力士雷電は信濃国小県大石村の人である。 姓は関氏、父は半右衛門という、母は(祢津村新屋)後藤氏なり。 雷電は生まれながら強く、外の子供たちとは大変ちがっていた。 子供の頃遊びも外の子供と違い(石臼で遊んだり たらいごと行水中の母親をはこんだり)見る人を驚かした。 18才になると身長6尺5寸肢幹(体全体)鉄のよう、風貌は温厚 自然に親しんでいた。 江戸に出て力士浦風に従って相撲を学び、幾何(わずかの間に)もなく技を習得した。 雷電の名声は都鄙(都会と田舎)隅々まで知れ渡った。
将軍家や諸侯により 上覧相撲も望まれしばしば試合を披露する(なぜか負けている) 雷電の様子を偉(立派 優れている)とし、容貌を愛し 彼の怪力に敵対する者ののいないことを皆残念に思う。 初めて雷電相撲の番付に名乗り出るや、多くの力士に怪我を負わせてしまう。 ここにきて年寄りが相談の上3つの技を(張り手 閂 鯖折り 鉄砲も)を禁じ手とする。 (白鵬は横綱に品がないと張り手 かち上げを禁じられた)
他の力士たちはこれでようやく安心して相撲をとれるようになる。 しかし雷電に勝つことはなかなかできなかった。 これは建こう(徳川の平和な世)になって以来のことである。 かって技を持って松江候(松平治郷)に仕え(その後引退してから佐倉白井宿で妻八重と晩年を過ごす)文政8年1825年2月21日逝去(雷声院釈関高為信士)59才であった。
雷電没後27年(実際は37年この時罪人)、孫義行、功績を後世に伝えようと考える。 すなわち村の傍らに(石を磨き)顕彰碑を建てようと。 昔越前の秀康卿(結城秀康 家康の2男)が伏見に居たとき 名妓 国児を召して舞を楽しみ涙を流す。家来がどうかしましたか と問う。 天下の女子千万人いるといえども この女が第1であろう。
私は男として生を受け未だ天下一流の大丈夫になれていない だから泣くと。 今我雷電の為にこの碑を識し、感極まり泣く。 信山(信濃の山)は崇峻にして、信水(信濃の川)は清らかである。
神気集まるところ環偉(中国伝説の力士)が産まれる。ああ雷電 力類いなく、この世にただ一人生をうける。 私も人であるが魁琦(中国伝説の力士)にはなれない。 雷電のために銘文を書き、忸怩として心に深く恥じ入る。
松代 佐久間啓 子明 撰ならびに書 (佐久間象山)
1861年文久元年5月に建てられた旧碑は碑文が全く読めなくなり、1895年明治28年3月南面の新碑が建てられた このあたりの石碑 石仏は安山岩がおおく柔らかい。 しかし読めたとしてもよくわからない? 間違いも多いと思いますがご指摘ください。 現在 雷電顕彰碑は牧屋地区 旧北国街道と滋野駅へ向かう道との交差点北西にある 雷電生家への移転も検討中 お近くにおいでたときは是非お立ち寄りください。
佐久間象山 筆による「天下第一流力士雷電の碑」とあり、毎年二月十一日命日には、雷電祭が催されます 東御市からも参加しているとのこと。 下は雷電の墓 遺骨が眠るのはここだけです 妻八重 幼くして亡くなった娘も埋葬されています。