| 信州伊那谷で父、木村林太郎、母木村はつ子の長男として昭和45年10月10日生まれる。小学校のときから人より何か目立つことが大好きでそのせいか、実力はともかく児童会長を半期務める。今考えてみるとこのころからやはり自分で何かをおこしたいと考えていたのかも知れませんね。小学校も無事卒業し、小学校の4年のころからはじめた野球を気がつけばかれこれ大学までの12年間続けて努力と根性を?身に付ける?そんな事ばかりに夢中であったためか勉強はあまりやらず白球を追いかけてばかりいました。ちなみに中学から高校までは見事な補欠でこの時期に下積みをしたおかげで肩を痛めたり、腰を悪くすることもなく万事健康体そのもので今の丈夫な体になりました。
大学は東京の国立東京水産大学に勉強を見事しなかったためか一浪後、入学し最初の一年間は必死で勉強し割と良い成績でしたが、この当たりから要領という誘惑に負けていかに楽して卒業するかを研究し出し自称“カンニングの貴公子”と名乗りあらゆるテストを難なく切り抜け、また周りの友達からいかに過去問題を集めてうまくそれを新たな過去問題を手に入れるようにするかなどブローカーまがいのテクニックを身に付けたため幸か不幸か今の事において役立っている?それでも大学時代はろくに勉強をしなかった変わりにウェイターのアルバイトに明け暮れて一生懸命仕事をしたせいか接客と仕事のコツを学びました。
そんな勉強はともかく無事大学も4年間で卒業し、翌年から大井町の小さな施工会社に就職し2年間下積み経験ということで一生懸命働きました。この仕事は大学時代の気楽な仕事と違い毎日が勉強の日々で、またオフィス事務器の組み立てのため時間には追われまた休日は返上、徹夜もありの今の農業の生活とは比べ物にならないくらいハードな2年間を過ごしました。でもやっぱり格言にもあるように“若いうちには苦労しておけ”といわれるように、この時の苦労のおかげで社会人とは何たるか、自分の仕事における役割は何たるか、などなどいろいろな人からたくさんのことを教えられました。そういった意味においてもやはり大学時代も含めて東京で学んだことは大きかったと思います。
さて私がどうしてこの養鶏業というものを継ごうとしたかといいますと、やはり自分が大きくなるに従い親父の背中がやけに小さく見えてきたこと(老いてきた)もありますが、東京で仕事をしているうちに毎日毎日が精一杯であくせく働いている自分を改めて見つめ直したときにはたして本当にこれで良いのだろうか?もっと自分に合った仕事があるのではないだろうか?やはり自分は人に使われて仕事をするよりも自分の納得する仕事をやりとげたいという欲望がむくむくと起き上がってきました。そんな自分の理想をかなえてくれそうな仕事それがこの養鶏業という仕事だったのです。
実際にやってみるとどうか。確かに一般に知られているようにホコリまみれになったり休みが無かったり大変ではあるけれど、自分達の一生懸命作ったたまごが売れたときの喜び、また「おいしかった」といわれたときの喜び、そしてリピーターのお客さんが増えてきたことの喜びなどなど・・・日ごろの苦労を忘れさせることのほうがたくさんあって充実した毎日を過ごしています。それににわとりも可愛いですしね!!
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