妖精
 
 クラン王子は、城の尖塔のてっぺんの部屋で、一人頬杖をついて窓の外を見ながら、ふう、とため息をついた。
 数日前のことだ。優しかったお母さまが、前触れもなく突然死んでしまった。まだ七歳のクランと、年子の姉のティカ姫はそれで大変なショックを受けて、それからというもの毎日泣き暮らしていたのだ。
 ようやく気持ちが落ちついて…まだ、悲しみが癒えたわけでは、もちろんなかったが…クランは、この尖塔に登ってきたのだ。会う人会う人が皆お悔やみの言葉をかけてくるので、よけいお母さまのことを思い出してしまい、また悲しくなるから、一人になりたかったのである。
 昨日までで思う存分泣いたので、また寂しくなって涙がこぼれる、ということはなかった。だが、とほうもない寂しさだけはどうしようもなかった。
 もう一度、深くため息をつく。
「どうしたの?」
 突如、そんなクランに話しかけてくる者があった。
 慌ててクランは後ろを振り向く。誰か入ってきたと思ったのだ。この尖塔はかなり高いので、窓の外からということは考えられなかったから。
 だが、そこには誰もいなかった。
「ここだよ、ここ」
 声は窓の外から聞こえてくる。クランが窓から顔を出してみると、頭の高さより少し上から、何か小さなものが降りてきた。
 それは、緑色の服を着た小さな人間のようなものだった。ただ、人間の赤ん坊よりもずっと小さくて大きさはクランの顔くらいしかなかったし、背中には昆虫のような透き通った羽が生えていたが。
「君は…?」
「ボクの名前は・・・。ああ、キミたちの言葉にならないや。んーとね、キミたちには妖精ってよく呼ばれるよ」
「妖精さん?」
「うん。それで、どうしたの? 元気ないじゃないか」
「実はね…」
 クランは妖精に事情を話した。妖精は、その内容にも関わらず、ずっとにこにこしたまま話を聞いていた。
「ふうん、そうなんだ。それで元気がなかったんだね。でも、悲しむ事なんてないんだよ」
「え?」
「キミのお母さんは死んじゃった。それは、この世界からいなくなっちゃったってことだ。だけど、世界はなにもここだけじゃない。ボクたちが住んでる世界だってあるし、ボクも知らない世界だってある。この世界が一番いい世界ってわけじゃないよ。きっと、キミのお母さんはもっと幸せな世界に行ったんだ。だから、キミは悲しまなくたっていい。お母さんが今も幸せに暮らしてると思って、喜んであげればいいんだよ」
「そっか…そうなんだ」
 クランは少しだけ元気が出た。お母さまがいなくなったことは確かに今でも悲しい。だが、そのお母さまが幸せなら、それはそれでいいのかもしれない。
「この世界は必ずしも本当の世界じゃないかもしれないよ。悲しいことやつらいことがあっても、それはもしかしたらキミが見ている悪い夢なのかもしれない。だから、気をおとすことなんてないさ」
 妖精はそう言って、にこにこしながらクランのまわりをゆっくりと飛んだ。
 クランは無言でうなづくと、妖精の方に向き直った。
「ねえ、妖精さん。いつも、ここにいるの?」
「いることもあるし、いないこともある。だけど、キミがもしボクに会いたいなら、望めばボクはいつでも来るよ」
「そうなんだ」
 クランは立ち上がった。ティカお姉さまはたぶんまだ泣いているはずだ。このお話をして、元気づけてあげようと思った。
「じゃあ、また来るね、妖精さん」
 クランは微笑むと、妖精に軽く手を振って、部屋から出た。
「うん」
 妖精はずっと、にこにこ笑ったままだった。
 
