立待月
 
 明治十年、長い長い鎖国から解き放たれた日本が、必死になって列強諸国に追いつこうとしていたころ。
 帝都・東京の、とある下宿に、一人の書生が住んでいた。
 彼の名は、竹村陽志郎(たけむらようしろう)。
 西洋の進んだ学問を身につけるべく粉骨砕身している若者である。
 その頭脳は明晰にして、性格は穏和。人々の尊敬と好意を受けるに値する人物であった。
 多少、優柔不断のきらいがあるが、それも彼の心根が優しかればこそであろう。
 彼は自室の机に向かい、英語を学んでいるところであった。幼き頃、まだ日本が開国する以前より、蘭学に慣れ親しみ、西洋文字を知っていたのが、この開化の時代になって役立った。
 のみならず、彼はいつか欧州に渡り、本場で法学を学びたいという志を持っていたため、英語をはじめ外国語を学ぶこともさほど苦にはならなかった。
 同じ書生仲間の間でも彼ほど熱心な者はそうおらず、こと法学にかけては同期で彼の右に出る者はいなかった。
「陽志郎、いるか?」
 その彼をふすまの向こうから呼ぶ者がいた。
 陽志郎がいらえる前に、声の主は勝手にふすまを開けて入ってきた。
 彼は篠原孝十郎(しのはらこうじゅうろう)。同じ下宿の書生仲間である。彼の専攻は建築であり、陽志郎と同じくその道では並ぶ者のない優秀な書生ではあるが、その性格は陽志郎とは対照的で、決断力があり、言いたいことは遠慮なくずけずけ言う。勉学に対する態度も、陽志郎がこつこつと少しずつ努力を積み重ねる人物であるのに対して、孝十郎は
肝心要だけを要領よくとらえる人物であった。
 性格は正反対の二人ではあったが、いや、正反対であったからこそ、二人は無二の親友同士であった。
「陽志郎、今日は早かったのだな」
「ああ。講義が休みになった」
「では、街へ出ようではないか。今の都には西洋からの興味深い渡来品があふれている」
「孝十郎。はっきり言ったらどうだ?」
 陽志郎は、やれやれといった風情で小さく溜息をついてから、体を孝十郎に向けて言った。
「お前はただ遊びに出たいだけなのだろう?」
「ふむ、さすがは陽志郎。見抜いたか」
「お前を知っている者ならば誰にでもわかる」
 二人がそんなやりとりをしていると、階下か
ら提琴の音色が聞こえてきた。
「彩音(あやね)さん、日増しに上達してゆくな」
「音楽の才があるのだろう、お嬢さんには」
 二人はしばらく沈黙し、音色に耳を傾けた。
 奏でているのはこの下宿の娘・清川(きよかわ)彩音である。
 見目麗しいのもさることながら、性格が大人しく、つつましやかな、魅力的な女性であった。陽志郎の言うように音楽の才があり、提琴の他にも洋琴もこなす。西洋の楽器だけでなく、琴もかなりの腕を持っていた。
「陽志郎。一息いれないか」
「孝十郎、まさかお嬢さんをさそうつもりか?」
「そのつもりだが」
 常日頃から「彩音さんを慕っている」と公言してはばからない孝十郎が、平気な顔で答えた。
「お嬢さんは稽古を始めたばかりだろう? もう少し待ったらどうだ。それにお前もたまには机に向かった方がいい」
「俺にそういうやり方は向いていない。それに俺は少しでも長く彩音さんを見ていたい」
「お嬢さんを本当に慕っているなら、お嬢さんのことを思いやったらどうなのだ」
 互いの言葉に互いが反論しあう。口げんか、というのではないのだが、とかくこの二人はこのように口論することが多かった。
「ふ、やれやれ。どうやらお前と俺はまったくやりかたが違うようだ」
 孝十郎が、同じような口論を繰り返すたびにたどり着く結論を今回も口にした。
「勉学も、色恋沙汰もな」
