天使
 
 ・・・・・・
 運命の時は近づいています。
 あなたに残された時間はもうほとんどありません。
 最後に一つだけ、あなたの望みをかなえましょう。
 あなたが一番会いたがっている人に、
 あなたの最良の友人に、別れを告げる時間を差し上げましょう。
 もうすぐ、あなたのもとに友人が訪れるでしょう。
 心残りのないように、存分に別れを惜しんで下さいね。
 ・・・・・・
 
 それは、九月の終わりのことだった。
 篠原瑞穂は、衣替えに向けて冬服を出すべく、収納庫の前に立った。
「・・・・・・」
 瑞穂は絶句する。
 彼女にとって収納庫を開けるということは、相当な覚悟が要ることなのだ。
 実は、彼女は恐ろしく…そう、自分でも恐ろしくなるほどずぼらなのである。
 部屋が散らかってくると…目に付くものを、片っ端から収納庫に放り込んでしまう。
 瑞穂の部屋の収納庫はかなり大きいので、いつもはそれで困ることはない。
 だがしかし、何か目的を持って…例えば冬服を出そうとか思って…収納庫の前に立ったとき。
 彼女は息をのんでしまう。
 今までのツケが恐ろしいのだ。
「仕方ない」
 瑞穂は心を決めると、収納庫の取っ手に手をかけ、息を止め目を閉じて一気に開いた。
 崩れてきたりはしなかった。
 瑞穂がゆっくり目を開けると…。
「うわっ」
 自らの仕業でありながら、瑞穂は再び目を閉じたい衝動に駆られた。
 古新聞、ビデオテープ、からっぽのビニール袋、空き瓶、くしゃくしゃの服、雑誌、etc…。
「あっちゃあ〜…」
 短く切った髪をくしゃっと乱す。困ったときの瑞穂の癖である。
 冬服が入っているはずの衣装ケースなど、影も形も見えはしない。
「しょうがないなあ」
 瑞穂はとりあえず手に触れた、ハンカチらしい布をぐいっと引っ張った。
「ひゃっ…!」
 積み上がったなぞの物体たちが、ぐらりと揺れるのが瑞穂の目にうつった。
 
「いたたた…」
 瑞穂は頭をさすりながら、周りを見回した。幸いにしてケガしたりはしなかったが、周囲はひどいありさまになっていた。
「あーあ…」
 嫌々ながらも、瑞穂は部屋を片づけ始めた。いくら彼女がずぼらだといっても、このままではまともに部屋が使えない。
「あれ?」
 瑞穂はふと、見覚えのない手紙に気付いた。
 封は切っていない。宛名は瑞穂になっている。差出人は…。
「はっ…ちゃん?」
 佐山初美。それが差出人の名だった。瑞穂の小学校以前からの友人である。
 消印を見ると、三月ほど前になっている。夏休みの前後に送られてきたことになる。
「なんで、はっちゃんの手紙に気付かなかったんだろう…?」
 その手紙を見つけた周辺を見てみると、電気代・ガス料金の請求書に領収書、古新聞などがある。こいつらと一緒に郵便受けから引き抜いて、そのままクローゼットに放り込んでしまったのだろう。
「あーあ…」
 自分自身の行為にあきれながらも、瑞穂は手紙の封を切った。
 電話嫌いで筆まめな初美の、きれいで少し懐かしい字が並んでいる。
 
 瑞穂ちゃんへ。
 わたしは訳あって田舎に帰ることになりました。
 連絡先はまたわたしの実家になります。
 もうすぐ夏休みですよね。瑞穂ちゃんのことだからバイトにでも精を出すつもりでいることだと思いますが、たまには田舎に帰るのも、悪くないと思いますよ。
 わたしもあなたに会いたいです。
 ・・・・・・
 
