竹華奇譚
僕は、そんな光景を、初めて見た。
竹が、一斉に花開いている。
夏休み。
僕は田舎に帰省していた。
田舎ののんびりした雰囲気が好きで、それに、自分で家事をしなくていいと言うのが楽で、僕は長々と実家に留まっていたのだが、大学が始まる日も明後日に迫り、僕は自分のアパートへ帰ることにした。
実家の近くの無人駅。高校時代までは毎日毎日来ていた駅だ。すぐ近くに山がある。というより、この駅がその山にへばりつくような格好で建っているのだ。
その山には竹の林がある。しかし、僕が帰ろうとしたその日、その竹林は高校時代まで僕が見慣れていた竹林とはまったく様相が違っていた。
初めて見た。
これが、竹の花か。
竹は一斉に花を付けるっていうのは、本当だったんだ。
電車がやってきた。
これを逃すと、もうあと一時間くらいは来ない。
だけど、そのときの僕にとって、そんなことはどうでもよかった。
僕は、閉まる電車のドアを後目に、惹きつけられるように竹林に分け入った。
夢か幻のような光景だった。
竹林の奥の奥まで、竹の花が咲き誇っている。
何でも、竹というのは花が咲くとすぐに枯れてしまうのだそうだ。
竹は、全身全霊で花を咲かせている。
では、その花は?
竹が、全身全霊をかけてまで咲かせるその花は、一体何のために咲いているのだろう?
しばらく進むと、やけに立派な竹が一本あった。
何度かこの竹林には入ったが、こんな立派な竹があったことには気付かなかった。
おそれおおいものに近づけないかのように他の竹はその周囲になく、その竹はただ一本ですらりと立っていた。
僕は、おそるおそるその竹に触れてみた。
この竹の力に惹かれて、ここまで来たような気がしたから。
すると、ぴしッ、と鋭い音がして、その竹に一直線にひびが入った。
「!」
茫然としている僕の前で、その竹は見事に真ん中から真っ二つに割れた。
「な…なん…」
根本まで割れたところで、僕は、その一番下の節に何かが入っていることに気付いた。
「人形…?」
それはちょうど、ゲームセンターのクレーンゲームに入っている人形くらいの大きさのものだった。
産着に包まれた赤ん坊のようにも見える。
「どうして、こんな所に人形が…?」
拾い上げてみて、僕は仰天した。
「生きてる…」
人形だとばかり思っていたそれは、すやすやと寝息をたてていたのだ。
「何だ…これ…?」
動物? いや違う。霊長目以外の動物はこんなにぺたんこな顔はしていない。じゃあ、猿? それも違う。猿はもっと毛深いものだ。それじゃあ、人間? まさか。いくら赤ん坊だからといってこんなに小さい人間など見たことも聞いたこともない。
それでは、一体…?
「交番に行こう」
訳の分からないものはお巡りさんに任せるに限る。きっとお巡りさんにも訳が分からないだろうが、そんなのは僕の知ったことではない。僕は落ちていた、ちょっと変な人形を届けるだけだ。
そう結論づけて、僕は交番へ行くことにした。そして、交番のある方向へ降りようとした。
その時。
(いやだよ)
「え?」
何かが僕の頭に響いた。
(そっちへ、行っちゃ嫌だ)
「誰?」
辺りを見回してみたが、誰もいない。鳥も獣も、何もいない。僕と、この人形だか赤ん坊だかだけ。
(お願い、一緒に連れて行って)
「これが…言ってるのか?」
まじまじと手の中にあるそれを見た。
すやすや眠ったままのように見える。
何か妖しげな神通力にでもかかったのだろうか。
僕は、その言葉に従わなければならないような気がしてきた。
「人間じゃあ…ないだろうから…。誘拐には、ならない…よな?」
言い訳がましく、誰にともなくそう言って、僕はそれを荷物の中にそっと入れた。
僕のアパート。
帰ってきた次の日一日、僕はそれを見ていたのだが、すやすや眠っているばかりで、何も変化がなかった。
で、大学が始まった。
その日の朝、僕はそれを大学へ連れて行くかどうかさんざん悩んだのだが、誰かに見つかるとやっかいなことになりそうな気がしたので、脱水症状などにならないよう部屋の温度に細心の注意を払い、置いていくことにした。
大学というのは高校までと違って、休み気分も何もなくいきなり普通通りの講義に入るものだとわかったが、僕は家のことが気になって、講義どころではなかった。
その日の講義が片付くと、僕は一目散に家へ帰った。
僕は驚いてしまった。
朝はまだ人形くらいの大きさしかなかったのだ。なのに、今僕のベッドであいかわらずすやすや眠っているそれは、もう誰が見ても立派な人間の赤ん坊であった。
人に見られたらどう思われることだろう!
