修験の里小菅から〜
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主 催 飯山市 飯山市公民館 「修験の里小菅」シンポジウム実行委員会
共 催 瑞穂地区区長会 瑞穂公民館 小菅区
後 援 信濃毎日新聞社 北信濃新聞社
平成14年7月6日(土)飯山市公民館で「シンポジウム」
7月7日(日)小菅山(小菅神社奥社)散策現地
発表資料より
修験道シンポジウムの開催にあたり
修験の里小菅から〜
修験道シンポジウム実行委員長 高橋 桂
小菅は、かつて戸隠・飯綱とならんで北信濃の三大修験霊場としてしられたところです。
また、修験道は日本古来の山岳信仰が、仏教、道教などの影響のもとに、平安時代中頃につくられたひとつの宗教大系であるといわれています。
日本には、古来山岳を神霊ーとくに農耕を守護する水分神(くみまのかみ)が籠もる聖地として、崇拝する信仰であったといわれています。
小菅神社奥社の内陣奥に「甘露池」と称する小池があります。故金井喜九一郎先生は、この甘露池こそ水分神であり、作神様であろうと述べられています。いずれにしても、小菅の歴史を考える上で修験道の存在を抜きにすることはできません。小菅の重要な民俗行事である柱松柴灯神事も、かつては修験者によってとりおこなわれていたといいます。
今回、信州大学人文学部笹本正治教授の司会のもとに「修験の里小菅から〜修験道シンポジウム」が行われることとなりました。今回このシンポジウムに参加された先生方は、いずれも修験道研究の専門家であります。
修験道の起源、修験道の移り変わり修験道の終焉、覚醒、修験道が民衆に与える影響等々について私たち素人にもわかりやすく説明していただけることと思います。
また、小菅の修験道が地域とどのように密着し、発展したのか、更に現在どのような形で小菅を中心とした地域に受け継がれているのかなどについても、触れていただけることでしょう。
前回の、「火祭りシンポジウム」、今回の「修験道シンポジウム」を通じて、小菅への理解がより深まることを期待しています。
そして、今回のシンポジウムが小菅の灯火となることを願ってやみません。
清雲 俊元先生(山梨郷土研究会理事長) 山梨県・真言宗智山派 放光寺住職 山梨県教育委員会前教育委員長
記念講演
『修験道を考える』
修験道は日本古来の山岳信仰が外来の仏教、道教などの影響を受け平安時代後期ごろに一つの宗教の形を整えたものである。一般には修験道の宗教的指導者を山伏、山臥とも書き、修験者ともいう。山伏は頭巾(ときん)をいただき鈴懸を身にまとい、法螺を吹き、笈を背負うという独特の衣鉢をする。古来から、山岳は神霊のいる他界として崇められてきた。奈良時代になると、七世紀末頃に山林修行者だった役小角が修験の開祖と崇められるようになった。平安時代に入るとこれらの山岳修行者の影響を受けた最澄、空海が比叡山、鷹野山を拠点にして天台、真言の山岳仏教を創立した。これらの密教僧が加持祈祷を山岳で修行し呪験力が発揮できると信じ山岳修行を好んで行った。・・・・・・・・・・・・・・・・やがてそうした中でとくに験力を修めて加持祈祷を修めた僧を験を修めたものという意味で修験者と呼ぶようになった。・・・・・・・・・・・・・・・
笹本 正治(信州大学人文学部教授) 博士(歴史学)山梨県・長野県文化財保護審議委員
基調講演
「修験道と飯山ー自然への畏敬と場」
はじめに
修験道とは何か
@しゅげん[修験][仏]山野において霊験を得るための法を修すること。
・・・・・日本古来の山岳信仰に、神道や外来思想の仏教・道教などが混合して成立した宗教 自然の力を認識し、そこから特別の力を得る
なぜこの地に修験道が展開したのか
飯山を日本の中に位置づける
1 諏訪信仰と自然ー身近な山岳信仰ー
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2 飯山における山岳信仰・自然信仰
・・・・・・・・・・・
3 神仏を感じる場
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須永 敬(信州大学特別研究員) 民俗学
基調講演
「朝鮮半島の山と宗教ー山岳宗教から考える日本と韓国」
小山 丈夫(むれ歴史ふれあい館学芸員
基調講演
「北信濃の山岳信仰と修験道」
山本 義孝(日本山岳修験学会理事)日本宗教学会員・静岡県浅羽町郷土資料館勤務
基調講演
「山岳修験のルーツをさぐる」
修験の山・小菅神社奥社散策(平成14年7月7日)
講堂前での出発前のセレモニー | 観音堂付近石仏について説明 | 黒門で |
護摩堂と梅鉢積みの石垣 | 奥社参道杉並木 | 杉並木上のアジサイ |
隠れ石で笹本先生が待っている | 鏡石でみんなを待つ | 鎖場を登る |
参加者は、修験の里小菅山登山で開山した昔の人の素晴らしさと自然に感動していた。 | ||
奥社内で笹本先生が説明をしている | 小菅山山頂ブナ林 |