 手紙はまだ続いていたが、どうやら初美が言いたい要点はここのところのようだ。
「あちゃー…」
 初美の考え通り、瑞穂はこの夏休みはすっかりバイトに精を出してしっかり稼いでしまった。田舎に帰ろうかな、と考えないでもなかったが、続けているバイトもあったので何となくそのままここにいてしまった。もし、この手紙が届いたときに気付いていたら、たぶん田舎に帰っていただろう。
「…今からでも、帰ろうかな」
 実は、瑞穂の通っている大学は、十月の前半にまとまった連休がある。どうしてかは今一つよくわからないが、学園祭と、体育祭と、卒業論文に関する何かと、創立記念に関する何かが重なっているらしい。
 瑞穂の大学の学園祭は、サークル毎の催しがメインで、サークルに入っていない瑞穂にはあまり縁がない。体育祭も、強制参加ではないので瑞穂は無視することにしている。まだ卒業論文のことはそれほど気合いを入れなくてもいいだろう。あとは、講義を一つ二つ自主休講にすれば、この時期は自由に使える連休になる。
「よし、帰ろうか」
 帰ったら初美に会おう。そう思って瑞穂は電話の受話器をとった。しかし、そのまま再び受話器を置く。
「へへ。いきなり行っておどかしてやれ」
 ちょっとした悪戯心だった。
 この時はもちろん気付かなかったが、ここで受話器を置いたことで、瑞穂はまたも重大なことを知り損ねたのだった。
 
「いやー…ずいぶん久しぶりだなあ…」
 郷里の駅に降り立って、うーん、とのびをする。色々あってこの頃は帰ってきていなかった。前に帰ったのは確か去年の夏休みだったはずだ。
「おーい、お姉」
 声をかけられ、瑞穂は振り返った。
 声の主は、瑞穂の弟の伸輝だった。ここから家までの荷物持ちにと思って、最後の乗り換えのときに電話で呼んでおいたのだ。
「おおう、久しいな弟よ。出迎えご苦労」
「何バカなこと言ってるんだよ」
 伸輝はあきれ顔で答えた。
「それじゃこれお願い」
 どさっ。
 伸輝の両腕に、恐ろしい量の荷物が乗せられた。
「お…お姉…なんで、宅急便なり何なりで送らなかったんだよ…」
「送ったよ」
「え?」
「これは道中要りようになる物なのだ」
「冗談は顔だけにしろよ、こんなに山ほど道中で何に使うんだよ」
「レディのたしなみってやつだよ」
「どこの世界にこんなに大量の荷物を持ち歩くたしなみがあるんだよ」
「ふはははは、弟よ。心の狭いことを言うでない」
「はいはい…」
 伸輝はこの件に関してそれ以上の言及を避けた。姉が万事こんな具合だというのは、何も昨日今日に始まったことではないのだから。
「で、伸輝。こっちはどう?何か変わったことあった?」
 バカ話を切り上げ、瑞穂は尋ねた。
「・・・・・・」
 急に伸輝の表情から笑みが消えた。
「…どうしたの?」
「…うん。初美さんが、ちょっとね…」
 初美と瑞穂は同い年なので、伸輝から見て初美は三歳年上になる。小学校でなければ同じ学校に通うこともない年齢差だが、小学校時代から高校時代まで初美がちょくちょく家に遊びに来たので、伸輝も初美のことはよく知っていた。「初美さんの方が姉さんだったらよかったのに」とは、伸輝がよく瑞穂に言った台詞だ。
「ああ、はっちゃんこっちに帰ってきてるんだってね。そのはっちゃんがどうかしたの?」
「入院…してるんだ」
「え…!?」
 瑞穂は歩みを止め、伸輝を問いただす。
「はっちゃん…どっか悪いの?」
「・・・・・・」
 伸輝は再び黙りこくる。そして、再び口を開いた。
「…癌…なんだって」
「!!」
 
