万国公法(ばんこくこうほう)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、東アジア各国に多大な影響を与えた国際法解説書の翻訳名であり、同時に“International Law” の現在の訳語「国際法」以前に使用されていた旧訳語でもある。以下では最初に翻訳命名されたW.マーチンの『万国公法』とその重訳本[1]を中心に記述し、この本がもたらした西欧起源の国際法がアジア諸国にどのように受容されていったかについても触れる。
「万国公法」とは、国際法学者ヘンリー・ホイートンの代表的な著作 Elements of International Law が漢語訳されたときのタイトル名。またこの訳は、この書が世に広く知られるようになるとともに、“International Law” の訳語としても定着していき、Elements of International Law 以外の国際法解説書を翻訳する際においても「万国公法」ということばがタイトルに使われるようになった。翻訳者は当時中国で布教していたアメリカ人プロテスタント宣教師ウィリアム.マーティンで、その訳書は東アジアに本格的に国際法を紹介した最初の書物である。国際法の何たるかを東アジア諸国に伝え、各地域の国内政治改革や外交に大きな影響を与えた。特に日本では、最初に刊行された清朝よりも大きく素早い反応を生みだし、幕末明治維新に及ぼした影響は無視できないものがあった。
前近代における東アジア国際社会は、政治的・経済的・文化的に大きな存在感を放つ中国王朝を中心とする形で国際秩序が成り立っており、日本や朝鮮、ベトナム、琉球といった中国の周辺諸国は、その中国から様々なスタンスを取ることで安定的な国際秩序を形成維持してきた。中国王朝に対しどのようなスタンスを取るかという点で、(中国王朝から見て)周辺諸国はいくつかの国際関係の種類、たとえば冊封や朝貢、互市に分類される。これまでの諸研究では、このような様々な国際関係を束ねたものを朝貢―冊封体制、あるいは朝貢システム、互市体制、華夷秩序と表現することが多い(対象とする時代や研究者によって異なる)。ここでは便宜的に華夷秩序と呼ぶ[2]。
中国王朝から見た華夷秩序は、中華思想に基づく世界観を現実に投影したもので、中国を「華」(文明)と自認し、中国という同心円的ヒエラルキーの中心から離れるに従い「華」から離れ「夷狄」(野蛮)に近づいていくと考える国際秩序である。このヒエラルキーが特異なのは、中国王朝が直接支配する領域とそれ以外の地域とが国境のような確固たる分断線によって区切られず、連続したものとして捉えられている点である。具体的には、
という大きく分けて三つのカテゴリーがあり、前者から後者に行くに従い、漸次中国皇帝の徳が及ばなくなり、同時に中国の支配力も低下していくという観念で支えられている。したがって版図外といっても、その地は中国の支配(あるいは中国皇帝の徳)がなかなか及ばないだけで、本来中国皇帝に支配されるべき地であるという意識は捨てられていない[3]。
そしてこの版図外にある諸国は、中国王朝になびく国家とそうでない国家に大別される。まず中国に使節を送り、臣従する諸国。これらには「冊封」(国王承認)や「朝貢」(貢ぎ物と引替えに賞賜が与えられ、さらに交易することができる)という政治的・経済的見返りを与えた。それを目的に中国を訪れた冊封あるいは朝貢使節の存在は、中国皇帝の徳が遠くの「夷狄」に及んだ証左とされた。中国とこれらの諸国とは、「宗主国」(Suzerain State) と「藩属国(あるいは「属国」「付庸国」)」(Tributary State) という上下関係を基調とする国際関係を結んだことになる。ただ「宗主国」と「藩属国」との関係は、近代における「宗主国」と「従属国」(Subject State) のような関係とは大きく異なり、内政外交全般に中国の支配が及んでいたわけではなく、たとえば中国は、「藩属国」どうし、あるいは「藩属国」と中国王朝に臣従しない諸国との関係について特に関知しない。そのため排他的な主従関係は希薄であり、ある国が中国以外の国へも朝貢する「二重朝貢」といった例も見られた[4]。
前王朝の明代において、「冊封」や「朝貢」は諸外国との関係の中で大きな比重を占めていたが、このような制度自体は、清代まで大きく変化することなく存続した。しかし続く清朝においても「冊封」や「朝貢」が、明朝の対外関係で同じ比重を占めていたわけではなかった。清代では、明朝の時以上に欧米諸国が中国を訪れるようになり、「冊封」や「朝貢」よりも政治的意味合いが希薄化した交易が増加の一途を辿ったのである。この交易関係を「互市」という。
そしてこれまで述べてきたような「冊封」や「朝貢」、「互市」によって中国と関係を持つ国々をそれぞれ「冊封国」・「朝貢国」・「互市国」という。
国や地域によって均質・一様でない華夷秩序(の束)に、最終的には取って代わったのが西欧起源の条約体制であった。
