長野県の星 御嶽海こと大道 久司君 大関昇進おめでとうございます、 春場所二人の角番大関と共に上を目指して活躍してください。 長野出身の大関は雷電為右衛門についで2人目になります。早速「県民栄誉賞」受けました。
1742年 寛保2年、春から雨の多い年でした。
旧暦7月27日夕方からの雨は豪雨となり、8月1日未明大きな山津波となり田中宿を襲います。
この金原川と所沢川の氾濫で各地区は大きな被害を受けてしまう。
寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年にあたるため、被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ばれています。
私の出自 金井村は直撃で殆どの村人が流されました死者行方不明者185人とも。
田中宿、瑠璃殿、薬師堂と石造りの仁王様も阿形像が流されて甚大な被害を受けてしまい、
田中宿の被害は死者68人、負傷者59人、流失家屋120軒、残った家はわずかに29軒とか。
それから20年ほどして、ようやく田中宿も復興し被害の少なかった隣の海野宿と交代で宿場町の機能を果たせるようになった頃のことです。
若く美しい女性が、新しく新築なった瑠璃殿 薬師堂前 残され立て直された 金剛力士像(石造りの仁王様) 吽形の前にたたずんでいました。
名は「おけん」大石村 へ嫁いで 祢津村新屋の実家 後藤家へ里帰りしていました。
なかなか子宝に恵まれなかったおけんは仁王様に願をかけます「強い男の子をお授けください、もしも願いが叶えられましたら流されたもう一体の仁王様を奉納します。」と。
果たせるかな1767年(明和4年)1月2日、元気な男の子が産まれました。
父の半右衛門は、大変な喜びようで「太郎吉」と命名します。
太郎吉はすくすく育ち、たちまち優れた素質を表します母はそれをあまり嬉しく思っていません なおこの後18年のち妹(とく)が産まれています。
父親は草相撲の大関で、地方の相撲大会でいつも山のような賞品をとってくるのですが、乱暴でけんか好き 心を痛めていたのです。
お酒も大好きだった父の半右衛門は、けんかが元で体を悪くしてしまいます。
家計を助けるために幼い太郎吉は、馬で庄屋様や村人から預かった繭などの荷物を高崎の問屋まで運ぶ仕事をして働きます。
そして運命は突然やってきます、馬に秋蚕の繭を積んで碓氷峠の中程最大の難所 半根石にさしかかったときです。
狭い山道で加賀の殿様の行列に出くわしてしまいます。
よけるわけにもいかないので、馬もろとも持ち上げるや天にかざして松の木の根に足をかけ行列をよけます。
あまりの重さに気が遠くなりそうな太郎吉、そこに不思議な口をしっかり結んだ仁王様が現れて力を貸してくれるのです がどうしてなのかわかりませんでした。
この話はたちまち知れ渡り、信濃に怪童あり!と有名になります。
しばらくして噂を聞いた長瀬村の庄屋 上原源五右衛門が訪ねてきます。
経済的な援助も申して出て熱心に入門を進めますしかし体を悪くしている父に代わり太郎吉は今や大切な家を支える働き手です。
江戸での出世を望む半右衛門、百姓でも穏やかな生活を望むおけん 太郎吉は迷います。
「おらあおめえをてめえの子としか思わなんだに、だどもいつおやじさまみてえに足腰折るかわかんねえ相撲取りにしてくねえ そんだけんどおらあおめえが産まれるときに田中の仁王様に願をかけただ 強い子ができますようにと そうれこんなでかくなって相撲にむいた体になったのは、仁王様のおかげだに われの好きなようにすれば良い。」
1781年太郎吉15才の春長瀬村に向かう途中 田中瑠璃殿 そこで「あっこの仁王様」峠であった仁王様ではありませんか、「おらあ必ず立派な力士になって戻ってくるだ。」