「はっちゃんっ!!」
 ばあんッ!と病院のドアを開け、瑞穂は病室におどり込んだ。他の部屋の患者さんたちに迷惑なことこのうえない。
 その個室に初美の姿はなかった。その代わりに、見知らぬ女性が一人、空のベッドの枕元の椅子に座っていた。
 年齢は…よくわからない。少女のようにも見えれば、人生経験を積んだ大人の女性にも見える。
 白い着物を着ていて、紫色の頭巾を被っている。
 尼僧だ。
「え…」
 一瞬瑞穂は戸惑った。もしもう一瞬間があれば、瑞穂の想像は不吉な方に一直線に突っ走ったであろうが、幸いにしてその暇はなかった。
「瑞穂ちゃん!」
 背後から声がかけられる。振り向くと、寝間着のままびっくりした顔をしている初美が立っていた。
「はっちゃぁーん!」
 瑞穂は奇声を上げて初美に抱きついた。
「きゃ〜、久しぶり〜」
「ちょ…ちょっと、瑞穂ちゃん…ここ、病院よ…」
 初美の制止も聞こえず、瑞穂はきゃーきゃーと奇声をあげ続けた。
「この人は、妙法院の庵主さまなの」
 瑞穂のきゃーきゃーが一段落着くと、初美は先ほどの女性の紹介を始めた。
「初めまして」
 庵主様は穏やかに頭を下げた。
「はあ…どうぞよろしく」
 瑞穂は、とりあえず頭を下げたが、それでもなぜこの庵主様が初美の病室にいるかという疑問は残ったままだった。
「わたしね…」
 初美はそんな瑞穂の疑問を察したらしく、口を開いた。視線を瑞穂から外す。何か話したくないことを話そうとしているようだ。
「死のうかなって…思ったんだ」
 
 初美の体調が悪くなったのは、今年の六月頃のことだった。
 最初は、大学生活の不摂生が祟ったか、くらいにしか思っていなかった。
 しかし体調は悪化する一方で、ある日初美は病院に行ったのだ。
 医者は、初美に病名を言わなかった。その代わりに、実家の連絡先を尋ねた。
「大したことありませんよ」と医者に言われ、とりあえず家に帰った初美のところに、しばらくして実家から連絡が入った。
「帰っておいで」
 理由を尋ねた初美は、そこで初めて自分の病名を知ったのだ。
 祖父や伯父が、癌で他界したという話を聞いたことがある。そういう家系だということは知っていた。だがまさか、自分がそうなろうとは。
 郷里に戻りはしたものの、初美は完全に抜け殻の状態だった。淋しくて、瑞穂に手紙を書いたが梨の礫で、初美は文字どおり生きる望みを無くしてしまった。
(いっそ、死んでしまおうか)
 そう思い始めたのはそのときだった。
 川の土手で水面を眺めながら、初美は死に方を考えるようになっていた。
「できるだけ綺麗で…苦しくなくて、人に迷惑のかからない死に方が、いいな…」
 そうつぶやいたその時だった。
「死んでしまおうとは、穏やかではありませんね」
 肩に手を置き、話しかけてくる者がいた。
「・・・・・?」
 振り向くと、そこにいたのは尼僧であった。
「私でよければ、話してごらんになりませんか」
 庵主様は、親身になって初美の話を聞いてくれた。
 そして初美は、とにかく病と闘うこと、そしてたとえ命尽き果てるとしても、それまでは悔いの残らぬように生きることを決意したのだった。
 
「庵主様がいなかったら、わたしきっと…もうとっくにくじけてたと思う」
「そう…だったん、だ」
 瑞穂は納得すると、庵主様の方を見た。庵主様は自分を見つめる二人の視線に、微笑みで応えた。
「さて…久しぶりに会ったお二人の邪魔をしては悪いでしょう。私はこれで」
「あ、庵主様。お気遣いをなさらなくても」
「いえいえ、お友達同志つもるお話もおありでしょうからね」
「そうですか。じゃあ、またいらしてください」
「はい。ではまたお邪魔いたします」
 庵主様は一礼し、病室を後にした。
「なんだか、最近の尼さんにしては浮き世離れしてるね。
 …あ、いい意味で言ってるんだからね」
「うん、わかってる。
 まあいずれにしても、とってもいい人よ」
「そうだね」
 二人はそんな話から始めて、いろんなことを話した。とりとめもない話は、いつ果てるともなく続いた。
 