「まあ…」
 話を聞くと、ティカは涙で赤くなった目を上げ、驚いたような顔でクランを見た。
「本当なの?」
「うん」
 クランは得意げに大きくうなづく。それを見たティカは優しく微笑むと、クランを静かに抱きしめた。
「じゃあ…もう、クランも大丈夫ね」
「お姉さま…」
「聞いて、クラン。わたし、思ったの。わたしたちもつらいけど、お父様はもっとつらいだろうって」
 クランとティカの父であるフニクス王と、二人のお母さまであるマリーヌは、三十以上も歳が離れた夫婦だったが、人もうらやむほどの仲の良さだった。王でありながらお父様は側室も持たず、まるで娘のように若い妻をそれはそれは愛していたのだ。その妻が亡くなり、さすがに泣きこそしなかったものの、お父様は目に見えて元気をなくし、一気に老け込んでしまったようにも見えた。
「だから、こんなときにわたしたちまで泣いてたら、お父様もっと元気なくなっちゃうんじゃないかしら」
「お姉さま…」
 一瞬、クランはティカに、お母さまと同じ何かを感じた。
「そう思ったから、きっと妖精さんも、クランを励ましに来てくれたのよ」
「そっか…そうだよね」
 クランも、優しく微笑み返した。
「わたしは、お父様と一緒にいてあげたいから、クランは独りぼっちになっちゃうかもしれないけど…妖精さんがいるから、大丈夫よね」
「うん!」
 
「…どうしたの?」
 妖精はある日、クランがまたうかない顔をしているのに気づいた。もう、お母さまが亡くなってからだいぶ経つ。クランの悲しみもかなり癒え、この頃は妖精にも明るい笑顔を見せるようになっていたのだが。
「…お父様が…」
「お父様が?」
「…新しい…お妃さまを、もらうんだって…」
 さすがに、新しい「お母さま」とは言いたくないようだった。
 その実、フニクス王はこの結婚にそれほど乗り気ではなかったのである。彼は亡き妻マリーヌを心底愛していたし、既に六十近い高齢であった。それに、幼少ながらクランという後継者もいる。再婚する理由も意志もなかった。しかし、その再婚相手というのが、フニクス王と同じく王家の血を引く女性であり、その権力を背景に議会を抱き込み、その圧力で強く王に迫ったのだ。王の権力が目的なのは見え見えである。しかし、気弱なところがあるフニクス王は、それに逆らうことができなかった。
 そんな事情があったのだが、このときまだ八歳のクランに、そんな政治的野望が理解できるわけもない。彼はただただ、お父様がお母さまのことを忘れて新しい王妃を迎えるということが悲しくて寂しかっただけなのだ。
「へえ…」
 妖精はクランの話を聞き、少し低い声で答えたが、顔には笑みを浮かべたままだった。
「気にすることはないよ。人は何も一人の人しか好きになれないわけじゃない。お父様が新しいお妃さまをもらうからって、キミのお母さまを嫌いになっちゃう訳じゃないさ。キミだって同じだよ。きっと、お母さまのことを好きなままで、新しいお妃さまのことも好きになれるさ。新しいお妃さまも、きっといい人だよ」
「そうかなあ…」
「もし嫌な人だったとしても、最初からキミのことを嫌いだったりはしないと思うよ。だから、キミのほうから好きにならないと。人は、自分を嫌っている人のことをなかなか好きにはなれないからね。キミが新しいお妃さまのことを好きになれば、きっと新しいお妃さまもキミを好きになってくれる。そうすれば、また楽しく暮らせるよ」
「そっか…」
 クランの顔に笑みが戻る。
 しかし、この時ばかりは、妖精は、人間を甘く見すぎていた。
 
