例え君が
 
 その日、僕は一人きりだった。
 いつも一緒に下校する友達が、欠席したり居残りを命じられたりでいなかったからだ。
 いつも通りの道をただ一人で帰るのもつまらないし寂しいので、僕はいつもと違う道を通って帰ることにした。
 その道は山の中を通っている。
 いつも帰る道は国道だから、きちんと舗装されている。けれどその道は砂利道で、車がほとんど通らないのはもちろんのこと、人がいることもほとんどないようだった。しばらく歩いても誰とも会わない。
 穏やかな天気で、風もない。木の葉が音を立てることもなくて、とても静かだった。ただ、僕が砂利を踏む音だけが辺りに響いている。
 春の陽射しは気持ちよかった。陽射しが強いせいというわけではなかったのだけれど、歩いていると少し暑くなってきた。詰め襟と第一ボタンを外して襟を開ける。それだけでだいぶ気持ちよくなった。 空を見上げると、ちぎった綿のような白い雲がちらほらと浮いている。雲一つ無い青空、というのより僕はこういう天気の方が好きだ。空の青と雲の白はとてもよく合っていると思うから。
 すごくいい気分だった。この道はいつも通る道よりもだいぶ遠回りだから、まだ家まではだいぶかかる。それもいいだろう。のんびり行こう。
 森の中からかすかに鳥の鳴き声がする。この山には結構いろんな動物がいるらしい。僕はまだ実際にそんなに珍しい動物を見たわけではないけれど。こんな日なら、何か見られるかも知れない。でも、森の中に入ってまで探そうとは思わなかったし、それに僕が入っていったりしたら動物達はきっと逃げていってしまうだろう。
 偶然目の前に出てきてくれたりすれば見られるかも知れない。
 そんな期待をしながら歩いていると、森の中から妙な音がしたような気がした。
 立ち止まって耳を澄ませてみる。
 …気のせいじゃないようだ。何か弾力のある物をを叩くような規則的な音と…微かな、声。歌?
 森の中をのぞいてみても、木が多いのと薄暗いのでよくわからない。
 入っていってみようか?
 僕がそんなことを考えている間も、音と声は続いていた。まるで僕を誘うように。
 陽はだいぶ西に傾いている。学校帰りなのだから当たり前だけど。ここで森の中に入って迷ったりしたら、家に着くのは暗くなってからだろう。
 それでもいい、と僕は思った。あの音と声がすごく気になる。ちょっとくらい帰りが遅くなっても、確かめたかった。
 僕は決心して、森に入った。
 下草が思ったより大きな、がさがさという音をたてる。近くにいた鳥が驚いて逃げるのが分かる。それでも、音と声は止まなかった。
 春になって葉の生い茂った森は思ったよりも薄暗かった。所々で木漏れ日が、スポットライトのように地面を照らしている。
 そんな光に照らされて、
 音と声の主がいた。
 僕と同い年くらいの女の子だった。でも、学校でこんな子は見たことがない。この辺りの子なら通う学校は同じはずなのに。
 見た目も随分変わっていた。
 一言で言えば、お人形さんみたいな女の子、だった。人形と言ってもフランス人形みたいなのじゃなくて、日本の人形、市松人形というやつにそっくりだ。
 今まで僕が見たこともないようなほど真っ黒で艶のある髪は、肩に届かないくらいの長さに切りそろえてある。女の子が動く度にその黒髪が真っ白な頬をさらさらと流れて、なぜか胸が高鳴った。
 市松人形と違ってあまり赤くない唇が、聞いたこともない、けれどなぜかとても懐かしい調べを紡いでいた。さっきから聞こえていた声はこれだったらしい。
 声と一緒に聞こえていた音は何かと思ってみてみれば、鞠だった。女の子が、陶器のような白い手で、色あざやかな鞠をついていたのだ。歌っていたのはどうやら鞠つき歌のようだ。
 僕が茫然と見ていると、女の子は鞠をつくのをやめて、こっちを振り向いた。
 はじめ、女の子は少し驚いたような表情で、長いまつげに縁取られた黒目がちな目をぱちぱちさせていたが、すぐににっこり微笑むと、ゆっくりこっちに近寄ってきた。
「こんにちは」
 珠を転がすような声、というのはこういうのをいうのだろう。僕はただ立ち尽くすだけで、挨拶を返すこともできなかった。女の子はそんな僕を見て、楽しそうにくすくす笑うと、微笑んだまま言った。
「一緒に、遊びましょう?」
 小さな子供の頃には外で遊んだりもしたけれど、このごろは家でテレビを見たりゲームをしたりしてばかりいて、外での遊び方なんてすっかり忘れてしまった僕だったけれど、その誘いを断る気にはどうしてもなれなかった。僕が頷くと、女の子は心底嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
 女の子はいつも外で遊んでいるようだった。慣れた様子で、花を摘んでかんざしを作ったり、草笛を作って吹いてくれたりした。僕が真似をして近くの草を取ろうとすると、その草の汁がつくとかぶれるから、取っちゃだめ、と僕を止めたりもした。
 素朴で単純な遊びだったけれど、とっても楽しかった。もっともそれが知らない遊びだったからなのか、女の子と一緒にいられたからなのかは、僕にもよく分からない。
 楽しい時はすぐに過ぎ、西の空が赤く染まってきた。もう帰らないといけない。僕がそう言うと、女の子はとても悲しそうな顔をした。そして、消え入りそうな声で、
「また、一緒に遊んでくれる?」
 と、尋ねてきた。
 僕はまた来ることをしっかりと約束して、名残惜しがる女の子に別れを告げた。女の子はもうすぐ日が暮れるというのにも関わらず、家に帰ろうともしないで、ずっと僕の後ろ姿を見つめていた。
 
