晦
「なあ、トワは考えたことねえ?」
「何をですか?」
帆の補修をするために、ソウシにメインマストのセイルを外すよう頼まれたハヤテとトワ。
ロープをほどいて帆を外し終わったところで、ブームに座り込んだハヤテがトワに話し始める。
「もしもさ、あの時、ヒロインのことしっかり覚えていたら、あいつはたぶん、俺のとこ来たんだよな?」
「ああ、昨日ヒロインさんが言っていた話ですか? そうですね」
昨夜、なぜ最初に船に乗った時、シンの部屋にしたのかヒロインに尋ねたハヤテ。
酒場で助けてくれて、なんとなく悪い人ではないと思ったからだと、自分を覚えてくれていたからだと、答えていたヒロイン。
「俺の部屋に来てたら、シンのには、ならなかったよなー」
「…それは、僕にはわかりませんけど…。そっか、あの時、僕がどうぞって言えば、ヒロインさんは僕の部屋に来ていたかもしれないんですね」
なんとなく、二人はヒロインとの関係を決める岐路が、最初のあの夜にあったように思ったらしい。
「どうかな…。最初ハヤテの部屋に行っても、トワの部屋に行っても、結局、シンの部屋に移ることになったかもしれないよ? 二人とも、そういう話は、シンに聞こえないところでしないと…ふふふ」
ソウシの笑いを含んだ声に、足元を見下ろした二人が、気まずそうな表情をする。
二人がほどいて甲板に落としたままだったロープを、丁寧にまとめ終わったシンが二人を見上げた。
「ドクターの言う通りだな」
面白くなさそうに、シンは告げて航海室へ向かう。
もっといろいろ言われると思ったらしいハヤテとトワは、少し拍子ぬけしたようだ。
そんな二人と、その場を去るシンをみて、ソウシはくすくす笑いながら帆の補修作業を続けている。
微かな苛立ちを抱えて航海室に入るシンを、我は追った。
航海室では、ヒロインが掃除をしている最中だ。
我は船内での出来事を全て把握する存在、この船の精霊シリウス。
「まだ終わってなかったのか」
掃除をしているヒロインをみて、シンが少し不機嫌そうに言った。
「すみません。お邪魔ですか?」
申し訳なさそうなヒロイン。
シンが舌打ちして、ヒロインの手からモップを奪い、腰を抱き寄せる。
「え? シンさん?」
「はじめてこの船に乗ったあの夜、ハヤテやトワに誘われていたらどうした?」
「へ?」
問われた内容が理解できていないヒロインが、シンを不思議そうに見上げた。
「………。…いや、いい。掃除の続きをしろ」
諦めたような溜息をついて、シンが奪ったモップを渡し、ヒロインから離れて、海図を広げる。
『恋心というのは、複雑だな…』
そんなシンの様子を眺めて、我は彼らには届かない声で呟いた。
海図に目を落とし、椅子に座ったシン。
相変わらず不思議そうにシンの横顔を見ていたヒロインが、不意に口を開いた。
「おじいちゃんが…人を見る目は何より大切だって、教えてくれたんです」
「…?」
脈絡のないヒロインの言葉に、シンが怪訝そうに視線を向ける。
「小さい頃の私は、誰にでもついて行ってしまうようなところがあって、お母さんはすごく心配したらしいんですけど。いつも無事に帰ってくるってことは、ついていっても大丈夫な人間をちゃんと見分けている証拠だって。誰彼構わずついていくのなら、無事に帰って来ない筈だからって。おじいちゃんが言ってたんです」
我もまた、シン同様に、ヒロインの話の意図がつかめない。
「人を見る目という一種の勘は、見誤ったら自分が無事では済まなくなるようなものだから、大切だって。私は見誤らない目を持っているから、きっと大丈夫だって、自分の感覚を信じていいって、おじいちゃんが言ってて…」
『?』
ますますもって、ヒロインの言いたいことが我には判らない。が、シンは黙ってヒロインの言葉を待っている。
「あの日、確かにシンさんが一番意地悪なこと言ってましたけど。ソウシ先生や、ナギさん、トワくんの方が、ずっと優しくて親切でしたけど。それでも、私は、一緒の部屋になるなら、誰よりもシンさんが一番いいような気がしたんです。それはやっばり、見誤っていなかった、と思いますよ、私」
「………ふん。お前の人を見る目が、そんなに有能だとは知らなかったな。無駄話している暇があったら、さっさと掃除を終わらせろ」
シンが、視線を海図へ戻す。
「はいっ」
航海室に満ちる、どこか心地よい沈黙。
『…確かに、ソウシの言うとおりだったかもしれないな……』
我は、補修を終えた帆をヤードへ掲げ始めたハヤテとトワの作業を見守りに、再び甲板に立つ。
一見したところ、穏やかな海。
命に満ちた新月を明日に控えて、静かに時を待つ海。
穏やかな中に秘めている、狂うことのない命のリズムと強さ。
『女性は海を内包している、と言っていたのはソウシだったな……なるほど』
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やがて、無事に張られて風を受けた帆は、我を前進へと導いた。
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