 妖精の言うとおり、新しい王妃は別にクランやティカのことを嫌ってはいないようだった。ただ、決して好いているわけでもないようだ。彼女は妃にはなりたかったが、クランやティカの母にはなりたくなかったらしい。
 母、と言えば、新しい王妃にはベリウスという連れ子がいた。互いに再婚という訳らしい。新しい王妃は、ティカやクランのお母さまよりも五つ以上年上だから、結婚したことがあっても子供がいてもおかしくはない。それに、新しい王妃も王家の血を引いているわけだから、ベリウスも当然王家の血を引いている。彼が王様の養子になることには全く問題はなかった。
 だが、新しい王妃は、結婚の直前ににとんでもないことを言い出したのだ。
「わたくしの子と、ティカ姫を結婚させましょう」
 これを聞いて、王妃以外の全員は飛び上がらんばかりに驚いた。
 王妃の目論見はこうだ。この国では女は王にはなれない。だから、自分の息子を王にし、その息子を意のままに操ることで、王権を掌握する。
 そのため、ありとあらゆる手段を駆使し、現在の王と息子のつながりを強めるつもりらしい。
 自分と王が結婚した後では、自分の息子とティカ姫は義兄妹である。義兄妹の結婚はさすがにまずい。だが、結婚直前であれば二人はただの遠い親戚でしかない。そして、子供同士が結婚しているからといって親同士が結婚してはいけないということもない。つまり、息子とティカ姫を結婚させた後自分と王が結婚すれば、息子には王の娘婿と養子の地位が、自分には妃の地位が転がり込むというわけだ。
 悪知恵が働くとしか言いようがない。クランもティカも彼女が何を考えているか、まったく理解できなかった。
「お姉さま…」
 クランは姉に心配そうに語りかける。だが、ティカには意外と気落ちした様子がなかった。
「…しかたないわ。王家に生まれた女が、望まない結婚をするのは当たり前のことよ。もう、覚悟はしてたから。それに、新しいお妃さまは何を考えてるのかよくわからない人だけど、お義兄さまは物静かで優しい、いい方だし…」
 ティカの言うとおり、ベリウスは、母に似ず大人しく、気弱で、人当たりのいい少年だった。望まぬ結婚の割には恵まれた相手と言っていいだろう。
「ホントにいいの? お姉さま…」
「うん。心配してくれて有り難う。でも、これでお父様と新しいお妃さま、もっと仲良くなれると思うから。わたしは平気よ」
 ティカは優しく微笑んでみせる。何となく納得できないものは残ったが、当のティカがいいと言うのなら、いいのだろう。
 
「ふぅん」
 妖精は相変わらず、にこにこしたままだった。
「その、お姉さまの相手って、どういう人?」
「うん。新しいお妃さまの子供とは思えないほど普通の人だよ。大人しいし、優しいし」
「そう。その相手がどんな人なのか、ボクは知らない。けど、一緒にいれば、悪いところもいいところも見えてくるものだよ。キミのお姉さまならきっと相手のいいところをのばして、悪いところをなおしてあげられる。そうすれば、お姉さまとその人はずっと仲良くなれる。きっと幸せな結婚になるさ」
 妖精はクランの頭の周りをぱたぱたと飛び回る。そして、ただでさえいつも笑っている顔中にさらなる笑みをたたえ、
「おめでとう」
 と、自分自身も嬉しそうに言った。
「どうして、そんなに楽観的に物事を考えられるの? 僕は不安でしょうがないのに」
「…悪い結果を覚悟する心は、その裏側で悪い結果を期待してるのさ。それは悪い結果を招く。だから、何でも良く考えた方がいい。そうすれば、その心が良い結果を招くのさ」
 妖精はクランと視線を合わせると、続けた。
「それに、嫌なこと考えてるより、良いこと考えてたほうが楽しいじゃないか」
「うん…そうだよね」
 クランもそう答え、妖精に微笑み返した。そして妖精の言うとおり、きっと明日はいいことがあると、思うことにした。
 