 次の日は、一緒に帰る友達もいつも通りいた。けれど僕はみんなと一緒にいつもの道を帰る気にはならなかった。
 あの子に会いたかった。昨日の別れ際に、とても寂しそうな顔で僕を見ていたあの子に。
 なんとか言い逃れて、僕は昨日と同じ道を通って、そして、昨日と同じ所で森に入っていった。
 森の奥、昨日と同じ場所にその子はいた。
 今日は鞠をついていない。倒れた木の幹に座って、両手に持った鞠を見おろすようにうつむき、寂しいような悲しいような顔をしている。
 僕が声をかけると、その顔がぱあっと明るくなった。それと同時に僕の胸がまた高鳴る。
 僕はそのとき初めて、僕がこの子のことを何も知らないことに気づいた。そう、名前さえも。
 いろんなことを聞いてみることにした。名前とか、学校とか、住んでるところとか。
 女の子はほとんど何も答えてくれなかった。ただ少し微笑んで、いいじゃない、そんなこと、と言うだけだ。ただ、名前だけは、
「あやこ」
 と、答えてくれた。
 あやこは自分のことを何も話したがらない代わりに、僕のことも何も聞こうとしなかった。あやこにとっては、ここでこうして一緒に遊んでいてくれさえすればそれでいいらしい。
 けれど、ずっと一緒にいるわけにもいかない。その日も日が暮れ、僕は帰らないといけなかった。あやこはまた昨日と同じように、とても悲しそうな顔をする。そして昨日と同じように、
「また、一緒に遊んでくれる?」
 と尋ねてきた。
 悲しそうな顔のあやこを見ていると、どうしても嫌だとは言えなかった。
 