 にやりと笑っていった孝十郎の言葉を聞いたとたん、陽志郎は耳まで真っ赤になった。
「何を言うか! 僕はお嬢さんと色恋沙汰など」
「今更隠しても仕方あるまい。そのようなこと誰でもすぐに気づくぞ。むろん、彩音さんもだ」
 陽志郎はしどろもどろになりながら何か反論しようと試みたが、口から出てくるのは要領を得ないただの声のみ。
「ははは! まあ、よかろう。俺は彩音さんのところへ行ってくる。
 案ずるな、彩音さんがすぐにお前も呼んでくれるだろう」
 きわめて楽しそうに部屋を出る孝十郎を見て、陽志郎は、はじめて自分がからかわれていることに気づいた。
「陽志郎さん、お茶が入りましたわ。一息入れましょう」
 茫然としていた陽志郎に、はたして、彩音の声がかかった。
 
 そのような毎日が続いて、ある日のこと。
 大学…今年開設されたばかりの、東京大学。つまり、陽志郎や孝十郎は東大一期生なのである…で、学友たちとの討論に夢中になってしまった陽志郎は、夜道を一人で歩いていた。
「すっかり遅くなってしまったな」
 下宿に帰り着くと、縁側に小さな灯火が見える。
 懐中時計を取り出して見ると、もう家人は皆寝ていて不思議はない時刻だ。
 訝しく思った陽志郎は、その灯火の方へと足を向けた。
「あら、陽志郎さん。お帰りなさい、遅かったんですのね」
 そこには、小さな蝋燭の明かりにだけ照らされて縁側に座っている彩音がいた。
 座れば牡丹…という言葉が、陽志郎の脳裏をかすめる。
 かすかな光の中に浮かび上がった彩音の姿は、それでもなぜかはっきりと見え、なにかこの世の者ではないかのような美しさを持っていた。
 その姿に胸が高鳴るのを感じながら、それでもつとめてそれを表に出さぬようにしつつ、陽志郎は口を開いた。
「どうしたんですかお嬢さん、こんな遅くに」
「なんだか寝付けなくて。それに、月がとても綺麗でしたから」
 言われて、陽志郎は夜空を見上げた。
 十五夜を過ぎて、すこし欠け始めた月が、それでも煌々と夜の闇を照らしている。
「立待月ですね」
「はい」
 陽志郎は、何故蝋燭の明かりだけで彩音の姿がこうもはっきり見えるのかということに、今はじめて気づいた。
「なるほど、美しい月だ」
「本当に」
 切れ切れの言葉の間にあるのは、ただ沈黙のみ。
 その沈黙の中で、陽志郎の胸の高鳴りはますます激しくなっていった。陽志郎の心に、自分の心臓の音が彩音に聞こえはしないかというあらぬ心配がよぎった。
 孝十郎に言われるまでもない。
 自分はお嬢さんが好きなのだ。
 わかってはいる。よく、わかってはいる。
 だが、孝十郎のようにそれを打ち明けることは到底できなかった。
 そのことによって、今のこの関係さえも失ってしまったら。
 それを考えると、こわくて、心配で。
「どうかしまして?」
「え?」
 突如彩音に声をかけられ、陽志郎は口から心臓が飛び出すかと思った。
「さきほどからわたしの顔ばかりじっとご覧になって。わたしの顔に何かついていますの?」
「いえ、そ、そんなことは」
 孝十郎ならばこんなとき、「あなたにみとれていたんですよ」くらいのことは言ってのけるだろうが、陽志郎はそこまで器用ではなかった。
 何か言わねば。何か。
 あわてふためいている陽志郎を見て、彩音がくすくす笑う。
「おかしな陽志郎さん」
「あ、はあ、いやその」
 やっと落ちついてきた陽志郎は、自分が、彩音とのこのような意味もない会話に幸せを感じていることを、改めて悟った。
 やはり、このままでいい。
 このままで。
 
「どうしたのだ、陽志郎」