 気付くと、辺りはもう暗くなっていた。
「あ…ごめん、すっかり長居しちゃったね」
「ううん、会えて嬉しかった」
「それじゃ」
「瑞穂ちゃん」
「ん?」
「また…来てくれるよね」
「うん、邪魔じゃないなら喜んで」
 ドアを開けて、部屋を出ようとし、瑞穂は振り向いて、微笑みを作って言った。
「頑張って、はっちゃん。きっと、よくなるからね」
「うん、大丈夫だよ。わたしにだってまだやりたいことあるし、今は癌なんて治らない病気じゃないんだから」
「そうだよね。じゃあ、またね」
 名残惜しそうにドアを閉め、立ち去る瑞穂は気付かなかったのだが、病室の近くに何者かの影があった。
「…人間の力では…結局、運命を変えることまでは、できないのですよ…残念ですけれどね」
 そいつは、縁起でもないことをつぶやくと、すうっ、と姿を消した。
 
 家に戻り、布団の上に寝ころんで、瑞穂はあまりにも目まぐるしかった今日一日のことを思い起こしていた。
 自分の知らないうちにはっちゃんがあんなことになっていたなんて。
 今もし自分が突然癌だなどといわれたらどうするだろう。
 見当もつかなかった。
 はっちゃん…
 きっと、よくなるよね。
 そんなことを考えているうちに、体が、忙しさのあまり忘れていた疲れを思い出したらしく、自然とまぶたが下がってきた。
 
 ・・・・・・
 どこだろう、ここは。
 辺り一面真っ暗で、何も見えない。
 ・・・・・・
 戸惑いながらも、漂うように進んでいくと、ぼんやりと光る白いものが見えた。
「…はっちゃん…?」
 それは、横たわっている初美であった。
「どうしたの、はっちゃん…?」
 さわろうとして、異常に気付いた。
 初美の顔には生気がまるでない。
 息をしているようにも見えない。
 まるで、初美の姿をした人形のようだった。
「はっちゃん…!」
 すがりつこうとした瞬間、何かが瑞穂と初美の間に割って入った。
「何…?」
 そいつは、白い衣をまとっていた。背に大きな翼を持っている。そしてその背後には光輪が輝いている。
 天使、という単語が頭をよぎった。
「…はっちゃんを、どうするの?」
 その天使(?)は、瑞穂の問いかけには答えず、微動だにしない初美を優しく抱きかかえると、瑞穂の方を振り返り、穏やかに微笑んだ。そして、そのまま初美とともに、すう…と、消えてしまった。
「はっちゃん…はっちゃん!はっちゃん!!
 …嫌だよ…そんなの…
 はつみぃーーーーーっ!!」
 
「あ…」
 次に瑞穂の目に映ったものは、薄暗い部屋の天井だった。
「夢…」
 ゆっくりと身を起こす。
「すごく…嫌な夢…だったな…」
 気付くと、涙があふれていた。
「そんなわけ…あるはずない。
 はっちゃんは…きっと、よくなるんだ…」
 自分に言い聞かせ、再び瑞穂は床についたが、結局もう寝付くことはできなかった。
 