この地方では有名な、石尊の辻(雨神を祭る石尊大権現神社境内)道場に15才で入門。 2年間 生涯ささえになる読み書きそろばん四書五経を習う、門下生の中でも秀才でした その後 力士としての本格的な修行に励みます。
この間1783年夏 浅間山 天明の大噴火があり溶岩流がいくつもの村を呑み込む。
火山灰で桑の葉が汚れ洗って与えても蚕はベトベトになって繭も全滅さらに冷害で稲作など農業にも甚大な被害が 特に日照不足で東北地方は米がとれず餓死者が続出 江戸に浮浪者があふれ 世界的な大飢饉が起きる 天明の大飢饉である。
この時噴火で打ちのめされた領民を励ますため小諸藩牧野の殿様より長瀬村に逗留中の浦風一行と上原道場に相撲興行の沙汰が下される 場所は海野宿白鳥神社境内である。
ここで太郎吉は大活躍 江戸の幕下力士を投げ飛ばして実力を認められる。
1784年太郎吉18才上原源五右衛門と江戸に そのおり大石村にみやげの酒や米など届けながら一日源五右衛門と関半右衛門は語り明かす そっと抜け出したおけんは一目散に田中宿へ走る。
西の空三日月が冷たく光り満天輝く初冬の星空である。
「仁王様ありがとうごぜえますだ 太郎吉は江戸でお相撲取りにになれます、でも仁王様をたてるのにためた銭は飢饉で困っている皆の衆のため使わせて頂きました、どうかもう一度銭がたまるまでの命をおくんなさい。」「いいだろう。」確かに聞こえた声に身震いするおけんでした。
浦風部屋 浦風林右衛門は素質に惚れ込み所帯の大きい伊勢ヶ浜部屋の横綱谷風に預けます、谷風は白鵬のような存在で太郎吉に猛稽古をつけます 太郎吉も必死に耐えて才能を開花させる。
ちなみに横綱 照ノ富士(30=伊勢ケ浜部屋)も同門です。
1788年 江戸相撲一大勢力 雲州相撲衆の一員に、八石三人扶持 雲州藩ゆかりの「雷電」襲名 雷電為右衛門の誕生である。
認められ24才、兄弟子の 柏戸を上回って張り出し関脇に付出される。
この時3場所連続優勝の横綱 小野川と7日目に対戦 久留米藩からの物言いで 勝負預かりになっています 小野川はあんこ型の勝負感の鋭い相撲取りとか。
さらに翌日雷電灘之助 千秋楽 名草山に勝ち冬場所10日間の興行で8勝2預の優勝相当成績を挙げ初土俵を飾る。
なお4代横綱 谷風梶之助は、実在の初代横綱です 彼の63連勝という記録は一般に江戸本場所のみを指しますが、江戸本場所・京都本場所・大坂本場所まで含めれば98連勝となりこの記録は現在(2022年時点)でもいまだ破られていない最多連勝記録です。
今ですと一説に身長1.97メートル 体重168.8キロと恵まれた体で、雷電は次々優勝を重ねます(当時日本の成人男性は平均で155センチ50キロ)。
お抱えの雷電が大関になり津々浦々まで名声が轟く、不昧公得意の絶頂に、天下の大関をお供に行列がお国を目指す、人々之を指して「すげえもんだ あれが天下の大関雷電だ。」
雷電も御家の名誉のために必死で本場所の土俵生活を務めたことでしょう(上覧相撲 天覧相撲ではそこそこ負けています。)。
7代松平治郷の治世の時、雲州藩十八万六千石の元々大変だった台所は お相撲大好きの殿様のため大変なことになってしまう 相撲 茶道につぎ込みすぎたのです。
とある巡業中のこと 千葉佐倉の甘酒茶屋 天狗さま、ここで「運命の人」にであう。
笑顔が素敵な売れっ子娘 八重(はん)がごろつきに「あま さけ 書いてあるだろ酒ぐらい出したらどうだ。」幟を指さす男がいる。
たまたま立ち寄った雷電見かねて一喝「おまえ酔っているな ひねり潰してやろうか。」雷鳴が天から鳴り響く ごろつき這々の体で退散。
絡まれている おはん を助け その時一目惚れ、時々茶屋を訪れるようになります。
しかし雷電は八石三人扶持お抱え力士 雲州松江藩 松平治郷(不昧公)の家来 茶屋の娘とは釣り合いがとれません、あるきっかけで思い切って親方に相談すると「とても気立ての良い娘だ、一緒にもらいに行こう。」と喜んで 力になってくれます。
