南竜池自然観察園草取り作業 | あやめ | 南竜池観察園アジサイ道路草刈り作業 | アジサイ |
草刈ボランティアご協力ありがとうございました。
いらっしゃい。小菅の里へ、ようこそ。
この地は、八百万(やおよろず)の神々のふるさと。千三百有余年の空気を吸ったら、その深さが見えてきます。戦乱の世に、一度は焼き尽くされましたが江戸時代にその一部は再建され、歴史的建造物が数多くあります。
中央の街道は真っ直ぐに東西にのび、杉並木を背に振り返ると道の向こうに妙高山がそびえています。
小管の里は西側に向かって開けており、かつてはここに杉並木が続いていたといいます。これに対して、風切峠は南口です。
途中、笹が道の形を隠していたりしますが、数多くある碑(いしぶみ)がその歴史を伝えています。山側には湧き水個所が多く、桂清水もその一つです。昔がながらの水路を流れる水の音を聞きながらの野歩きは、また一興です。
蛙が飛び出してきたら、軽く会釈をし、道を譲ってください。お勧めは、草木の萌える春です。四月から五月、残雪の里山では我先にと植物たちが活動を始めます。福寿草がその先兵です。雪どけを待ちきれないかのように花茎を伸ばし、カタクリやイチリンソウが花をひらきます。スプリングエフェメラルといわれる、春先の生き物たちです。雪国の雑木林は、次々と姿を変えます。
北竜湖の裏山の五月上〜中旬は、一週間ぐらい見続けてもあきません。褐色から萌黄、黄緑と移り変わり、その線が少しずつ山頂に向かって伸びていきます。ただ、カメラマンの多くは、手前の菜の花の撮影にすっかり夢中ですが・・・・・・・・・・・・。
むらづくり委員会活動 ・小菅神社参道復元整備 ・南竜池跡地観察園整備 ・祭り資料館管理 ・小菅の里山管理 発 行 平成6年 「小菅の里物語」 編集後記 「あの子は、ばあちゃんに語ってもらたから・・・・・」 などという。 言うまでもなく「カタル」とは、子守をすることである。 育児の子である。 ばあちゃんのカタル内容は歴史であるり、自然と空間であり、生きている世界の範囲であった。お年寄りが地域を語り、自然を語り、そして歴史と文化を語ることで、子供達は地域の一員となった。 さて、、この「語る」ということがいかに少なくなってしまったことか。語るべきお年寄りの数は増えているが、語るお年寄りは減ってしまった。 取って代わったのがテレビである。スイッチを入れれば、東京ばかりが流れ込んでくる。雑誌にしても同様で、東京発の情報ばかりがあふれている。言うまでもなく、優位に立つのは情報の発信者である。 小菅の里を取りまとめてみた。「東京」に埋もれないために、地域からの情報を発信するために・・・・・・・・・・ かつての人達がしたように、もっともっと自分たちの地域を語りたいと思った。 語り継がれてきた地域の歴史などを、形に残せたらとおもった。 目的が少しでもかなえられたら幸いである。 平成5年 「小菅の里夏物語」 昔ながらの祭事等を、昔の方法で後世に伝えていくには並大抵のことではない。経済合理が優先されてしまう今の世の中にあって、 地域負担はそれにしても大きいものになってしまう。 人口の流出が進むにつれて、個人個人にかかる負担が大きくなる。 思えば、かつては長男以外は獅子掛になれなかった。祭り当日は、灯籠を持つくらいなもので、ただただ獅子舞をやる連中がうらやましかった。獅子掛は、花形だった。 柱松掛はヒーローであった。当然のこと、一人一人に「おれは・・・」「おれが・・・」という気持ちがあった・それが、今は、全員参加である。そうしないと、祭りができない。 結果として、それぞれが少しずつ苦痛と感じ始める。 昭和41年まで毎年行われていた松子(柱松)であるが、昭和42年には休むこっとなった。昭和41年に3年をかけて奥社の修理が行われており、 大変だというのがその理由であった。 そして、昭和43年に行われてからは、3年に一度の実施ということになった。平成元年からは、とうとう日曜日になった。小菅の住民だけでは人手が足りず、 近所の人達にも応援を願っている。 県の無形民族文化財である。もっともっと多くの人達にも知ってもらいたい。祭りにかかわる人達に、自信と誇りを持っていただきたい。数多くある宝の中の一つであるから・・・・・・・・・・・・・。 平成9年 「一歩二歩散歩小菅の里漫歩案内図」 一歩二歩散歩「小菅の里漫歩案内図」は1997年に(まちづくり市民財団」の助成金をいただき小菅の里を訪れた人達がより有意義に楽しんでいただくために作成しました. |
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