文史月


この国には、たくさんの方言と呼ばれる言葉が残っている。
それは昔、たくさんの国と、その国独自の言葉があった名残。
国によって、独自の文字があっても何ら不思議はない。
「古代」と今の人々が呼ぶ時代。
大陸に学んだ人々が、自分達の国の文字を生み出した。
しかし、多くの争いの中であるものは姿を消し、あるものは伝説となり、あるものは姿を変え、あるものは勝者に吸収されていった。
木を表す象形文字を変化させていったような桃木文字。
図案そのもののような阿蘇山文字。
碁盤と碁石の記号のような阿奈伊知文字。
ハングルに酷似している阿比留文字。
平仮名のようになめらかな曲線を持つ出雲石窟文字。
現在の地図記号に酷似し、古事記前の時代記録が書かれている文書に使われている秀真文字。
斎部文字・春日文字・上津文字・豊国文字・対馬文字。
使用する人がいなくなってしまった文字は、読まれることもなく、時の流れに消えていく。
そして、勝者達の文字だけが、国の文字として文化として後世に残る。
「……この筑紫文字、家の伝承に使う暗号文字に似ている? 夜見、教えてもらった暗号文字って、もしかして元になっているのはこれか?」
 子守りを頼まれた息子が眠ってしまって、暇を持て余していた信志が、図書館から借りてきたという本に掲載されている、見覚えのある文字を指差しながら僕に聞いた。
「逆だな。信志に教えた文字が、もとになったんだよ。その文字は、もともと僕の生まれた国の文字だ」
「夜見の国?」
 月を読み、暦を紡ぐ者が治めたツキスミと呼ばれていた地域は、長い年月を経て、ツクシと呼ばれるようになった。
「ただし、この社に奉られる以前の記憶は意図的に封じてしまったから、どんな国だったのか聞かれても、答えられないぞ」
「…なるほど。少し期待したのにな。まあ、何十万年も前のことじゃ、仕方ない」
 落胆の様子を見せた信志に、僕は反論した。
「信志、いくら僕でも、何十万年もまだ生きていないぞ」
「ははは、そうかもなっ」
 笑う彼の声は、傍らで眠っていた息子の真樹を目覚めさせてしまったようだ。
「うわっ、起きたっ。夜見、ミルクはどうやってつくるんだっけっ?」
 安眠を妨害されて泣き始めた息子を見て、突然慌て出した若い父親の信志に、僕は苦笑する。
「よかったな、母親が買い物からちょうど戻ってきたぞ」
 荷物を手に境内に現れた女性に、薄暗くなり始めた空は、茜色の日の光を投げかけていた。



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