一学生の部屋に赤ん坊。いくらヤンママだのヤンパパだのがあふれる昨今だとはいえ、普通の人なら怪しいと思うに違いない。それに相手もいないのにいきなり赤ん坊などがでてくるわけがない。
一人でオタオタしていると、始めて、その赤ん坊(もう、疑いようもなく「人形」ではない)が目を開いた。
「あ…」
赤ん坊は僕を見ると、
「だあ」
と言って、にっこり笑った。
僕は、それを見て、オタオタしていた自分が何だかばかばかしくなり、なるようになる、と開き直った。
不思議なことはそれだけでは終わらなかった。
次の日、その赤ん坊をまた家に残して大学へ行き、帰ってくると、こんどは幼稚園児くらいの女の子が、
「おかえりなさーい」
と出迎えてくれたのだ。
「きっ…き…君…は?」
「あなたが、竹の林から連れてきてくれたんじゃない。忘れたの?」
姿形と似合わない、妙に落ちついた口調で、その女の子は言った。
「ねえ、えっと…」
女の子は、僕に何か話しかけようとして、ふと戸惑ったような顔をした。
「あなたの名前、知らないよ」
「あ…と。僕は、忠明。榊忠明」
「ただあき、くんね。わかった。ね、わたし、いつになったら外に出ていい?」
「もうちょっと大きくならないと…。僕が誘拐犯か何かと間違われるよ」
「そうだね。じゃあ、もう少し大きくなったら、外に連れていってね。わたし服が欲しいの」
「あ…そうだね」
今、その女の子はシーツを全身に巻いている。
「ところで、君の名前は?」
おかしなことを聞く、と自分でも思った。この子は赤ん坊の時に僕が竹林から拾ってきたんじゃないか。名前なんてあるわけない。
「忠明くんの、好きなように呼んでいいよ」
「僕が、君の名前を考えろ、っていうこと?」
「そうなるね」
「そうだなあ…」
生まれてこの方他人の名前なんて考えたこともない。どこかから持ってきたような名前じゃ可哀想だろうし、この子はつやつやした見事な黒髪に、黒い瞳という純和風のいでたちなので、カタカナの名前も似合うとは思えない。
何か、和風の名前を考えてあげないと。
「えーと…」
この子は、竹から生まれたんだから。
あの時、竹は一斉に花をつけていたっけ。
この子は、竹の華の申し子なのかもしれない。
「たけは」
「え?」
わくわくしているような表情で、女の子が聞き返す。
「竹の華って書いて、竹華(たけは)。どうかな?」
「たけは。それが、わたしの名前…。うん、素敵」
たけは、という名前は気に入ってもらえたようだ。でも、ずいぶんあわてて決めたからなあ。「竹華」って書いて、「たけは」なんて、本当に読めるのかな。…ま、いいか。
次の日も、僕は、やっぱりうちに置いてきたままのたけはのことを気にしながら、大学の講義を聞き流した。
ちっとも身が入っていない講義を聞くふりだけしているのもなんなので、その間に漢和辞典をあたってみて、「たけは」という名前が、人の名前としてだけなら許されるものだということを確かめた。
よかった、一生付き合わなくてはならない名前をいい加減に決めたんじゃあ、たけはに恨まれても文句は言えない。
一生付き合わなくてはならない…か。
たけはの一生って、どんなのだろう?
