韓国併合

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韓国併合(かんこくへいごう、: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国大韓帝国[1]併合した事実を指す。日韓併合朝鮮併合日韓合邦とも表記されている

土地政策 [編集]

朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている[13]山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする[14]。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。

総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し[15]、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ[16]、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した


朝鮮における土地略奪・「土地調査事業」ほか

 韓国併合前後、朝鮮において多くの農民が土地を失い、農民としての仕事を失い、不安定な低賃金労働者となって都会に出たり、失業し一家離散となったり、海外流亡へと没落していくこととなったりしたのは、当時の日本の朝鮮政策に原因があることは否定できない。その中心的なものが「土地調査事業」である。朝鮮農民にとっては、その「土地調査事業」は、下記のような点で重大であった。
 その一つは、「土地調査令」第4条で、朝鮮総督府の定める一定の期間内に土地所有者の申告を規定したことである。この既定により、多くの朝鮮農民が先祖代々の土地占有や所有権を奪われた。複雑な申告手続きや朝鮮農民には理解が難しい申告内容、「法外な税金が課せられるようだ」というデマ情報などによって、当時の多くの朝鮮農民は当惑し、期限内に正確な申告をすることが困難であったという。また、せっかく申告した者の中に「印もれや申告形式の誤りのために所有権を失う者がある」と朝鮮総督府の関係者が認めているような有様であった。
 もう一つは、この「土地調査」を遂行した「地主委員会」は、「面長、洞里長 地主総代、主なる地主」と「地方庁当局者、警察官憲、当該地方担当の土地調査局準備員」など、日本官憲ならびにその保護を受けたメンバーによって構成されていたことである。時には威圧をもって土地調査が進められ、朝鮮農民は極めて不利な状況にあったという。
 下記は、その根拠法令の「土地調査令」と、1911年以後、至るところで個人所有の土地取上げがおこなわれることになったという「土地収用令」及び、大部分の森林が国有林に編入されることとなったという「森林法」(1908年1月)の一部とその解説の一部を「日本帝国主義の朝鮮支配上」朴慶植(青木書店)から抜粋したものである。
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            土地調査令(1912年8月制令第2号)

第1条 土地ノ調査及測量ハ本令ニ依ル
第2条 土地ハ其ノ種類ニ従ヒ左ノ地目ヲ定メ地盤ヲ測量シ一区域毎ニ地番ヲ附
     ス但シ第3号ニ掲グル土地ニ付テハ地番ヲ附セザルコトヲ得
 1、田、沓、垈、池沼、林野、雑種地
 2、社寺地、墳墓地、公園地、鉄道用地、水道用地
 3、道路、河川、溝渠、堤防、城堞、鉄道線路、水道線路
 前項ノ規定ニ依リ調査及測量スベキ林野ハ他ノ調査及測量地間ニ介在スルモノ
 ニ限ル
第4条 土地ノ所有者ハ朝鮮総督ノ定ムル期間内ニ其ノ住所、氏名、又ハ名称及
     所有地ノ所在、地目、字番号、四標、等級、地積、結数ヲ臨時土地調査局
     長ニ申告スベシ、但シ国有地ニ在リテハ保管官庁ヨリ臨時土地調査局長
     ニ通告スベシ
第5条 土地ノ所有者又ハ賃借人其ノ他ノ管理人ハ朝鮮総督ノ定ムル期間内ニ其
     ノ土地ノ四囲ノ疆界ニ標杭ヲ建テ地目及番号竝民有地ニ在リテハ所有者
     ノ氏名又ハ名称、国有地ニ在リテハ保管官庁名ヲ之ニ記載スベシ
第6条 土地ノ調査及測量ヲ為スニ付テハ其ノ調査及測量地域内ノ地主ヲシテ二
     人以上ノ総代ヲ選定セシメ調査及測量ニ関スル事務ニ従事セシムルコト
     ヲ得
第9条 臨時土地調査局長ハ地方土地調査委員会ニ諮問シ土地ノ所有者及其疆
     界ヲ査定ス
 臨時土地調査局長前項ノ査定ヲ為シタルトキハ30日間之ヲ公示ス
第10条 前条第1項ノ査定ハ第4条ノ規定ニ依ル申告又ハ通知当日ノ現在ニ依リ
      テ之ヲ為スベシ但シ申告又ハ通知ヲ為サザル土地ニ付テハ其ノ査定当
      日ノ現在ニ依ル
第15条 土地所有者ノ権利ハ査定ノ確定又ハ裁決ニヨリテ確定ス