 クランの思いが通じたのか、お姉さまとベリウスが、お父様と新しい王妃が、それぞれ結婚してからというもの、別段悪いことは起こらなかった。
 新しい王妃は結婚前と変わらず、クランやティカのことを好きでも嫌いでもないようだったが、ベリウスは義弟のクランのこともかなり可愛がってくれた。
 第一印象よりずっと、ベリウスはいい人だった。妻であり義妹であるティカにも本当に優しかったし、たまに街にも遊びに出ていて街の人々にも評判が良かった。クランに対しても実の兄のように接してくれた。
 フニクス王は老齢のため、実際に政治を行うことはだんだん少なくなっていた。ベリウスはその代行、という立場になることが多くなっていたが、実際に実権を握ったのはベリウスの母である新しい王妃だった。だが、ベリウスは別にその現状に不満ではないようだった。権力欲がそれほどない人らしい。
 そんなわけで、王家は平和な一時を過ごしていた。だが、クランは相変わらずあの尖塔のてっぺんの部屋で、妖精と会っていることが多かった。
「よかったじゃないか」
 このところ、クランは妖精に楽しい話ばかりをしている。それを聞くのが妖精も楽しいらしく、以前よりももっとにこにこしながらクランの周りを飛んでいた。
「でね、お義兄さまは僕も街に連れてってくれるって言うんだ。だけどお妃さまがダメだって言うんだよ」
 クランはもう、ベリウスを義兄と呼ぶことにはまったく抵抗はなかった。それくらい、ベリウスとクランはうまくいっていたのである。しかし、王妃はベリウスとクランが仲良くするのをあまりよく思っていないようだった。それだけでなく、最近になってだんだんクランを疎んじるようになってきたようにも思える。
「お妃さまは、僕のこと嫌いなのかなあ…」
 ベリウスと仲良くなったクランは、その母である王妃ともうまくやっていきたいと思っていた。
「そんなことないよ」
 妖精はにこにこしながら、首を横に振る。
「誰だって友達は多い方が楽しいはずだもの。お妃さまは、きっといろいろやることがあって、キミと遊べないだけなんだよ」
「そうかなあ?」
「そうだよ。だって、キミはお義兄さまとも仲良くなれたじゃないか。お妃さまともきっとうまくいくさ。ね?」
 妖精がにこにこしながらそう言うと、不思議とクランは本当にうまくいくような気がしてきた。そして、いつものように、
「うん、そうだよね」
 と、答えた。
 
 しかし、クランに与えられたその平和は、あくまでつかの間のものでしかなかった。
 この後、クランは、運命の濁流に飲み込まれたような人生をおくることになるのであった。
 そして、その悲劇の一つ目が、クランを襲った。
 父であるフニクス王が、崩御したのである。
 フニクス王は既に六十四歳という高齢であり、確かに崩御も不思議ではない歳ではあった。しかし、誰が見ても今日明日にコロッと逝きそうな雰囲気ではなかったし、その死の様子もある朝真っ青になって冷たくなっているのを発見された、というものだったので、誰からともなくまことしやかに、
「王は、わが子を王にと企む新王妃に暗殺された」
 という噂が流れた。
 その噂が本当かどうか、確かめる術はない。確かに王妃は怪しいことこのうえないが、彼女の仕業だという証拠は何もないのだ。もしも本当に彼女の仕業なのだとしたら、かなり緻密な計画があったのだろう。
 フニクス王の崩御から後は、怒涛の勢いでことが進んでいった。クランはその渦中におり、尖塔に登るヒマすらなかった。
 まず、フニクス王の崩御に伴い、新王の決定が行われた。その際、年長であるが養子のベリウスと、年下であるが実子のクランの間で…正確に言えば、彼らをそれぞれ祭り上げた勢力の間で後継者争いが起こった。クランもベリウスも相手を押しのけてまで王になろうとする気はなかったが、彼らの意志の及ばないところで激しい争いが繰り広げられた。結局最終的には、先王の実子であるティカを妻にしていることと、王妃の手腕がものをいい、新王はベリウスに決まった。
 クランの不幸はそれだけに止まらなかった。王妃…いや、ベリウスの即位に伴って「王母」になった…は、新王に対する反逆の疑いで、クランの幽閉を決定したのである。新王ベリウスも新王妃ティカもこれには猛反対したが、結局王母は聞き入れず、クランに地下牢への幽閉を言い渡した。
「嫌です!」
 このとき、クランは初めて、王母にはっきりと反発した。
「僕が争いの種になることはわかります。僕とお義兄さまの間で実際に争いもあったことですから、幽閉も仕方ないでしょう。ですが、地下牢は嫌です。まがりなりにも、僕は第二王位継承者です。そんな薄暗いところに押し込まれては、尊厳にも傷が付きます。幽閉するなら、もっと明るい場所に、そう、尖塔にしてください」
 いろいろ言ったが、つまりクランは、尖塔に登れなくなることを嫌がったのである。
 たぶん、地下牢にいても望めばあの妖精は出てきてくれるだろう。だが、薄暗い地下牢にあの明るい妖精は似つかわしくはないとクランは思ったのだ。
 地下牢であれ、尖塔であれ、外界と隔絶されていることに変わりはない。王母はクランの言葉を容れ、彼を尖塔に幽閉することに決めた。
 