 次の日、瑞穂は朝一番で病院に向かった。いても立ってもいられなかったのだ。
 病院に着き、駆け込もうとする。そのときだった。
 どんッ!
「あ!」
 何かにぶつかり、瑞穂はひっくり返った。
「ごめんなさい…」
「いえ、こちらの不注意でした。大丈夫ですか?」
 そこに立っていたのは、昨日会った庵主様だった。優しい笑みを浮かべ、瑞穂の前に立っている。
(・・・・・?)
 一瞬、倒れた自分の前に立っている庵主様の姿が、夢の、天使のような影とダブった。
(そんなはずないよね…)
 妙な連想を振り払うように頭を軽く振って、瑞穂は立ち上がった。
「あ…だ、大丈夫です」
「初美さんのお見舞いですね? 友達思いのよいお人なのですね」
「あ…えと、そういうのじゃないんですけど…」
「うふふ…。私もこれから初美さんのところへ参るつもりです。よろしければご一緒いたしませんか?」
 よろしければも何も、同じ病室に行くのなら嫌でも一緒になるはずだ。だが、その言葉は庵主様の穏やかな性格を瑞穂に印象づけた。
「あ…はい」
 庵主様は、瑞穂に微笑みかける。
(・・・・・・)
 再び瑞穂の脳裏に、あの夢が浮かんだ。自分と初美の間に立った影の、超越的なものを感じさせるようなあの穏やかな微笑み。
(…何を考えてるの、あたし…!)
 再び瑞穂は、今度はより強く、頭を振った。  
 
「あ…おはよう。瑞穂ちゃん、また来てくれたんだ。…うれしいな」
「・・・・・・」
(なんだか…はっちゃん、顔色悪い…)
 心なしか、初美の顔が青白く見える。
 夢の中の、生気のない初美の顔がだぶった。
「どうしたの、瑞穂ちゃん」
「あ、ん…。なんでも、ないよ」
 とは言うものの、瑞穂は感情が思いきり顔に出てしまう人間なので、表情はちっとも何でもなくない。
「…もしかして、わたし、元気なく見える?」
「ううん…ううん! そんなことないよ」
「あは…気を使ってくれてありがとう。でも大丈夫、久しぶりに瑞穂ちゃんに会ったから、昨日の夜興奮してなかなか寝付けなかったんだ。だから、ちょっと寝不足なの。それだけよ」
「なんだ…そうなんだ」
 ほーっ、と瑞穂は深く息をつき、胸をなで下ろす。
「ありがとう、心配してくれて」
「いいよ、そんなこと。それより、寝不足なら少し寝る?」
「ううん、瑞穂ちゃんとお話ししてる方がいい。ここにいれば、寝る時間はいくらでもあるから」
「そっか…そうだよね」
 そして二人は、また、昨日のようにとりとめもない話を始めた。
 庵主様は、ただ、そんな二人を穏やかに微笑みながら眺めていた。
 
 その日の夜のことだった。
 またも、瑞穂は夢を見た。
 見た、という表現が適切かどうかは、よくわからない。なぜなら、その夢には映像がなかったから。
 強いて言うなら、真っ暗闇の映像。そしてそれとともに、静かな声が聞こえてくる。
「心を決めて。気をしっかり持って。
 あなたの大切な友達の、旅立ちを見送ってあげて下さい。
 あなたの友達が、新たな第一歩をしっかりと踏み出せるように。
 あなたの友達が、その来し方を、新たな旅の中でも美しい思い出として持ち続けていられるように。
 そして、あなた自身が、大切な、素晴らしい友達のことを、ずっと、ずっと忘れないように。
 最後のお別れを、告げて下さい」
 声はとぎれ、後に残るのは暗闇のみ…。
「…はっ!!」
 瑞穂はがばっ、といきなり跳ね起きた。
 もう、外は明るい。
 嫌な胸騒ぎがした。
 そして、取るものも取りあえず、家を飛び出して病院に向かった。
 
 病室は、昨日までとは別の世界のようだった。
 主のいないベッドが、妙に寂しく見える。
 初美は今、集中治療室にいるはずだ。昨日の夜中に、容態が急変し、手術を行って、今はそこにいるのだそうだ。
 思い足を引きずって、集中治療室に向かった。
 初美の両親が、沈痛な面もちでそこにいた。
「・・・・・・」
 声はかけられなかったが、初美の両親は瑞穂に気付いたようだった。しかし、二人の反応は小さい会釈だけだった。瑞穂は、それも無理もないことだと思った。
 瑞穂もただ小さく会釈だけして、その場にたたずんだ。
 そして、無限とも思える時間が流れた。実際にも、五・六時間くらいは経っていたはずだ。
(大丈夫だよね…はっちゃん…)
 そう、思っていたのだが。
 