1793年日本橋 呉服屋の養女として、はん改め八重と結婚 いよいよ充実した土俵生活に 1795年悲しい出来事が インフルエンザで谷風 浦風親方が悪いことはつづき2年後父半右衛門 と最愛の長女が巡業中になくなる。
この時期生家の改築もしています。
大関に昇進した後母おけんは 1796年田中瑠璃殿にようやくもう一体の仁王様(阿形)を奉献する 願掛けから30年のちのことでした。
幸い石工が同じだったため二体に全く違和感がありません「お陰で倅は立派な大関になれました ふんとにありがとうごぜえました。」涙ながら手をあわせるおけんであった。
仁王様のおかげか その後43連勝達成 この仁王様は今も真っ赤でとてもユーモラスな顔を もちろん地区の皆様のお陰ですが。
雷電のエピソードは講談芝居などに いろいろあり幼児が石臼を引いて遊んだり 荷物を積んだ馬を持ち上げたり 大男の草相撲大関 大岩を投げ殺したとか 八角を張り手で殺したなどなどたくさんありますが真実とは思えません。
しかし相撲で雷電との取り組みが元で怪我をして引退した関取も多かったことでしょう。
数々の名勝負を残して45才で引退するまで江戸本場所三十四場所で254勝10敗、以後藩の相撲頭取として後輩を指導また力士をスカウトする。
しかし横綱小野川の母親が雷電に勝てない倅を諫めて自害したことに深く傷つきます。
引退後江戸の大火で焼け落ちた 赤坂 報土寺に友人蜀山人に依頼し梵鐘を寄進します。
それは主家に対しての報恩と小野川の母親への供養でした。
斬新なデザインに江戸っ子は大騒ぎ、江戸名所になってしまいます。
しかし「国家安康」でなく「天下無双雷電」が将軍家に対する無礼だ として江戸所払い 罪人になり 大石村を目指す。
雷電の後にはいつの間にか一門がだんだん集まってきてそろってしまいます。
「親方こんだけいりぁ相撲もうてますぜ」と。
妹のとくは婿をもらい子をもうけ家を継いでいます 婿殿は 立派な体格の草相撲とり 2代目雷電為右衛門を襲名しています。
家に帰った雷電は年老いた母を背負い先ずは仁王様に挨拶 お抱え力士の時はなかなか気ままに動けなかったのです 。
このシーン映画「雷電」のロケが瑠璃殿薬師堂であり10才の小学生だった私も見に行きました 意外と雷電が小さく宇津井健が相撲取りに見えなかった気がします。
羽織を裸の体に羽織り 大きな欅の下に雷電が 撮影が始まると羽織を脱ぎ捨て母親を背負い向かって左側の仁王像(吽形)の前に。
背中から降りた母親は深々と頭をたれ 目に涙をたたえて震える手を合わせている。
秋の臼寒い日 まわしを付けしっかと仁王立ち 雷電の後ろを清らかなせせらぎが流れている この流れは田中宿 北国街道 真ん中 私の家の前を流れ千曲川 日本海へとつづく。
子供の頃の記憶なのです なお石造り仁王様は薬師如来を祀った瑠璃殿の守り神でした。
その後海野宿 白鳥神社境内で行った奉納相撲は大変な人気で境内は黒山の人だかりで 北国街道や布引街道は人であふれるほどでした。
櫓太鼓が打ち鳴らされて門弟や草相撲の力自慢の取り組みが終わり、地響きをあげる雷電土俵入りでいやが上にも盛り上がらないはずがありません。
ちなみに巡業や奉納相撲は有料で 木戸銭で俵や菰が一杯になり 1日20両集まったそうです ここでも雷電の人気がうかがわれます。
当時の白鳥神社は南面がもっと広く、千曲川の崖に面した位置に有力豪族 海野氏城跡があり 真田家は海野家の分家です。
戌の満水などで削られ今は殆ど千曲川の流域です。
お酒が大好きだった父親のために、酒樽の形をした墓を建てたり(雷電の墓参照)
自分の生家を土俵や桟敷席のある家に建て替えたりもしています(雷電生家参照)。
