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力士 雷電の墓

雷電生家からは西に位置する。 東通さんと関造園さん向かい 例によって案内の標柱を頼りに歩けば、(車は金子集会場に止めさせて頂く)すぐ着く。 赤線なのか曲がりくねり道幅は狭い。

墓地に入り石垣で囲まれた 階段を上って左手、並んだ墓のうち、雷電本人の墓は、写真左側 棹石正面に「雷声院釈関高為輪信士」、右面に「文政八乙酉年二月十一日」、左面には「雲州 雷電 関為右衛門 行年五十九歳」とある。

風化が進んで随分丸くなっていて、力士雷電之碑のように削られたと言われても仕方ないような状態になっている。 雷電の墓は平成3年11月に再整備され、今あるように高くなったのもその時から 他の関家の墓が皆立派なので如何にも雷電の墓がみすぼらしい。

ここには遺髪が埋められたという話なのだが、整備の際には何も出てこなかった。 墓の台石には、雷電手形のレリーフがはめ込まれている。

「百里へもおとろかすへき雷電の手形をもつて通る関とり 蜀山人」が添えられ、 少なくとも10枚ほどは現存しているという有名なものだ私の所にも扇子のレプリカがある。  雷電の墓の右に小ぶりな墓 雷電の父関半右衛門のものである。

お酒が大好きだった父親のため 本体は酒樽だ、この樽には、盃をうつぶせにかぶせてあった 一見すると分からないが、台石は何と桝なのである、見事な三点セットだ。 「広遊院釈姓勝道信士」を挟んで歿年月日「寛政十戊午年」「十一月初七日」と彫られていて、左下に「俗名 関半右衛門」の字も見える 大酒豪で相撲好きだった思いを残す。

雷電が建てたというユーモラスな墓である けんの墓は探したが見当たらない。 この墓の階段のところに「関家」「精霊苑」と書かれていた 一帯は関家の墓所でもある。 ここは雷電生家の子孫の墓でもあるわけだ。

ところで、雷電の子孫として、2つの関家がある 雷電には子はない(寛政10年歿の童女の戒名「釈理暁童女」が佐倉市の墓にあるだけで、佐倉では4歳で流行り風邪のために亡くなったと伝えられている)。 ひとつは松江市、これは当時の雲州藩主の命により、朝風石之助(のち四声山 加手右衛門)が養子になって継いだのが最初である。 一方、こちら雷電生家の方はというと、18歳年下の妹(とく)の夫が関為右衛門を名乗って相撲が強く、これを2代目と数えて以来今に至るというわけだ。 

この墓所の中央に、承応4年(1655)歿の関久右衛門の墓がある。儒学者として聞こえが高く子弟の育成に努め、 関家繁栄の基として知られている。生まれは天正13年(1585)、「大地主の嫡男」とある。この墓地には他にもいくつもの関家の墓誌がある。 雷電の墓は 佐倉市の妙伝寺奥の墓地に妻八重(おはん)や一女と共に また松江 西光寺 赤坂三分坂の報土寺に墓碑があります。