秘扇月


珍しい夜。
夜見よりも先に我が目覚めてしまうとは。
「あ…と。弓月夜見の君? いかがなされました?」
気配を感じ取って母屋から出てきた斎主、真樹。夜見と同じく、その身に我を宿すこともできるほどの者。
「今宵は朧月か……。春眠、というわけでもあるまいに…」
小さな呟きに、真樹は目を眇めた。
「今夜は一段と風流な上衣を着ていらっしゃる……花見でも致しますか?」
桜が描かれた上衣。我の姿を見ることができる斎主は、我だけが目覚めた事に動じるでもなく、宴の準備を整えた。
「聞かぬのか? 気づいているだろうに」
「…では…………夜見をいかがされました?」
「目覚めぬ。これまでに3度ほど、このようなことはあるが。我が先に目覚めてしまった夜は、あやつは眠り続けたままよ…」
珍しい夜。夜見が目覚めぬ夜。
真樹は黙って酒を注いだ。杯を傾けて、ふと手を止める。
「この酒は?」
たおやかな味がする。今までに飲んだ酒とは、一風変わっている。
「銘は『千夜の想い』先日、知人から土産でもらった酒です」
「土産品か…」
ふと懐かしい気配。空を見上げる。
無邪気な夜見の影が走り去って行った。
「今のは…」
怪訝な真樹の声に、答えねばなるまい。
「今夜は自由なのだ……」
10年という月日、我とともにあった真樹には、十分過ぎる答えであったろう。
「3度…ですか」
真樹は知っている。夜見がかつて人間であった経緯。神という存在のために犠牲にした多くのもの。
我を宿すことで知ってしまった物事。限りある命を持つ真樹だから、許した知識。
共に永遠を過ごさねばならない夜見が、封じなければ生きられなかった知識。
遠い過去の人々の出来事。
それは同時に、今も生き続ける者の出来事。
今宵は、夜見が月読という縛から自由になれる夜。
「千夜の想い…か。なかなか面白い銘を与えたものだ」
飲み干した杯に、斎主は黙って新たな酒を注いだ。 



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