僕がたけはと始めて会ってから、まださほど時は経っていない。あの時人形くらいだったたけはは、いまではどこから見ても普通の女の子だ。尋常ではない成長のスピードである。
とっととお婆ちゃんになって死んでしまうんじゃなかろうか。
そう思うと、少しでも長い間たけはと一緒にいたいような気がしてくるのだった。
とうとう僕はその日その後の講義の自主休講を決め込み、家へ急いだ。
「お帰りなさい」
迎えてくれたたけはは、もう、僕とそれほどかわらない年頃になっていた。
僕の心臓がひっくり返る。
なぜなら、年頃になったたけはは、僕が今まで会ったどの女性よりも、可愛くて、綺麗で、何て言ったらいいのかわからないけど、魅力にあふれていたから。そして、そんなに魅力的なたけはが、昨日、幼稚園児くらいだったときと同じ、シーツ一枚という格好でいたから。
「あ、あ…。お、その…」
「やだ、そんな風に見ないでよ」
たけはの頬が少し赤らむ。
困ったな。
僕は、当たり前だが、女物の服なんて持っていない。それに、僕が行って女物の服…特に下着…を買うのも、周囲の視線が痛いだろう。
不幸なことに、事情も尋ねず代わりに買い物に行ってくれるような女友達は、僕にはいない。
となると、たけはが自分で行って買うしかないのだが…。
まさかシーツ一枚体に巻いて、買い物に出かけるわけにもいかない。
買い物に行くには服くらい要る。
服は買い物に行かないとない。
あああ…ニワトリとタマゴ…。
「忠明くん、わたし服が欲しいな。買いに行こうよ」
僕の気も知らないで、たけはが言った。
「そんなこと言ったって、買い物行くのに着ていく服がないじゃないか」
「ねえ。買い物って、そんなに遠くまで行かなくちゃいけないの?」
「いや…そんなことないけど」
「それなら、忠明くんの服でいいよ。下着は…今はなくてもしょうがないか」
少し顔を赤らめて、ぺろッと舌を出し、たけはは少し恥ずかしそうに、少し悪戯っぽく微笑んで、肩をすくめてみせた。
想像してみてほしい。
もし、街ですれ違った人が、下着を着けていなかったとして、だ。
君はわかるだろうか?僕は、わからないだろうと思う。事実、たけはがそうしていることに気付く人は誰もいなかった。当のたけはは堂々としたもので、僕は一人で不自然なまでにおろおろおろおろしていたのだった。
にしても、服ってやつは…高い。
そんなつまらないことはどうでもよくなった。
うちに帰って、買ってきた服を着たたけはは、信じられないほど綺麗だった。
馬子にも衣装、という言葉がある。
馬子だって着飾れば、といったような意味だが、では、着飾るのが馬子ではなくて可憐な美少女だったらどうなるか。
ちなみに僕は、茫然と見とれて硬直してしまった。
そして、
「どう?似合うかなあ?」
と尋ねるたけはの言葉に、ハトか何かのようにこくこくこくこく首を振ることしかできなかったのだ。
「ありがとう!」
そう言って、たけはは心底嬉しそうに微笑んだのだった。
それからしばらくの間は、たけはは大人しく僕の家にいた。
「ただいまー」
と家に帰ってきて、
「おかえりなさい」
と返事があるというのはとってもいいものだ。ましてや、その返事をしてくれるのが、たけはのような可愛い女の子ならなおさらだ。
不思議なことに、あれからぴたりとたけはの成長は止まった。たけははあれから後ずっと、十六〜十八歳くらいの娘の姿のままでいる。
しかも、どこで覚えたのか、家事全般をこなすのだ。
願ってもない同居人だが…。
そういえば、家事だけじゃなく、言葉とか、日常のことみんな、たけははどこで覚えたんだろう?
僕はもちろん教えたおぼえはないし…。
テレビとかででも覚えたのかな。
その時は、それほど疑問に思わなかったのだけど。
「忠明くん、わたしも忠明くんと一緒に出かけてみたい」
「は?」
「お留守番も飽きちゃった」
「つまり、大学に行ってみたいと?」
「うん」
僕の大学の入り口にも、他の学校と同じように、関係者以外立入禁止、とは書いてある。だが、学生も先生も、誰が関係者で誰がそうではないかなどわかるわけがない。だから、たけはが大学に来ること自体は、何ら問題はない。
だけど、僕はすぐにはうんと言わなかった。
なぜかと尋ねられたら、こう答えるしかない。
「もったいないから」
たけはみたいなかわいい女の子を、他の奴等に見せるのはもったいない。そんな風に思ったのだ。もしかしたら、箱入り娘を持った父親というのはこんな気分かもしれない。
「だめ?」
だけど、おねだりするみたいな顔で…実際おねだりしているのだが…たけはにそう言われて、僕が強硬に「だめっ!」と言えるだろうか?
