桐竹鳳凰文透彫奥社脇立
(長野県宝)

昭和39年8月20日指定

桐に鳳凰の脇立 竹に鳳凰の脇立
桐鳳凰文 竹鳳凰文

          この二面の脇立は、元奥社の宮殿の造作で、裏面には「是ハ奥社脇立」「天文拾五年八月十五日」と墨書されている。
ひのき材の厚板に桐と竹に鳳凰などの透かし彫りである。
縦74,7cm 横32,0cm


板絵観音菩薩三十三応化身図

(長野県宝) 昭和39年8月20日指定


 三十三観音応化身図は『法華経普門品』(観音経)を典拠として描かれたもので、経典には、観音の宝号を唱えることにより、もろもろの災難や厄難を逃れることができると説かれている。
 同類の三十三応化身図には、法華経を絵画化した「法華経変相図」(重文・富山県本法寺)・「観音経絵」(重文・石川県本土寺)・「十一面観音図」(長谷寺)・「三十三観音図 三十三幅」(東福寺)などがあげられるが、本図のように、三十三応化身のみを絵画化した遺例は、東京国立博物館に室町時代のものが一幅あるのみで、ほかに類例が確認されていない。
 本板絵は杉材の板に一体ずつ描かれており、現状は三三身の内、一五身のみが伝在する。しかし二図を一つにしてあるものも確認されるので、実際には一七身が残されていることになる。
 なお一五番の増長天は三十三応化身にはふくまれないので、記載の誤りかと考えられる。一三の「比丘尼」も「比丘身」の書き誤りであろう。剥落が進み、すべての尊名を明らかにすることはできないが、三は「宰官婦女身」、四の主要部分は「帝釈身」かと推察される。
 現状比較的保存のよい「迦楼羅身」・「童女身」・「毘沙門身」など、鮮やかな色彩と軽快な線描は、応永年間までさかのぼる板絵と思えないくらいで秀逸である。
 小管山を中心とした霊地は、修験道と密教の普及により、小菅権現として馬頭観世音が祀られるように、古代から中世において隆盛した観音信仰の地である。
 歴史的にみて、応永十二年は戦乱も収まり、幕府の基礎が固まった室町時代の初期に当たり、小菅の地は修験道の隆盛期を迎える。本板絵は、このころ、小菅権現を祀る迦耶吉利堂【観音堂)の堂門に掲げらたものであろう。将来の詳細についてはつまびらかではないが、伝承にると、近隣の土豪たちによって奉納されたものとされている.特に、一二番の「比丘尼形身」の裏に墨書きされている本栖入道は、往郷村(現木島平村往郷)の氏人であったと伝えられる。
 このように本観音三十三応化身の板絵は、小菅における修験道の歴史をひもとく貴重な史料であり、また小管山を中心とした古代・中世における修験と密教の文化を今日に伝える重要な文化遺産でもある。  【飯山市誌】

弁財天 毘沙門 童女 婆羅門身
弁財天 毘沙門 童女 婆羅門身
知恵をつかさどる女神、七福神(弁財天・大黒天・恵比寿・毘沙門・福禄寿・寿老人・布袋 北方を守護し、多くの夜叉・羅刹を統率すると共に、仏法を守護し、福徳を受ける善神 幼女 インドの最高階級僧侶
      
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