華夷秩序では、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきた。しかし欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する国際秩序を東アジアにもたらした。このことからこの国際秩序を条約体制と呼ぶ。また欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともある。
近代的国際秩序の起源はウェストファリア条約(1648年)に始まるとされ、その国際関係を律する秩序原理として近代的国際法は発達してきた。そして国際法を担う主体は主権国家とされた(近代的な主権国家については後述「4.4.1 『万国公法』がもたらした外交概念」を参照のこと)。上記華夷秩序との最も大きな相違点は、主権国家間の法的平等原則の存在である。華夷秩序では、自国と周辺諸国を文化面では「華/夷」という等級で順序付けし、政治面では君臣関係(宗主国―藩属国)として捉えており、中国王朝と周辺諸国が平等であることは原則的にありえない(ただし、実際には金と宋や匈奴と漢のような場合もある)。一方で条約体制では、国家・国力の大小に関係なく、主権を持つ国家は法的には平等・対等であるとされる。
しかしこの近代国際法の「万国平等」という理念は単なる理念に留まり、現実には万国に普遍的に適用されるようなものではなく、それは本来キリスト教諸国間だけに通用する「キリスト教国国際法」(“International law of Chirstendom”)ともいうべきものであった。
近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としているが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていた。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としているが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つにカテゴライズされる。まず欧米を「文明国」、オスマン帝国や中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられる。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定される。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになる(小林2002)。
以上に見るように、近代国際法はその適用を「文明国」とそれ以外によって使い分ける二つの顔を持っており、これを「近代国際法の二重原理」と呼ぶ研究者もいる(高村1998)。この近代国際法は、19世紀に入ると掲げられた理念とは裏腹な砲艦外交によって中近東、アフリカ、東アジア等世界全体に適用範囲を広げていった。
東アジアにおいて、この条約体制のはしりはアヘン戦争の後に締結された南京条約である。中国最後の王朝であった清朝とイギリスの間に結ばれた条約は、近代国際法に基づいた不平等条約であった。この条約の締結後、これをモデルとした条約を清朝は各国と締結していき、『万国公法』が翻訳刊行された当時、すでに20数カ国と条約が交わされていた。ただ条約の締結と、意識レヴェルで国際法の理念に遵うつもりがあったかどうかは別である。トルコでも中国でも不平等条約は当初、西欧諸国に与えた恩寵というとらえ方をし、自国の不利益性を意識していなかった。このような国際法への認識を改め、率先して条約体制に参加するよう促す一助となったのが、『万国公法』という一冊の国際法解説書であった。
『万国公法』の原著は、ヘンリー・ホイートン (Henry Wheaton) の『国際法原理』(原題:Elements of International Law, 1836)である[6]。ホイートンは アメリカ国際法学草創期を代表する法律家・外交官である。彼は弁護士からスタートし、ニューヨーク海事裁判所判事、連邦最高裁レポーターを歴任した。また法律キャリアを重ねる一方で、アメリカの駐コペンハーゲン代理公使、駐プロシア代理公使(後に特命全権公使)に任命され、外交官としても活躍している(松隈1992)。法曹界に身を置きながら、外交官でもあった経験が結実したのが、『国際法原理』であった。なお明治期の日本や片仮名のない中国ではホイートンを「恵頓」(拼音:Huìdùn)と表記した。
『万国公法』は、全4巻12章231節から成り、北京崇実館から刊行された。300部刷られ、 総督・巡撫をはじめとする各地の官僚に配布された。構成は以下の通りとなっている。()内は加筆者の訳。
『万国公法』で扱われる内容は、国際法の主体及び客体、法の淵源、国際法と各国内の法との関係、条約・外交と領事の関係、主権の及ぶ範囲としての領土や領海の説明、国際紛争が発生した際のルール及び和平交渉のルール、戦時における第三国の中立のあり方など多岐にわたり、国際法をまさに体系的に解説したものといって良い。