答えは、否。
残念そうな顔のたけはを想像しただけで、僕はなんだか苦しいような気持ちになってきた。
「いいけど…退屈だよ?」
「いいよ。忠明くんと一緒なら」
たけははにっこり笑って、そう言ってくれた。
なんだか妙に嬉しくなった。
たけはが何となく大学に行って以来、突然僕の友達が激増した。
僕だってそれほどバカじゃない。その“友達”のお目当てがたけはだってことくらいはわかる。
そいつらは、手をかえ品をかえてたけはをおとそうと試みた。
僕は気が気でなかったのだが、たけははそいつらの手に負える女の子ではなかった。
一人例をあげよう。
彼は理学部数学科の学生なのだが、その彼とたけはの会話は以下の通りだ。
「君、どんな人がタイプなの?」
「そうだなあ…。賢くなくてもいいけど、バカは嫌いだなあ」
「俺…バカじゃないつもりだけど」
「ひょっとして、わたしを口説いてるの?」
「…う、うん」
「見た目だけで決めると後悔するよ。わたしなんて大していい女じゃあないんだから」
「そ、そんなことないよ」
「うーん…。それじゃあ、気持ちを確かめさせてもらっていいかなあ」
「え?」
「バカじゃないか、さ。キミの専門ってなんだったっけ?」
「数学、だけど?」
「それじゃあ数学のことなんだけど」
「何々?」
「フェルマーの定理を証明して下さいな」
「げっ」
フェルマーの定理なるものがどんなものか僕は知らないが、数学科の人間が一発でひるむようなものであることは確かだ。
たけはは言い寄る男どもに、似たり寄ったりの難題をふっかけて、片っ端から彼らを拒否していた。
「だから、本当のことを言ってくれればよかったのに」
たけはは僕にそう言う。
いろいろ説明が面倒なので(だって、たけはは言ってみれば身元不明の捨て子で、僕と同棲してるようなものだ)、僕はたけはのことを、来年この大学に入学を希望している妹、ということにしておいたのだ。でなければたけはに言い寄る男どもは確かにもっと少なかったであろう。
僕も後悔は少ししたのだが、だからといって本当のことを今更ばらせば、僕はたけはがふった男どもにタコ殴りにされるだろう。
ふと、そこで考えが止まる。
たけはがふった男ども…?
どうしてたけはは、言い寄る男どもを片っ端からふっていくんだろう?
まさか僕がいるから? バカな。
自分で言うのも何だが、たけはがふった男どもの中には、僕よりいい男なんて掃いて捨てるほどいた。
「どうしたの? 難しい顔で考え込んだりして」
洗い物を終えたたけはが、そんな僕に気付いて近寄ってきた。
「えっ、あっ…その…」
顔が赤くなるのが自分でもわかる。
「やだ、具合でも悪いの?」
どうやらたけはは、僕には熱があり、そのせいで苦しいから難しい顔をしている、とでも思ったらしい。たけはの端正な顔中に心配の色が広がる。
「い…いや、そんなことはないけど…」
ぼくはあわてて取り繕った。
「それならいいんだけど…」
たけははそう言って、僕が寄り掛かっていたベッドに座った。
たけはが来るまでは、ベッドに寄り掛かって床に座る、なんてことは到底できなかった…床中に物が散らばっていたから。
そんなことを考えながら、たけはを見上げた。たけはも僕を見おろしている。
僕は、つい今さっきまで考えていたことを、たけはに尋ねてみた。
「どうして片っ端からお誘いを断るのさ? 一人や二人ボーイフレンドくらい作ってもいいだろ?」
「…いいじゃない、そんなの」
たけはは、少し淋しそうなかおで言った。
「わたしには忠明くんがいるんだから」
「えっ…」
「一度聞いてみたいと思ってたんだけど…」
たけはは、彼女にしては珍しく少し口ごもって、思い切ったように言った。
「わたしのこと、どう思ってるの?」
「え…!」