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                   土地収用令

第1条 公共ノ利益トナルベキ事業ノ為必要アルトキハ本令ニ依リ其ノ事業ニ要ス
     ル土地ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得
第2条 土地収用又ハ使用スルコトヲ得ル事業ハ左ノ各号ノ一ニ該当スルモノナ
     ルコトヲ要ス
 1、国防其ノ他軍事ニ関スル事業
 2、官庁又ハ公署建設ニ関スル事業
 3、教育、学芸又ハ慈善ニ関スル事業
 4、鉄道、軌道、道路、橋梁、河川、堤防、砂防、運河、用悪水路、溜池、船渠、
   港湾、埠頭、水道、下水、電気、瓦斯又ハ火葬場ニ関スル事業
 5、衛生、測候、航路標識、防風、防火、水害予防其ノ他公用ノ目的ヲ以テ国又
   ハ公共団体ニ於テ施設スル事業
 6、一ノ場所ニ於テ1年3万5千瓲以上ノ製鋼製鉄能力及1年3万5千瓲以上ノ製
   鋼能力ヲ有スル設備ヲ以テ営ム製鉄事業
   前項6号ノ製鉄事業ノ範囲ハ朝鮮総督之ヲ定ム
第4条 土地ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得ル事業ハ朝鮮総督之ヲ認定ス 


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                   森林法(抜粋)

第1条 森林ハ其所有者ニ依リ之ヲ分チテ帝室森、国有林、公用林及私有林トス
     山野ハ森林ニ準ジテ本法ヲ適用ス
第2条 国有林山野ノ売却・譲与・交換又ハ貸付及国有ノ林産物ノ売却ニ関スル
     規定ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム国土保安林又ハ国有林野ノ経営上国有保存
     ノ必要アル森林山野ハ之ヲ売却・譲与・交換又ハ貸付スル事ヲ得ズ
第3条 農商工部大臣ハ造林者ト其収益ヲ分収スルノ条件ヲ以テ国有森林山野ニ
     部分林ヲ設定スルコトヲ得
第19条 森林山野ノ所有者ハ本法施行ノ日ヨリ3箇年以内ニ森林山野ノ地積及面
     積ノ見取図ヲ添附シ農商工部大臣ニ届出ヅベシ期限内ニ届出ナキモノハ
     総テ国有ト見做ス

 森林法の制定の目的が何であるかはその19条によって明らかである。この地籍届の強要は林野の大部分を占めていたいわゆる「無主公山」と呼ばれた一般人民の共有林(入会地)の略奪を意味するものであり、事実富裕な朝鮮人山林地主や日本人山林資本家らの届出によるものは全林野面積の7分の1にも満たぬ220万町歩にとどまり、あとの大部分は「国有林野」に編入されてしまったのである。こうして朝鮮人民は1910年以前にすでに多くの私有林や、共有林を略奪され、林野の共同利用がが不可能となり、毎日の薪炭にも困難をきたすようになった。

 ・・・(以下略)

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【その時の今日】朝鮮総督府の土地調査事業が完了…大地主なった日本人夫婦

2009年06月19日10時17分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。

冷戦時代に韓国は、映画のように彼我と善悪の区分が鮮明な二分法を通じて植民地時代を見た。そのとき誰も「植民地時代には収奪があっただけで開発はなかった」という韓国史学界が築いた「収奪論」にクエスチョンークを付けなかった。冷戦が終わった後、民族と民衆を主語とする「内在的発展論」は統計という客観的指標を掲げた「経済成長史学者」の激しい挑戦に直面した。

こうした学者らは朝鮮後期に自生的な近代が芽生えたと考えていない。ドラキュラに噛まれた犠牲者も吸血鬼になるように、60年代以降の韓国の急速な経済成長の起源は、ドラキュラに吸血された植民地時代から見いだすべきだと主張する。搾取に向けた土地調査事業も「近代的な土地私有制度の確立」を通じて解放(独立)後の経済発展に寄与した、ということだ。

植民地時代に収奪ばかり行われたわけではなく開発も並存したという「植民地近代化論」に一撃を食らった固い民族主義の談論に亀裂が生じ始めた。しかし今日の韓国の市民社会には、他者への差別や排除を誘発する民族主義を脱却すべきだとする人や、環境の破壊や大規模な殺戮(さつりく)が行われた近代の何がよいのかと批判する人も存在する。