晩年の臼井宿の昼下がり「おまいさんどうして私なんか選んだのかえ。」「そうだなおまえのことが忘れられなくなっていたら夢にいつもの仁王様が出たんだ それで親方に頼んだんだ。おまえこそ俺でよかったのかい。」「私もいつもお参りするうちの菩提寺の仁王様にあんときのあんたがそっくりだった。」「暖かくなったら一緒に信州へいきてえもんだ。」痛い腰をさすりながら雷電。
しかしついに二人でその後 大石村や田中瑠璃殿に行くことは叶いませんでした。
2月梅もほころんでいました 暖かな縁側をゆっくりと豊かな時が流れていく。
1821年母けん73才で死亡 2年後 2月21日雷電59才で逝去。
旧北国街道牧屋地区に、佐久間象山撰文ならびに書による「力士雷電之碑」が。
僅かな空地に2つの碑があり、1つは南面(新碑)し、1つは西面(旧碑)しています。
内容は別紙をご覧ください わからないなりきに解説しています(雷電顕彰碑参照)。
以前は、この碑片を欠き取って身につけていたり粉にして飲むと強くなる 病気がなおる など迷信が生まれました。
そのため、欠いて持ち去る者が多く、碑文が読めなくなってので明治28年3月南面の新しい碑が建てられました。
雷電顕彰碑 雷電生家 雷電と半右衛門の墓 ともに是非お立ち寄りください。
強いばかりでなく、頭もよくて心の優しい力士雷電は郷土の誇りです。
後書き 雷電に続く者たち
雷電生家に残された一篇の詩があります
古今まれなる(威児たけしじ)強い男の子をお与えください
母は仁王尊に百の誓い(もう一体の仁王尊を奉納する)をする
願いは叶えられ(天性)素晴らしい素質を持った子が産まれる
雷電千代に伝わるああ故郷の関
そのままでは分からないので私なりに訳してあります。
太郎吉は上原道場に入門して 朝早くから掃除 洗濯 兄弟子の世話 野良仕事など多忙を極めます。
夜は長昌寺の監峰和尚について 四書(大学 論語 孟子 中庸)五経(易 詩 書 礼 春)を学びますが、この時人としての大切な心構えを教えられます。
勝負の心得は、馬子だった太郎吉の心に深く突き刺さります、-相手に敗北の辱めを与えるべからず-すなわち勝っておごらず 相手を思いやらなくてはならない など人生の本当に大切な心構えを教えられます。
現在も丸子 長瀬にある長昌寺は臨済宗の禅寺、雷電が相撲の稽古の傍らで勉学に励み、人格形成をした寺として、坐禅会・寺ヨガ・ご詠歌・仏教講座・法話会・研修会・写経会・少林寺拳法 など、多くの方がよき仏縁に出会い、楽しく仏教を学ぶ所です。
最近長野県から双子の兄弟が二所ノ関部屋に入門することになりました 林 琉君 玲君(15才)です しこ名は兄の琉君(林龍)弟の玲君が(林虎)です。
岡谷市田中小学校 から今木曽町中学校相撲部3年生 時計屋さんのご子息とのこと 色々御嶽海と似たところがあります。
未来の横綱を目指してがんばってください。
二所ノ関親方(元稀勢の里)も怪我のないようしっかりご指導お願いします。
御嶽海に続けと お二人の写真は信毎デジタルよりお借りしています。
戌の満水の土石流は瑠璃殿を直撃した後田中下沖地区の千ヶ滝へ流れ込みます。
山津波の痕跡は、グリーンベルトといって今もはっきり残っています。
現在仁王様の広場には 西側に 北寄りから ご神木 阿形像 後ろに 石造りの男根様 中央瑠璃殿には 薬師如来像 左が 吽形像 少しそっぽを向いています 東側には 戌の満水塔 慰霊碑 石尊大権現 道祖神 庚申様 などなどお祀るりしています。
私の家は宿場町の真ん中にあり 斜向かいは本陣 正面は脇本陣 流された仁王様は家の真下におられるような気がします。
そのようなこともありこの地方の出来事を多く入れブログに載せてみました。つまらないお話でした 。
令和4年3月10日記す 文責 小林 茂美 ご意見お待ちしています。
絵 作 吉田博 田中宿昭和10年代 / 薬師様 / 左 吽形 右 阿形