彼岸月


 別れの言葉を言えるのは、とても幸せなことだ。この世には「さよなら」も言えない別れのなんと多い事か。
風の強い夕方。雲が空に闇を引き込んでゆく。
電線が風に震えて悲鳴のような音を響かせ、木々が枝を大きく揺らして悲鳴を上げる。
 強い風に、封じていた一つの記憶が甦った。
「知ってただろ? なんでだよ。なぜ何も教えてくれなかったっ!」
 悲痛な叫び。言葉を発した者の痛みが、耳から体内に侵入してくる。
「時を読む神だろ? 死と再生を司るはずの存在だろ? どうしてだよ。なんで、何もっ」
 哀しみ。怒り。そして無力感。
これほどの力を持っていながら、何もしてやれない、何もしてはならない悔しさ、もどかしさ。
 僕は、目の前の人々を、生まれたときから見守り続けてきた。無関心ではいられないほどに、慈しんできた。
それでも、干渉できない領域。
『やめておけ……』
 もう一人の僕が、警告を発した。
 去り逝く斎主の魂と、悼む次期斎主の声。
 これは、忘却を許されない僕が、決して封じてはならない記憶だったはず。いつの間に、僕は封じてしまったのだろう?
『おまえは、背負わなくてもよいものまで、すぐに背負ってしまう……』
 弓月夜見の声は、哀しい。
僕が和魂でいるために、すべてを引き受け、歪んでゆく荒魂。
光が純粋であるほど、陰は濃く暗くなってゆく理。
『それが己なのだから、仕方がないな。迷惑な風よ…』
 悲鳴をあげる電線を見上げたのは、僕だったのか弓月だったのか。
 地上を振り返りもせずに駆け去っていく風を見送った僕の意識は、混濁した。



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