 ガチャッ。
 いつものように、クランは尖塔の小部屋に入った。
しかし、いつもと違い、その後に外から鍵がかけられる音がする。
 クランは部屋の中央にある椅子に腰掛け、大きくため息を付いた。これで、この部屋から一歩も出ることは出来ない。城の庭で花を間近に見たり、走り回ったりすることもできないのだ。それに、ベリウスやティカと自由に会うことも出来ない。
 幸い、尖塔に幽閉されているので、妖精とだけは自由に会える。それだけが救いだった。
 だが、気が沈むことにかわりはない。
 クランは、もう一度重いため息を付いた。
「どうしたのさ。浮かない顔して、ため息なんかついて」
 いつものように、妖精が話しかけてきた。
「妖精さん」
「また何か、つらいことがあったの?」
「うん…まあ、ね」
 クランはぽつりぽつりと、事情を話し始めた。
「僕…やっぱり、お妃さまと仲良くなれなかったみたいだよ」
「諦めちゃうの?」
「しょうがないよ。僕はもうここから出られないんだから、仲良くなろうとすることだってできないんだ。お姉さまやお義兄さまにももう会えないし」
「…どうして、お妃さまはこんなことしたんだろうね?」
「さあ…。お妃さまの考えてることはよくわかんないよ」
 そう言って、クランはもう一度、大きくため息をついた。
「元気出して。ずっとここから出られないってことは、言い換えればずっとここから出なくていいってことじゃないか。ここにいる限り、キミはすべての時間をキミの好きなように使える。やりたいことは少し出来なくなるかもしれないけど、やりたくないことは一つもやらなくていいんだよ」
「でも…」
「それに、独りぼっちじゃないよ。ボクがずっと一緒にいてあげるよ。ね?」
「そうだね」
 クランは幽閉されてから初めて、にっこり笑った。やはり、ここに閉じこめられることを選んでよかった、と思った。
 そうだ。妖精さんの言うとおり。僕はもうやりたくないことは何もしなくていいんだ。好きなように暮らせる。窓から景色を見たり、鳥の歌を聞いたり。頼めば本くらいなら持ってきてくれるだろうし。結構、気楽な生活かもしれない。
 クランは窓から外を見た。
 晴れ渡った青空が広がっている、気持ちのいい天気だった。真っ黒な雲が遥か彼方にあるが、ほとんど気にならなかった。
 しかし、その暗雲こそが、クランの運命を象徴するものであった。
 クランが、そのことを知る術はない。
 
 対立候補であるクランが幽閉され、ベリウスが即位し、それで万事めでたしめでたしとなったかといえば、決してそうではなかった。
 クランの幽閉でとりあえず騒動は一段落したものの、それは一年ほどしか続かなかったのである。
 新たな災いの種は、一人の女性だった。
 新王となったベリウスは、養父フニクスと違い、側室を迎えた。別にそれ自体は悪いことではなかったのだが、その側室の性格が問題だった。
 その側室は、王母とそっくりな性格、つまり、野心にあふれ、権力志向が強い女だったのである。
 側室の影響からか、ベリウスの性格にも徐々に変化がみられるようになってきた。王権にほとんど興味のなかった彼が、次第に自ら王権を行使するようになり始めたのである。
 こうなると面白くないのは、わが子を傀儡にして王権を手中に収めていた王母である。
 こうして、ベリウスとその母の間に不和が生じた。
 