突然の質問におろおろする僕を、たけははただ黙って見つめていた。冗談ではない、本気らしい。
「どうって…僕は…竹林から君を連れてきたわけだし…。ここまで育てたわけで…勝手に育ったって気もするけど…その…だから…歳の近い娘、かなあ」
「…そうなんだ」
僕が答えたとたんに、たけはの顔がなんだか悲しそうに歪んだように思えた。
「もういいよ、おやすみ!」
突然たけははそう叫び、座っていたベッドの中に潜り込んだ。
「たけは…」
お風呂はいいのかとか、着替えないで寝るつもりかとか、そこ僕のベッドだとか、つまらないことが浮かんでは消えた。かける言葉が見つからない。
どうしたらいいかわからずそのまま座り続ける僕の耳に、かすかなたけはの声が聞こえてきた。
「わたしは忠明くんが好きなんだよ…。本当に小さな時からずっとずっと、わたしを守ってくれて…。わたしは、お父さんじゃなくて、忠明くんが好きなの…」
「・・・・・・」
その言葉を聞いたとたん、体が動かなくなった。
たけは…。
そして、僕もはっきりと気付いた。
たけはのことが、好きなのだと。
だけど、そのときたけはにかけてやれるような言葉は結局見つからなかった。
その夜は、結局それだけだった。
次の朝、もうたけははいつものたけはだった。
いつものように元気で、いつものように明るくて、屈託がなくて。
昨日の夜のことはなにかの夢か幻か、とまで思った。
だが、たけはが、その屈託のない笑顔の合間に、ほんの少しだけ、思い詰めたような目で僕を見ることに気付いて、ああ、あれは本気だったのかと、僕はあらためて確認するのだった。
だけど、とにもかくにも、たけははまたいつも通りに振る舞うようになったのだ。
…あの夜までは。
その日、僕は学園祭の準備だか何だかで、遅くまで学校に残ることになった。
今はもう何かと鬱陶しいことが多いから、たけはを大学に連れてきてはいない。またたけははお家でお留守番である。
もう真っ暗になってから家にたどり着くと、たけはがいるはずなのに、家の中は真っ暗だった。
「どうしたんだい、たけは?」
たけははカーテンを開けて、窓際で月を見ていた。
「もうすぐ中秋の名月だからね」
見上げるとなるほど月が綺麗だ。たけはが電気を消して見ていたくなる気持ちもわかる。
「・・・・・・」
たけはは一言も口をきかなかった。
「・・・・・?」
そのせいで、僕も何と言ったらいいのかわからなかった。
その夜。
「…忠明くん」
寝たものとばかり思っていたたけはが、突然僕に話しかけてきた。
「ん?」
「一緒に…寝ていい?」
「!」
少し驚いたが、何だかたけはの声が今にも泣き出しそうなほど寂しげだったので、僕は、いいよ、と答えた。
自分の布団から出てきて、たけはは僕のベッドに潜り込んだ。
ただでさえシングルのベッドなのに、たけはは僕に身を寄せてくる。
「た…たけは…」
たけははなんだかとても暖かくて、お風呂に入って間もないのだから当たり前だが、石鹸とシャンプーの匂いがした。
秋も近いとはいえまだ暑苦しい季節だが、そんなことはまったく気にならなかった。
そんなたけははぼくの体に手をまわし、しっかりと僕に抱きついた。
「たけはっ…」
頭に血がのぼる。
「忠明くん…。わたし…ここにいて、いいんだよね…」
「え…」
そこで初めて、僕はたけはが泣いていることに気付いた。
「ねえ…わたし…ここに、いていいんだよね…。どこにも、行かなくていいんだよね…」
「あ、ああ。当たり前じゃないか…。どこにも行かなくていいよ」
「よかった…」
僕の胸の中で、たけはがしゃくりあげる声がした。
「ごめんね、忠明くん…。しばらくこのままにさせておいて…。心細いの…淋しいの…」
「たけは…」
僕は、たけはの体を抱きしめた。
思ったよりずっと柔らかくて、細い体。
「朝になるまで…月が見えなくなるまで、このままでいて…」