「脱民族」と「脱近代」を叫ぶ人たちの目には、「植民地近代化論」もドラキュラになることを夢見る近代至上主義という点で、民族主義の談論と双生児として映るだけだ。より良い未来社会を作るために衝突する歴史の記憶の間隙を狭めることがいつになく必要とされる今日この頃だ。



2.日本の朝鮮統治期 Ⅰ(『日本』平成15年5月号)

韓国高校歴史教科書(日本語訳)*1はA五判五〇〇頁を超え、その内高宗の即位(一八六三年)から日本統治の終了まで一三〇頁を使っており、その大半を日本非難に徹している。この教科書は一九九六年に改訂されたが、それまでのものに比べ、より詳しく、ますます民族主義の色を濃くしている。それに対し明成社の最新日本史*2では判が一回り大きいとは言え、明治維新(一八六八年)から終戦まで八〇頁弱であり、その内朝鮮関係はほんの二ー三頁に過ぎず、台湾に至っては数行に過ぎない。これで韓国や台湾・樺太・パラオ等の人達と付き合っていけるのだろうか。今少し日本の植民地統治について頁をさくべきではなかろうか。

三・一独立運動

 日本統治前期の最大の問題は、やはり三・一独立運動であろう。日本の教科書も大きく取り上げ、日本の植民地統治を非難している。

大東亜戦争末、カイロ宣言に記載された「世界で最も苛酷な圧政を受けている朝鮮人」とは、三・一独立運動を非難した、朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』*3に紹介されている上海西報の記事の題名である。この本で主張されている事柄は、今日の韓国の主張の根幹であり、この本、そして三・一独立運動が世界の対日観に、非常に大きな影響を与えた。

 この本によると大正八年三月から翌年九月までにアメリカ各新聞は九千回以上も朝鮮問題を記事にし、アメリカ国会で二度も議題として提出されたとの事である。この本の中には上院に於ける報告が一六件の証拠書類と共に記述されている。尚提出された証拠書類は三三件もあり、日本の弾圧、拷問の厳しさが述べられている。どうもこの頃から日本は情報戦で、朝鮮に負けていたようである。

 この本による犠牲者数は、朝鮮総督府発表の一〇倍以上であり、韓国高校教科書始め、自虐派の本にはこの数字が記載されている。所がこの著者・朴殷植は亡命中であり、あちこちでの聞き取りを集計したものであり、且つ反日を煽るための本である。面(村)毎、月別に集計された総督府の数字より信頼性が高いとは思えない。下に両者の数値を示す。*4
   

参加者 死者 負傷
朴殷植 203万名 7,509名 15,961名
朝鮮総督府 106万名 553名 1,409名
憲兵・警官 8名 158名

 ここで驚くべき事はこれだけの大事件でありながら、誰一人として死刑になっていないことである。主犯とされた孫秉煕・崔麟等八人でたったの懲役三年に過ぎず、有罪となった人は三七人に過ぎない。中でも崔麟は刑半ばで仮釈放され、アイルランドを視察させる等話し合いを行い、親日派の論客に育て上げている。二年六月の刑を受けた崔南善、独立宣言の起草者、李光洙、一〇五人事件(寺内総督暗殺未遂事件)の主犯とされた尹致昊等の活躍で、戦前日鮮一体が大いに盛り上がったのである。

 それに対し、戦後人口わずか二〇ー三〇万人の済州島では、パルチザン運動で七年間に、五ー八万の島民が虐殺されたと言われる。四人に一人が殺されたことになる。それに先立つ大邱の暴動では、検挙者四千五百人、内死刑に処せられたものが一〇人に達している。 日本の統治は世界一厳しい所か、世界一穏和で、「和を以て尊とし」としたように思われる。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議におけるアメメカ大統領・ウイルソンの民族自決論を聞いた在日朝鮮留学生達は、東京に集まり大正八年二月八日決起集会を開き、祖国朝鮮の独立要求書を日本政府に提出しようと図った。

 同年三月一日、高宗の国葬に全国から群衆が京城に集まった。パゴダ公園で独立宣言書が読み上げられ、デモ行進が始まった。更にストライキ・電車打ち壊し・鉱区破壊等の暴力的行為に発展した。同時に運動が主要都市から地方へ広がると共に、農民達は武装して面事務所(日本の村役場に相当)、憲兵事務所、親日派地主等を襲撃する迄に変質して行った。更に学校への焼き討ちに加え、在所日本人に「日本に帰れ」と投石を以て脅迫行為を行った。このような不特定多数の市民が武装して警官隊に抵抗する場合、此れを平定出来るのは軍隊のみである。