 次の日は雨だった。
 さすがに今日はあやこも来ないだろうと思い、僕はいつもの友達と一緒に、いつもの道を帰った。
 でも、家についてから、急にあやこのことが気になりだした。テレビを見ても、マンガを読んでも、心の中にずっとあやこの顔が残る。
 あまりに気になってどうしようもなかったので、僕は、傘を持って雨の中に出ていった。
 昨日と一昨日帰った道を逆に辿って、あの場所で森に入る。
 あやこは、そこにいた。
 黒い髪も、着物も、手に持った鞠もぐっしょり雨に濡れて。
 うつむいた頬にかかった髪からぽたぽた落ちる雨の滴があやこの涙のようにも見えて、僕はあわてて駆け寄った。
 こっちを向いたあやこの顔も雨でびしょびしょだった。そんなあやこの顔を、瞳からあふれた滴がさらに濡らす。
「来てくれないかと思ったの…」
 と泣くあやこに、僕はひたすら謝った。謝った後、僕はいいわけを始めた。でも、この天気だから…と。
 あやこも納得してくれたようだった。手の甲で涙を拭くと、晴れたらまた来てね、と、しゃくりあげながらつぶやくように言った。僕は頷いて、持ってきた傘をあやこに手渡した。
 
 次の日からはまた晴れた。僕はあの雨の日からずっと、あやこのところへ通い詰めている。友達が少しずつ、僕が何をしているのか怪しみ始めていた。
 僕はあやこにそのことを話した。あやこはそれを聞くと、友達もここに連れてくるといい、と答えた。
 僕の心の中に、何と言ったらいいのかわからない感情がわき上がった。
 あやこを他の連中に会わせたくない。
 どうしてそう思うのか、自分のことなのに僕にはよく分からなかった。
 それでも結局僕は、友達をここへ連れてくることにした。
 
 友達は僕に連れてこられてあやこに会うなり、好奇心丸出しであやこのことを根ほり葉ほり尋ねた。けれどあやこはやっぱり、何も答えなかった。
 しばらくは友達も、あやこと一緒にこの森の中で遊んでいた。けれど友達の中にはこういう遊びがあまり好きでない奴がいて、そいつはすぐに退屈し始めた。すると、他の連中もだんだんここの遊びに飽きてきた。
 あやこは困ったような顔をしていた。ここでどういう遊びができるかあやこは知り尽くしているようだったけれど、違う遊びを提案しても友達はもう乗ってこなかった。
 そのうち、山を出て街に行こう、という話になった。僕はそれでも別にかまわなかったけど、あやこはものすごく不安そうな顔をしていた。
 僕はそんなあやこを見て、街に出るのには反対した。でも、この場所に飽きた連中の数が多くて、結局僕とあやこは押し切られ、街に連れ出された。
 
 あやこは山を下りてからずっと下を見ている。うつむいているわけではなく、舗装道路の感触に戸惑っているらしい。そこで初めて気づいたのだが、あやこは裸足だった。ぺたぺたと小さな足音を立てながら、落ちつかなげに僕らのあとについてくる。
 不意に、あやこが立ち止まった。どうかしたのかと尋ねると、あやこは可哀想なくらいがたがたと震えながら、前を指さした。
 そこには一匹の犬がいた。別に獰猛な野犬というわけでもない、ただの飼い犬だ。鎖にもちゃんとつながれている。少し吠えられるかも知れないが、恐がることはないように思えた。僕がそう言ってみるが、あやこはがんとしてそこから進もうとしなかった。それどころか、半泣きになって帰ろう帰ろうと必死に訴えかけてくる。
 友達もそんな様子に気づいて立ち止まった。皆が訝しむが、あやこはますます怯え、今にも声を上げて泣き出しそうだ。
 そのとき、家の近くで立ち話をされていることに気づいたその犬が、こちらに向かって一声吠えた。
 その瞬間、
 あやこが人のものとは思えないほどのものすごい悲鳴を上げた。吠えた犬の声よりもよほど大きな叫びで、犬の方が驚いたくらいだ。
 そして気づくと、あやこの姿はどこにもなかった。ただ、走り去る動物が一匹。
 友達の一人が、狐、と言った。
 