また国際法の具体的事例を示すために、欧米各国の政治制度や歴史をしばしば引用しており、当時渇望されていた欧米事情の供給源ともなった。
中国や周辺諸国は、それまでなかった外交概念を『万国公法』から学んだ。現在日本や中国などのアジア諸国において用いられている外交概念は、この翻訳書とともにもたらされたものである。そして以下に挙げる外交概念は単なる書物に書かれた知識というだけでなく、近代国際法が認める「文明国」かどうかを見定める具体的な要件・目安ともなっており、その外交概念を共有しない国家は近代国際法が適用されない、もしくは制限を受けるものと解された。
『万国公法』の翻訳がもたらしたものは外交概念に留まらない。それに付随して、多くの思想がアジア諸国の人々に知られるようになった。
南京条約の締結によって中国に条約体制がもたらされたが、正確にはそれにより冊封や朝貢といった華夷秩序が一度に崩壊したわけではなく、しばらくの間華夷秩序と条約体制は相剋しつつも並存することとなった。欧米諸国とは条約を基礎とした関係(外交を担う役所総理衙門の設置や公使の相互派遣)を結ぶ一方で、清朝は朝鮮やベトナム、琉球といった周辺のアジア諸国とは旧来の華夷秩序を温存し、それを恒久的に維持しようとした。
しかし中国に対し冊封・朝貢を行っていた周辺諸国も、次第に欧米列強の植民地へと変えられていき、また清朝自身もロシアの伊犂地方占領や清仏戦争、日本の台湾出兵、日清戦争などアヘン戦争以降の度重なる列強からの外圧にさらされた。下関条約(1895年)によって、最後の朝貢国朝鮮が華夷秩序から離脱したことにより、中国を中心として機能していた華夷秩序は消滅した。
これまで『万国公法』と近代国際法が各国それぞれにおいてどのように受容されたのか、及びその国内的影響を中心に記述してきた。それはどちらかといえば東アジア諸国家対西欧(文明)に比重をおいて説明してきたが、以下では近代東アジア世界全体に及ぼした影響、あるいは東アジア諸国間に生じた問題について触れる。
『万国公法』の普及と、上記のような様々な事件・問題の際の近代国際法の強制的な適用と受容が、東アジア国際社会に大きな影響を与えたことは改めて強調するまでもない。具体的には以下のような影響があった。
東アジア国際秩序は、アヘン戦争以降それまであった華夷秩序から条約体制へのシフトが起こったが、清朝と欧米諸国との新たな関係がすぐに他の東アジア諸国との関係に直接的に波及したわけではない。東アジア国際秩序の再編の第二幕は、日本が条約体制に順応し、それを周囲の国に及ぼそうとしたことから開始されたのである(川島2007)。
『万国公法』などの近代国際法は、世界中の主権国家が互いに平等であり(「諸国平行の権」)、それは国家間の様々な権利と義務に基づくのだという「理念」を東アジアに伝えたが、それは華夷秩序における中国の圧倒的な優位を当然とする秩序観とは異質なものであった。しかし『万国公法』の「理念」は、西欧列強の強制という現実を伴いつつ東アジアに受容されていき、徐々に華夷秩序を覆すこととなった。
このような国際秩序変容に東アジアで最も早く順応したのは明治日本であった。倒幕時は攘夷鎖国を旗印にしながら、明治維新政府が成立すると対外的態度を一変させて開国を国是とし、条約体制に積極的に参加する姿勢を打ち出した。条約体制の到来を、華夷秩序を覆す好機として捉えたためである(川島1999)。そのために『万国公法』等の翻訳普及と、お雇い外国人からの近代国際法の知識吸収を積極的に図り、転じて「万国公法」を周辺諸国に積極的に適用していった。このことは清朝や朝鮮に対し、西欧列強による近代化・開国要求とは異なる影響を及ぼしていった。
清朝や朝鮮では、『万国公法』への不信からその「理念」に素早く共鳴することはなく、条約体制へのシフトは緩やかであった。当初は華夷秩序の堅持に努め、国際法を単なる道具としてのみ活用し、条約体制そのものには極力拒絶しようとする受容から、次第に国際法の理念をも受容する方向へと進んだ。そして緩やかなシフトは、華夷秩序と条約体制が並存する状態を東アジア国際社会にもたらしたのである。清朝は対西欧列強においては条約を締結する一方で、中国と周辺諸国の関係はこれまで同様華夷秩序における宗主国と藩属国の関係であり続けようとしたが、度重なる西欧列強との戦争によって、次々と朝貢国を喪失していき華夷秩序を維持することは事実上困難となっていった。最後に残った朝貢国朝鮮に対し、清朝は当初華夷秩序下の「属国」と近代国際法における「属国」とは異なるという主張をしたが、その説得力がないと判断するや、近代国際法的な「属国」へと朝鮮を改変しようと試み、馬建忠や袁世凱を朝鮮に派遣し、直接朝鮮国政に関与しようとした。その朝鮮も日清戦争後に締結された下関条約によって、清朝との宗主国―藩属国関係を完全否定され、華夷秩序は終焉を迎えることとなった(茂木1997、岡本2004)。