 尖塔の部屋のドアがノックされた。
「はい?」
 クランは疑問に思い立ち上がる。食事を持ってくる時間ではないし、無闇にクランに会うことは王母によって禁じられているはずだから。
「失礼」
 ドアが開けられ、クランはさらに驚いた。入ってきたのが、他ならぬ王母だったからだ。
「お…王母さま」
 王母は人払いをすると、真っ直ぐにクランに向き直った。
「単刀直入に申すぞ、クラン殿」
「はあ…」
「そなた…王になる気はないかえ?」
「えぇっ!?」
 クランは一瞬自分の耳を疑った。自分の即位を最も嫌がり、ここに幽閉したのは王母ではないか。それなのになぜ…?
「即位して初めてわかったのじゃが、わが子ベリウスは王たる器ではなかった。街で見つけてきたどこぞの名も知らぬような貴族の娘を側室に迎えると、その女の言いなりになって愚行三昧じゃ。これでは、この国は乱れる一方。そこで、ベリウスを廃し、そなたに即位して頂きたいのじゃ」
「・・・・・・」
 クランは、救いを求めるように妖精を見た。妖精は黙って笑ったまま、首を傾げる。
「クラン殿? 何かおるのかえ?」
「え? あ、いや…」
 王母に、どうやら妖精は見えないようだった。
「でも、いきなりそんなこと言われても、僕は…」
「そうか…。されど、このままあれを王としておいては国の危機じゃ。国を思うなら、この義母に力を貸してはくれぬか」
 今まで、王母は一度もクランに対して自分のことを「義母」などとは言わなかった。クランはそれに気づき、少し眉をひそめた。
「…考えさせて下さい」
「うむ」
 王母は短く返事をし、立ち上がった。
 そのとき扉の外にあった気配に、王母もクランも気づかなかった。
 
「お食事でございます」
 次の日からは、また定刻通りの食事くらいしか訪問者はなくなった。
 クランは難しい顔をしながら、食事をとろうとする。
「食べちゃだめだよ」
 妖精が突然言い出す。
「え?」
「悪いものが入っているから」
 悪いもの…? 毒!?
 見た目には全くわからない。匂いもしないし、少しなめてみても味もまったく変わらない。だが、妖精がクランを不安がらせるようなくだらない嘘をつくとも思えなかった。
 食事に毒が盛られた…。
 僕は、暗殺されかけたんだ。
「誰が…誰がこんな…」
 涙があふれてきた。自分が生きていることを嫌がる者がいる、そのことがたまらなく悲しかった。
 自分が死んで一番特をするのは誰か。
 この間の王母の話からすれば、考えられるのはただ一人。…義兄・ベリウス王だ。
 いくら否定しようとしても、そうとしか考えられなかった。少なくとも、ベリウスは自分を殺すことを止めなかったのだ。
 ベリウスとの思い出が頭をよぎった。優しくて大人しいあの義兄が、まさか。
 クランは、この部屋の外で何が起こっているのか、まったく知らなかった。ベリウスが変わってしまったことも。
「妖精さん! 僕…僕、どうしたらいいの!?」
 すがるようにクランは言ったが、妖精は答えなかった。初めて、妖精の顔から笑みが消える。
「人は…どうして、人同士で殺しあえるんだい…?」
「わからないよ…わからないよ、そんなの…」
 妖精はそれを聞き、再び笑顔を取り戻して、クランの目前に飛んできた。
「初めてキミと会ったとき、ボクは言ったよね。
『この世界は必ずしも本当の世界じゃないかもしれないよ。悲しいことやつらいことがあっても、それはもしかしたらキミが見ている悪い夢なのかもしれない』って」
「うん…」
「これは、きっと悪い夢なのさ」
「そう…だよね…」
 クランは涙を拭く。
「悪い夢なら…目を覚ませばいい」
 妖精は言って、窓の外へ出た。
「さあ、目を覚まそう。ボクの世界へおいでよ。
 つらいことも悲しいこともない世界へ」
「そっちに行けばいいの?」
「うん」
 クランはしっかりした足どりで、窓に歩み寄る。
「悪い夢を見るのはもうやめようよ。ね?」
 妖精の微笑みに惹かれるように、クランは窓から大きく身を乗り出した。
「おいで」
 部屋の床を蹴る。
 いままで、一度も触れられなかった妖精の手を、確かに握れた…ような、気がした。
 妖精は、今までで一番の、とびきりの笑みでそれを迎えた。
 悪夢からの出口となった尖塔の部屋にはもう人影もなく、ただ白いカーテンだけが柔らかな風で揺れ動いていた。
 
                           <了>
 
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