 韓国教科書が非難する堤岸里の虐殺事件は、数人の憲兵隊が住民二〇人余りを教会に集めて、学校への放火事件を取り調べようとした事から起こった。集められた彼らが暴れ出したので、自衛のため、教会の扉を閉め、放火したものである。前日巡査二人が殺され、学校が放火され、日本人住民が受けた暴行、そして憲兵隊の数倍の容疑者の反抗を考えると、一方的に憲兵隊を非難するのは如何なものか。

                          農地の略奪

 韓国の高校歴史教科書には「土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国土の四〇%にもなった」と書いてある。所が土地調査の終わったわずか四年後の大正一一年、日本人保有農地はわずか六%にすぎない。その中には細川侯爵家のように、正当に買収した農地も多い。何故このような食い違いが起きたのであろうか。

 土地調査事業は韓国歴史教科書では「その目的は全国的な土地略奪にあった」としているが、韓国が主体的に行った乙未改革の継続事業であり、統治者として現状調査は、課税の公平・今後計画の立案のため、必須の事業であった。

この事業で接収された耕地は十四万七千町歩であり、持ち主不明の荒蕪地約九〇万町歩を加え、約一〇五万町歩である。一方実測計画面積は納税台帳より、二七五万五千町歩とされた。従って分母は、国土ではなく計画測量面積とし、分子は耕地ではなく土地とすれば約四〇%となる。

  しかし実測の結果、全耕地面積は四百五十万町歩であることが判明した。従って接収した耕地は約三%にすぎない。この三%の土地は乙未改革以来、官と民で所有権争いをしていた、かっての公有地である駅屯土、王室関係の宮庄土が殆どであった。

朝鮮の土地調査による土地の接収は裁判によるものであり、どちらに理があるのか、専門家でない筆者には分からない。しかしこの結果接収した土地を日本人に払い下げ、三〇万人以上の農民に不満を残したことは、寺内総督の失政であったと言わざるを得ない。

 又平成一三年改訂前の清水書院・中学教科書*5では「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いているが、当時の農家戸数は約二七〇万戸で、土地調査完了時、土地所有を認められた人は一八七万人もあり、明らかに間違いである

しかしこの土地の多くを日本人農家に払い下げた事により土地を奪われた朝鮮人農家が多数あったことは否定できず、殆どの教科書では「土地調査により土地を奪われた農民は、内地や満州への移住を余儀なくされた」と記述している。この事はその時点をとれば事実であるが、施政三六年を通じて考えれば間違いである。

 下に各十年間の移住者数を示す。*6併合により移住者数が急増したことは確かであるが、土地調査とは無関係に移住者数が増えていることが分かる。これは朝鮮の人口の増加によるものである。統計がほぼ正確になったと思われる、一九一六年から一九四〇年までの人口増を内地と比較する。内地では三四%の増加に対し、朝鮮では四二%増えたのである。この間日本人は朝鮮に約三〇万人 移住したのに対し、朝鮮人は満州、内地に合わせて二〇〇万人以上移住した。もし朝鮮人の内地、満州への移住がなかったら、人口増加率は更に一〇%近く増える。 医学の進歩と、衛生の改善により死亡率が減り、農業以外に生活の手段がなかった当時、これだけの人口増を支えるためには移住しか方法はなかったのである。

内地、満州への移住者数
1910年まで 112千人
1911-1920年 388千人
1921-1930年 526千人
1931-1940年 472千人

米の収奪

韓国歴史教科書では大正元年から昭和一二年までの米の生産量と日本への移出量の表を提示し「増産量を遙かに超過した量を収奪していったのである。そのためにわが農民の大多数は飢餓線上にあえぎ」と非難している。日本の植民地支配の厳しさの証拠として盛んに言われる問題である。

 大正一四年から昭和六年にかけ、内地の米の価格は約四〇%に暴落した。これでは農村はたまったものではない。農村部では、役場の吏員や学校の先生の給料が払えず、娘の身売りが続出した。内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であると言われ、農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。これに対し米の移出の自由を求める朝鮮総督府が鋭く対立した。