 家に帰ってからも、僕は今日の出来事が頭から離れなかった。
 不自然なほど犬に怯えていたあやこ。そして、犬が吠えた瞬間その姿は消え、走り去る狐が一匹。
 あやこは、狐?
 自分の頭に浮かんだ考えをあわてて打ち消す。そんな馬鹿な。
 けれど、そうとでも考えないと、あの場から一瞬であやこがいなくなったことの説明がつかない。
 それに、あやこが狐だと考えれば、あやこが森の中に詳しかったのも、自分のことを全然話したがらなかったのも納得がいく。
 やっぱり、あやこは狐なんだろうか。
 考えながら、僕はベッドに寝ころんだ。
 瞳を閉じると、あやこの姿と声が浮かんでくる。
『一緒に、遊びましょう?』
『また、一緒に遊んでくれる?』
『来てくれないかと思ったの…』
 姿は瞼から離れない。
 声は耳から離れない。
 僕は決心した。
 もういちど、あやこに会おう。
 
 次の日、友達にはっきりとあやこの所へ行く、と言った。友達はあやこが狐だともうすっかり決めつけていて、やめろとか化かされてるとか言ってきた。終いには、狐憑き、とか馬鹿にされたりもした。
 でも、僕はかまわなかった。
 僕は、友達と別れて、あの森に入った。
 
 あやこは、そこにいた。
 
 僕を見つけるなり、あやこは森の奥に逃げようとした。僕は必死に叫んで、あやこを呼び止める。おそるおそる、といった様子で、あやこが振り向いた。
 僕もあやこもしばらく何も言えなかった。
 先に口を開いたのはあやこだった。
「あたし…狐だよ?」
 言うと同時に、あやこの後ろにふさふさした尻尾が現れた。すぐに全部狐に戻ってみせるほどのふんぎりはまだついていないらしい。
 不思議と、驚きはなかった。だからどうした、という感じだった。
 あやこは、驚かない僕を見て戸惑ったようだった。
 再び訪れた静寂に居心地の悪さを感じたのか、あやこは今までいくら尋ねても教えてくれなかった自分のことを、自分から話し始めた。
 何でも、あやこは人に化ける妖力を持つ狐の種族のうち、一番若い雌なのだそうだ。部族の中には千年とか平気で生きている狐もいるらしいが、あやこ自身は本当に僕と同じくらいの歳らしい。
 あやこは狐の部族に同年代の子供がおらず、いつも寂しい思いをしていたらしい。寂しさに耐えられなくなったあやこは、覚えたての変化の術を使って人間に化け、人間の子供と遊ぶことを思いついた。
 部族では、人間と接触することは禁じられている。人間が彼らの住処を奪ったり、仲間を大勢殺したりしたからだ。だから友達が欲しいなら他の動物にしろと、大人から散々言われた。
 しかし、妖力を持つほどの狐にとって、他の動物など話し相手にもならない。狸や貂とは仲が悪いし、対等の友達になるなら、同族か人間くらいしかいないのだ。
 しばらく我慢していたあやこだったが、結局人間に化け、人里近いこの森に出てきた。しかしさすがに森から出るのは恐くて、誰かが来るのをずっと待っていた。
 そして、僕がそこに現れた…というわけらしい。
 あやこは話し終えるころには泣いていた。自分の正体がばれた以上、もう友達ではいられないと思っているようだ。
「さよなら」
 あやこは言った。
 僕に、そのつもりはなかった。
「僕はあやこと遊べて楽しかったよ。
 だから、また一緒に遊びたい」
 聞いたあやこの目が、驚きに見開かれた。
 そしてあやこは真っ直ぐに僕を見ると、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「…ありがとう」
 
 それからも、僕はあの森の中で、あやこと会っている。
 しばらくはあやこは何か気にしているようだったが、今はもうすっかり慣れたようで、初めて出会った頃のように明るい笑顔を見せてくれる。
 そんなあやこを見て、僕は、あやこと知り合えて本当によかったと思った。
 
                           <おしまい>
 
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