアヌスに全てを託したのである。
「封書では、何と?」
「おそらく……オトは死んだ。そのうち、『ローマの最高権力者ウィテリウス』から通達がくるだろう。ネロが14年間築き上げた国家か……。悪くはないな。
ネロの友であった者の最後の命、従うとしよう……どうやら運が来たらしい」
ここに至って、初めてヴェスパシアヌスの中に、『統治者』という文字がはっきりと浮かんだのだった。
ヴスパシアヌスが奮起すると、彼の名声は次第に周辺の属州に広がった。
オトに従っていた将軍たちは、ヴェスパシアヌスに従うようになり、ウィテリウスを見限って、ヴェスパシアヌスの支援をする将軍も加わる。
彼の軍勢は着実に数を増やしていった。
そしてヴェスパシアヌスがまだ属州にいるうちに、ウィテリウスは殺され、彼は自ら手を下さぬうちに最高権力者の地位を手に入れたのである。
皇帝となったヴェスパシアヌスは、ユダヤとの戦いを息子に託して、ローマに向かった。
紀元70年9月26日。ヴェスパシアヌスの息子によって、ついに聖地エルサレムは陥落、神殿は炎上、エレアザル・ベン・ヤイールの率いる人々は、マサダに
追い詰められたのである。
この功を理由にヴスパシアヌスは息子を呼び戻し、代わってシルファ将軍を置いた。
「なるほど。敵はあの岩山に立てこもっているわけか。ならば、周囲を包囲し、耐久戦(兵糧攻め)に持ち込むのが得策だろう」
シルファ将軍はマサダを包囲し、耐久戦に入った。
一方、ユダヤ人は夜間に包囲網の隙間をぬって食料を調達し、耐久戦に応戦した。
「居眠りでもしていたのではないか?」
「まさか。ご存じのようにここ一体は岩が多く、視界が効きません。まして夜間となると、どれが人間でどれが岩か、皆目見当もつかないのです。将軍、この
際、強攻手段に出たほうがよいのでは」
「しかし、あの城壁に囲まれた岩山を、どう攻めるのだ? 登ろうものなら、石つぶてがふってくるのだぞ」
「ですから、土と火を使うのです」
「土と火?」
シルファ将軍は攻撃用に高く土堤を築いて、その上からマサダの防壁を破城槌で壊し、火を投げ入れた。
それが、紀元73年のことである。
◇◇◇◇◇
「ヴェスパシアヌスの送り込んだシルファという指揮官は、こともあろうに、土を盛って山を築いた。そして、火種を投げ込み、たくさんの神の民が死ん
だ……」
「爺さん、そろそろ時間だ……」
老人の声を、青年が遮った。
「……そうか……最後まで聞いていた子供は、いなかったのぅ……」
老人は、安らかな寝息を立てる子供達を、哀しそうな瞳で見下ろす。
青年の戦士が、剣を抜いた。
「先にしてくれ。この子たちの姿は見たくない」
戦士はうなずいて、剣を老人の急所に一閃した。
血がほとばしり、老人は声もなく崩れる。戦士は老人から目をそらして、眠る子供達にねらいをつけた。
「あなた……」
若い母親が、涙をためながら戦士を見る。
「泣くんじゃない。この子たちのためなんだ。このまま生きていたら、この子たちはローマ人の奴隷として、一生を送らなければならないのだぞ」
「わかっています……」
戦士は何も知らずに眠り続ける子供達を、次々と刺し殺していった。
母親が、その亡きがらを声も無く抱きしめる。
「ごめんなさいね。こんなはずじゃ、なかったのに……」
母親の声は、途中で途切れた。戦士が、妻の身体から剣を引き抜く。
「神の国へ……」
残った戦士は、仲間の戦士と刺し違えて崩れ落ちた。
紀元73年。ユダヤ軍最後の拠点、マサダ陥落。立てこもっていた160人は、全員玉砕。
ユダヤ戦争は、ローマの大勝利で終わった。
帰路