しくしく泣きながら、たけははよりしっかりと、僕にしがみついてきた。
それから後、何日かの間、たけははちょくちょく僕に添い寝を求めるようになった。僕にしっかりしがみついて、泣きながら寝入るそのさまは、幼稚園児くらいだったころよりももっと子供っぽいようにも見えたけど、心底淋しそうで、守ってあげなくてはならない気にさせた。
そして、明日は中秋の名月、という夜が来た。
「…忠明くん…」
「え?」
僕の名前を呼んだきり、たけははわっと泣き出して、まったく要領をえなくなってしまった。
「どうしたの、たけは?」
たけはがおちつくのを待って、僕は事情を聞いてみた。
泣いて泣いて、しゃくりあげながら、それでもたけはが何とか言ったことは、信じられないことだった。
「明日で…お別れしないといけないの…」
「なっ…」
僕が絶句していると、たけはは落ちついてきたのか、話を続けた。
「実は…わたし、人間じゃないの」
「竹の中で見つけたときから、それは薄々わかってたけど…」
「わたし、月から来たの」
「えっ!?」
僕は耳を疑った。
「つ…月に生き物なんて…」
「人間にはわからないだけで、ちゃんといるんだよ…」
たけはは溜息をついて、続けた。
「いろいろ理由があって、ここに来て…。いろんな縁で、忠明くんに拾ってもらったんだけど…。明日の満月の時に、帰らないといけないの…」
「どうしてだ!」
「どうしても、なの」
「そんなのって…そんなのってあるか!」
僕は知らないうちに、たけはを抱きしめていた。
「放さない! たけはと別れるなんて嫌だ! どうしても帰るなら、僕もついていく!」
「…だめだよ…。月に行ったら、ここでのことは、みんな忘れちゃうんだよ…」
「かまうものか! たけはと別れるくらいなら、たかだか二十年足らずの記憶くらい捨ててやる!」
「そんなこと言って困らせないで…。何とかわたしも決心したところなんだから…」
「そんな決心しなくていい!」
「引き留めてくれるのは嬉しいけど…。やっぱりダメだよ。明日の夜になればわたしは月へ帰るの。誰にも邪魔はできない、忠明くんにも…」
そういうたけはの目には哀れみの色さえ宿っていた。
僕は悟った。
たけはの言うことは事実なのだろうと。
僕にはどうしようもないことなんだろうと。
そして、もう泣くことしかできなかった。
その次の夜まで、僕たちは一緒にいることにした。学校なんてもうどうでもいい。
その日僕たちがしたことは、本当に他愛もないことばかりだった。今日でなくてもできるじゃないか、というようなものばかりだったが、そんなことでももう二度とできないのだ。
そして、月が昇った。
「お別れだね」
「・・・・・・」
僕は、ダメだ。
やっぱり悟ってなんかいなかったんだ。
「行くな! 行かないでくれ!」
あらんかぎりの力でたけはを抱きしめる。
「嬉しいよ、忠明くん…」
たけはの優しい声が聞こえた。
「でも、ダメなんだ…」
たけはがそう言ったとたん、月の光が一層強く輝いたように思えた。
と同時に、僕の全身から力が抜けた。
「たけは!」
もう、叫ぶことと泣くことしかできない。
「さよなら、忠明くん。大好きな忠明くん…」
たけはの瞳からも涙がこぼれる。
泣くくらいならどうして行くんだよ!
立っていることもできずがっくりとひざをついた僕をだきかかえて、たけはは心底悲しそうな声で言った。
「さよなら…」
たけはの唇が、静かに、僕のに重なる。
泣いた。
体の中の水が全部涙になったかと思うほど泣いた。
もう、今は月の光も元通り。
たけはの姿もとっくにない。
僕はそれでも動けなかった。動こうとも思わなかった。
そして僕は、一夏の、幻のようなたけはとの出来事を思いながら、ただずっと、月を見上げていたのだった。
<おしまい>