縄文寒冷化による北方民族の大移動
*ヒプシサーマル・・・Hypsithermal(=warm) Period(高温期)。 Climatic optimum(気候最適期) とも言われる。
「日本人の起源」より引用http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_04_01kannreika_gamotarasita_jyoumonnhoukai.html
環境考古学の安田喜憲によると、6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、縄文後期に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われた。安田は、その気温変動の様子をごく大雑把に次のグラフで表わしている。
この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)は、高温期から寒冷化が進む3,000年の間に、温暖帯系のクヌギ・コナラ・クリなどの森から、冷温帯系のブナ、ミズナラなどの林に大きく姿を変えた。
次の表は、第1部12節で示した表の縄文中期・後期に焦点を当てたものである。中期と後期すなわち、気候最適期と寒冷化後で、地域毎に人口がどう変化したかを調べてみた。
縄文時代の人口は、縄文中期にピークに達している。それも95%以上が東日本に偏在した。その東日本(東北を除く)が冷涼化・寒冷化による森林の生産力の低下で、人口が半減してしまった。特に中部の山岳地域では3分の1以下に激減した。
寒冷化・乾燥化と世界の文明

 気候の寒冷化は 当然のことながら日本列島だけで起こったものではない。世界的な気候の寒冷化が各地を襲った。
 縄文文化が森の季節の変化に歩調を合わせた自然=人間循環系の文化であったのと同様に、エジプト文明はナイル川の定期的洪水氾濫(河岸地帯の肥沃化)に歩調をあわせた、やはり自然循環系の文明であった。それゆえ気候の寒冷化がナイル地域の乾燥化を招き、ナイルの水位が下がって氾濫規模を縮小すると生産力が低下し、ツタンカーメンなどのエジプト新王国時代はこの時期に終焉した。

 またヨーロッパ大陸ではゲルマン民族の南下によりケルト人をライン川東岸から追い出した。地中海沿岸では民族移動の嵐が起こりミケーネ文明やヒッタイト帝国が崩壊した。
 インダス川流域ではアーリア民族が南下して先住のドラヴィダ人をインド南方に追いやった。
 まさに気候の寒冷化・乾燥化が世界各地で民族の南下や移動を誘発し、他の民族の逃避や文明の崩壊を引き起こしていたのである
寒冷化がもたらした中国大陸の動乱

 中国大陸も例外ではない。4,000年前、中国大陸では、北方の畑作牧畜民(黄河中流域の漢民族)が長江流域の江漢平原(湖北省)に南下した。
 その証拠は湖北省石家河遺跡(4,000年前)から三足土器が出土している。これはあきらかに長江流域のものではなく、中原
 
 (黄河中流域の平原地帯)のものである。

長江流域の人々が北方の民の侵入をただ眺めていただけだったとは思えないが、北方の民が馬に乗り青銅の武器を携えていたのに対し、石器しか持たなかった長江の民の抵抗は空しかったに違いない。
 気候の寒冷化・乾燥化はその後も繰り返し起こった。そのたびに北方民の長江流域への侵攻があった。
 特に3,000年前の寒冷化・乾燥化は厳しく、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。度重なる北方民の侵入により、上図のよ
うに長江流域を追われて雲南省や貴州省の山奥に逃れる民族も出てきた。(たとえば苗族がそれである。)
 長江流域の民が向かったのは中国の奥地ばかりではない。東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。