「・・・・・!」
 声にもならなかった。
 自分が泣いている、それだけはわかった。だが、動くことも、声を上げることも、何もできなかった。
(嘘…嘘!
 そんなの嘘だよ…。
 だって、昨日まであんなに元気だったじゃない…。
 なのに…なのに…。
 また、夢なんだよね。
 この頃見てた、嫌な夢…。
 また、目が覚めるんだよね…)
 必死に現実から目を背けてみたが、目の前の状況はまるで変わらなかった。
 もう、初美には、二度と会えないのだ。二度と。
 
 どのくらい泣いたかももうよくわからない。
 どうにかして、病院からは出たらしい。黄昏時の道を、瑞穂は一人で、泣きながらとぼとぼと歩いていた。
「・・・・・・」
 瑞穂がふと顔を上げると、そこは川の土手の上だった。
 初美が好きだった場所だ。
 初めて初美に会ったときから、幼稚園、小学校、中学校、高校と、よく初美はここにいた。
 川が流れるの、見てるのが好きなの。
 そんな初美の言葉が蘇る。
「…はっちゃん…初美…」
 つぶやくと、言葉とともに涙があふれてきた。
「結局…何にもしてあげられなかった…。当たり前かな…」
「そんなことはありませんよ」
 突如、背後から声がした。
「え」
 驚いて振り返ると、そこには庵主様が立っていた。
「庵主様…」
「初美さんは…あなたにまた会えて、安心していました。心残りがなくなった、とは言えませんが…一つ減ったのは、確かです」
「…そうなのかな…」
「・・・・・・」
 庵主様は穏やかに微笑んで、一瞬黙った。
「初美さんと…お話ししますか?」
「えっ!?」
「今ならまだ、多少時間がありますから…。
 初美さんと、最後のお話をなさいますか?」
「そんなこと…」
 瑞穂はたじろいだ。何かがおかしい。
「あなた方に隠していたことがあるのです」
 そう言うと、庵主様は紫の頭巾を外した。
「あ…」
 その中から、長い豊かな…いわゆる尼そぎですらない…髪があふれた。そして、その頭の後ろには、光り輝く光輪が現れ出ている。
「おわかりですね」
「うそ…。まさか…天…使?」
「そうです。初美さんが迷わないように、導いてあげるため、参りました。こういうことをしているので、死神、という呼ばれ方をすることもあります」
「死神って…そんな!」
「勘違いをなさらないで下さい。私が初美さんを死なせるわけではありません。私の役割はあくまでも導き。そのために、初美さんの心残りが少しでも少なくなるように、及ばずながら尽力したのですから」
「それじゃあ…」
 ここ数日のことが、一気に瑞穂の脳裏を駆け抜けた。
 収納庫を開けて、偶然手紙を見つけたのも。
 連日連夜夢を見て、初美のところへ行ったのも。
 みんな、目の前にいるこの天使の力によるものだったのだ。
「残念なことですが、いい人かどうかということと、どのくらいこの世に留まり続けられるかということは関係しません。
 …すべて運命で決まっているのです。
 そして、これもまた残念なことですが…。
 人間には、運命を変える力はないのです」
 目を伏せて、天使が言う。
「そんな…そんなのってひどいよ…」
 おし殺したように瑞穂が言う。
「初美が死んじゃうなんて…決まってたっていうの…」
「はい…」
「嘘、そんなの嘘! あなたが来たから! あなたが初美を連れて行っちゃうから! だから初美、死んじゃうんじゃない!」
「・・・・・・」
 天使は困ったような顔でうつむいた。
「そんなこと、言わないで」
 その時、第三の声がその場に響いた。
「はつ…み?」
 その声は、まぎれもなく初美のものであった。