 即ち米騒動のあった大正時代は、日本は米不足で、台湾、朝鮮からの米を欲したが、昭和に入ると各地とも増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代に入っていたのである。朝鮮では米に代わる換金作物が無く、衣類その他を買うためには米を売る以外に方法はなかった。

 この時代アメリカでは同じように砂糖、椰子油等をめぐり、フィリピンとの貿易摩擦が問題となっていた。更にフィリピンからの移民と労働組合との労働摩擦が加わった。この圧力により、昭和一〇年フィリピン自治政府が発足し、一〇年後の独立が決まった。アメリカは総督に代わり、拒否権を持つ高等弁務官がいるだけで、殆ど独立に近い形になった。即ちフィリピンは独立を勝ち取ったが、実質はアメリカのフィリピン切り捨てだったのである。日本でも議会等で朝鮮切り捨てを主張する人がいたとの事である。

 即ちアメリカはフィリピンを、あくまでアメリカとは違う民族、国と考えたのである。それに対し日本は朝鮮を併合し、将来的には完全に一つの国となるよう運営した。その違いがインフラ整備の違いとなって現れ、工業化の度合いの違いとなって現れたのである。

差別問題

カイロ宣言では「世界で最も苛酷な圧政を受けている朝鮮人」と記載され、差別の厳しさが非難されるが、本当だろうか。

 当時の白人社会では、有色人種は一流レストランやホテルには、客として入ることは許されなかった。唯一日本人は日露戦争に勝ったことにより、準白人として遇されたにすぎない。

 アメリカでジャッキー・ロビンソンが、黒人初の大リーガーとなったのは戦後の一九四七年である。それまではどのように素晴らしい選手でも、大リーガーにはなれなかった。それに対し、日本では朝鮮人ではないが、台湾の呉昌征がプロ野球で、呉清源が囲碁界で大活躍していた。戦後熱狂的なプロレス人気を引き起こし、国民の英雄となった力道山は在日朝鮮人であった。

 日本人が朝鮮人を蔑視し、差別したことは否定しない。それは彼らの大半が文字を読めず、貧しく、不潔だったからである。特に両班は貧乏なくせに、気位だけは高く、働こうとしなかった。これでは差別されても仕方がない。しかしまじめに働き、栄達した人には惜しみない拍手を送っている。その代表が力道山であり、元衆議院議員・朴春琴であった。

 一般に朝鮮人には参政権が認められなかったと思われている。しかし日本は属地主義で、朝鮮に住む人は、日本人も朝鮮人も参政権が認められなかった。一方内地に住む朝鮮人は日本人同様参政権が認められていたのである。朴春琴は東京の深川地区で二回も衆議院議員に当選している。日本人にも人気がなければ当選できるはずがない。

 アメリカで黒人に参政権が与えられたのは、一九六五年である。朝鮮では終戦直前の一九四五年、内地同様参政権が与えられた。但し選挙の機会がないまま終戦を迎えた。アメリカより二〇年も早いのである。

貴族院議員には通算一〇人も任命されている。最初は一九三二年の朴泳孝である。彼は親日改革派の領袖であったが、高宗退位問題では日本に敵対し、済州島に流罪になっている。一九四五年三月任命された貴族院議員の中には尹致昊の名がある。彼は寺内総督暗殺未遂事件、別名一〇五人事件の主犯として懲役六年の刑に処せられた人である。大正天皇即位の大赦により釈放され、三・一独立運動では、日鮮融和、闘争無用論を主張、一九三〇年代にはキリスト教皇民化運動の先頭に立った。

地方政治では道知事一三人中五ー六人は朝鮮人であり、郡守、面長(村長)は原則として朝鮮人であった。地方自治は斉藤実総督の二回に亘る改革により、ほぼ達成された。軍では洪思翊が中将まで昇進している。日本の差別は一般に思われているより遙かに少なく、朝鮮人が奴隷状態に置かれたというのは、戦時プロパガンダに過ぎない。

脚注

*1 大槻健、君島和彦、申奎燮訳『韓国の歴史』明石書店二〇〇三年第二判
*2 村尾次郎、小堀桂一郎、朝比奈正幸他『高等学校・最新日本史』明成社平成一四年
*3 朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』平凡社東洋文庫昭和四七年
*4 名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』国際企画平成九年
*5 一九九六年文部省認定、清水書院『中学校歴史・日本の歴史と世界』
*6 杉本幹夫『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』龍溪書舎

http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/shazai/2shou.html