『万国公法』などが説く近代国際法は、単に国際関係の変化を迫っただけではなく、国内改革の推進剤ともなった。近代国際法の完全な適用を受けるためには「文明国」と認められねばならないためである。「文明国」と認められるためには以下の条件を満たす必要があった(広瀬1978、小林2002)。
1及び2の二つとも満たさない場合、「未開国」と見なされ、その行き着く先は列強の植民地であった。前者だけを満たす場合、「半文明国」とされて国家として承認されるものの、西欧諸国と同等の扱いを受けることはできず、不平等条約(関税自主権喪失・領事裁判権及び広範な治外法権の設定等)によって著しく劣等な立場に置かれた。近代国際法は「理念」として万国平等を謳いながら、現実では非西欧諸国を差別する国際秩序を支えており、このような「理念」と現実との落差に対し、やがて失望とシニカルな感想、そして理念よりも国力を重視する姿勢が出てくることは自然であった。これまで挙げた薛福成や西周、兪吉濬といった『万国公法』に肯定的な意見を持つ人々ですら、国際法の適用を受けるためには富国強兵という裏打ちが必要不可欠であることは強く意識していたのである(金鳳珍2004)。それは非西欧諸国が主権国家となるための国内改革を推進していく強い動機となった[28]。
さらに3の条件は、具体的には不平等条約の撤廃・平等な条約の再締結によって達成されるが、それは既存の「文明国」、つまり西欧国家にどれほど近似しているかという主観的な点から判断された。したがって国内改革の方向は必然的に西欧化の方向を取らざるを得なくなる。中国の洋務運動や戊戌変法、日本の明治維新における一連の改革、朝鮮の甲午改革・光武改革といった諸改革が、その変革に当たる。
だが、国内改革を行い主権国家としての体制を確立することと伝統的な国家観を維持しようとする既存の政治体制の努力との間には矛盾を含んでおり、それが国家体制の根幹に関わる改革を阻むこととなった。これに対して国家主権の危機をより深刻に受け止めた若い知識層を中心に発生したナショナリズムは既存の体制を根幹から否定して徹底した改革を断行する体制の確立を求めるようになる。それが日本では朝廷を擁して江戸幕府を倒幕する一方で既存の朝廷組織を解体して全く新たな明治政府を樹立した明治維新へと向かい、中国においては王朝体制の存在そのものを否定する辛亥革命へと向かうようになる。
近代国際法や国際情勢の要請によって、主権国家として生まれ変わるべく国内改革が進められたが、その影響は国内に留まるものではなく、同じ東アジアに位置する周辺諸国(近代国際法への順応速度は異なる)との関係に摩擦を呼び起こした。具体的には国境線画定や外交儀礼、藩属国の地位が争点となった。以下に挙げる諸事件はその代表例である。
国際法の認める主権国家となるということは、その主権がどこまで及ぶのかを確定する作業を経なくてはならない。たとえば清朝とロシアの間で結ばれた璦琿条約(1858年)や、日本と同じくロシア間で締結された樺太・千島交換条約(1875年)などは、清朝・日本両国の北方の国境線を画定するものであった。これは東アジア諸国とロシアとの間に結ばれた国境条約であるが、やがて東アジア諸国内においても国境確定の動きが現れてくることは不可避であった。従来からの華夷秩序に基づく統治範囲は、対象とする人や物資の移動によって伸縮するものであって固定的ではなく、国家の辺境に対する領有意識は周辺諸国と重複することが常態であった。そのため近代国際法に基づく固定した国境線の画定を行うとするならば、それは周辺諸国との紛争の種として浮上せざるをえなかった。
「宗主権―主権問題」とは、華夷秩序から条約体制へと国際秩序が移行する際に生じたある二国家間関係をめぐって持ち上がった問題である。前述したように華夷秩序では、中国王朝から冊封から受け、あるいは朝貢を行うことで、周辺諸国は宗主国―藩属国の関係となった。それは中国王朝の皇帝と周辺諸国の君主とが君臣関係を結ぶことを意味するが、それにより中国王朝の支配が周辺諸国全域に貫徹するということではない。むしろ概ね中国側は周辺諸国の内政・外交に干渉することはない。この状態を清朝は「属国であるが自主でもある」と西欧諸国に説明したため、歴史学では「属国自主」という表現を用いる。このような関係は『万国公法』の説く主権の概念から判断すると、曖昧で割り切れないものであった。
もっともこの問題がクローズアップされたのが、最後の朝貢国朝鮮をどう捉えるかという清朝と西欧・明治日本の意見衝突の時であった(岡本2004)。
ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称である。英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。
この条約によって、ヨーロッパにおいて30年間続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序をヴェストファーレン体制ともいう。