「心残りがないわけじゃないけど…でも、最期に瑞穂ちゃんに会えたから…わたし、大丈夫よ。
 …安心して、化けて出たりしないから」
「なに言ってるの…バカ…初美のバカ…!」
「ごめんね、瑞穂ちゃん…。こんなつらい思いをさせて…。
 でもね。わたし、嬉しかったんだよ。瑞穂ちゃん、ずっとそばにいてくれた。だから、わたし心細くなかった。それに、瑞穂ちゃんわたしのために泣いてくれた。わたし、瑞穂ちゃんのいい友達でいられたんだなあって、すごく安心したのよ」
「そうだよ、初美はあたしの友達、すごく大切な友達なんだよ!
 行かないでよ初美、初美は安心してるのかもしれないけど、行っちゃったらあたしたち、もう二度と会えないんだよ!
 一緒にいろんなもの食べに行ったり、服のことでおしゃべりしたり、好きな男の子のこと相談したりさ、もうできないんだよ!」
「…そうだね…。…ごめんね、瑞穂ちゃん…」
「謝ったりしなくていい! 行かないでくれさえすれば…!」
「でも、それはできないから…」
「そんなの…そんなのってないよ…」
 わずかな間をも惜しむような二人の会話が、しゃくりあげる瑞穂の声で途切れた。
「こういう言い方って…ずるいけど…」
 そんな瑞穂を慰めでもするかのように、初美が言った。
「もう泣かないで。瑞穂ちゃんが泣いてると、わたしどうしたらいいかわからない。生きることはもうできないし、死ぬにも心残りができちゃうわ。
 だから…ね。
 笑って、とは言えないけど、せめて涙をふいて」
「・・・・・・」
 もう、頭ではわかっていた。
 お別れなのだ。
 けれど、心は納得なんてしていなかった。
 涙が、止まらない。
「わたしも…できればずっと瑞穂ちゃんと一緒にいたかったよ。わたしも瑞穂ちゃんも大学終わって、ここに帰ってきて。お勤めとか始めても、たまに会ったりしてさ。結婚して、子供できたら子供同士も友達になって。歳をとってお婆ちゃんになっても、瑞穂ちゃんと一緒に孫と遊んだりしたかったよ。
 でも、できないの。
 …お別れ、なんだよ」
「・・・・・・」
 瑞穂は顔を上げた。でも、涙をぬぐおうとはしない。
「忘れない。
 忘れないからね、あたし、初美のこと絶対に」
「ありがとう、瑞穂ちゃん…。
 じゃあ、わたし…もう、行くね」
「…うん」
 そんな様子を、天使は黙って見ていた。そして、小さく、「あなた方を引き裂くことになってしまったようです…申しわけありません」と、つぶやいた。
 それが、初美と天使の声を聞いた、最後だった。
 
 気付くと、辺りにはもう誰もいなかった。
 陽は沈み、星がきらめき始めている。
 涙は自然に止まっていた。目がひりひりしている。肌も涙が乾いたあとがついていてガサガサだ。
 土手の上に座り込んでいた瑞穂は、ゆっくり立ち上がった。そして、歩き始めた。
「・・・・・・」
 星空を見上げる。
 人は死んだらどこに行くのだろう。
 星になる?
 他の人の心に生き続ける?
 天国? 地獄?
 どこにいくにせよ、天使が、相応しいところへ導いてくれるのだろう。
 初美なら、きっとどこか素敵なところへ行けるだろう。
 そして、あの天使なら、ちゃんと初美を導いてくれるだろう。
 瑞穂は、そう思った。
 
                           <おわり>
 
・・・おまけ・・・
 Ange(フランス語)「アンジュ」:天使。
 庵主(庵主)「あんじゅ」:アンシュとも。僧の庵室を構えている者。特に尼僧の称。
 
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