 それから数日の後のこと。孝十郎は、なにやらいつになく考え込んでいる陽志郎をみつけた。
 よほど難解な英文と格闘でもしているのかと思えば、陽志郎の前にあるのはただの紙切れ一枚。書いてあるのはどう見ても日本語だ。
「あ!」
 陽志郎が非難の声をあげる。孝十郎がその紙切れをひったくったのだ。
「何々」
 孝十郎は素早く目を走らせる。その紙切れは通知書であった。
「竹村陽志郎殿
 英国ヘノ留学生ニ選バレタル旨通告ス
 欧州ノ法学ヲ修メラレタシ」
「留学か。よい機会ではないか」
 孝十郎は言ったが、陽志郎はうかない顔のままだ。
「何を悩む? このようなことはそう何度もあるものではないぞ」
「ああ、わかっている」
「ならばなぜ」
 そう言って、孝十郎は突如天啓のようにその理由に思い当たった。
「成る程」
 孝十郎はそう言うと、いったん言葉を切り、そして、きびしい顔で言った。
「決断のしどころだ。もしイギリスへ行く気なら、彩音さんのことはすっぱり諦めるのだな。いたずらに彩音さんを待たせたりは、決してするなよ」
「僕は」
 言いかけた陽志郎の言葉を、孝十郎はさえぎる。
「ここにきて見苦しいごまかしなどはよすのだな。前にも言っただろう、お前の気持ちなど見ていればすぐにわかる」
 そう言うと、孝十郎は身をひるがえした。
「イギリスへ行ってしまえ! 恋敵は少ない方がいい」
 言い捨てて、孝十郎は陽志郎の部屋を去った。
「・・・・・・」
 陽志郎は再び悩み出す。
(僕はイギリスへ行きたい。でも、お嬢さんとは離れたくない。
 お嬢さんと離れるだけなら、まだいい。だが、その間にお嬢さんが僕を忘れてしまったら。僕の気持ちもわかってもらえないうちに、僕が忘れられてしまったら。
 耐えられない!
 せめて、僕の気持ちだけは伝えたいが、孝十郎の言うことももっともだ。
 ああ、どうしたらいい!?)
 いくら考えても考えはまとまらず、陽志郎は頭を抱えて机につっぷしてしまった。
「だめだ」
 陽志郎は上体をおこしてつぶやいた。
 今ここで考えていても気が滅入るばかりだ。そう思って、陽志郎は気晴らしに外出することにした。
 出かけるまでにお嬢さんに出くわしたら、どんな顔をすればいいのかわからなかったが、幸い彩音は外出しているようであった。
 
 さらさらと水が流れてゆく。
 土手に腰をおろして、陽志郎は身じろぎもせず川を眺めていた。
 土手には花が多く咲いている。護岸工事などもなされておらぬ土むき出しの土手であるからこそだ。孝十郎が専攻しているような建築の技術が日本でもっと発達すれば、このような土手もなくなっていくのだろうか。少し寂しいような気もしたが、それが開化というものであろう。
 陽もだいぶ西に傾き、真っ赤な夕陽が川面と陽志郎の顔を紅く染め上げた。
 もう日も暮れそうだが、陽志郎の考えは一向にまとまらなかった。
 と、そうやって考えている陽志郎の顔に、すっと影がさした。
「?」
 誰かの人影。それに気づいて、陽志郎は顔をあげた。
「どうなさいましたの、このような所で」
「お、お嬢さん」
 日傘をさした彩音が陽志郎を見おろしている。 先ほどの心配が現実になった。陽志郎はどんな顔をしたらいいかわからなくて困惑した。
「どうか、なさいまして?」
「い、いえ」
 とりあえずぎこちない笑みをうかべて、陽志郎は答えを返した。
「明日は、いいお天気になりそうですわね」
 見事な夕焼けを見て、彩音はそう言いながら陽志郎の隣に座った。
「・・・・・・」
 しばし話したものかどうか悩んだが、黙っていてもいずれわかってしまうことであるので、陽志郎は話すことにした。
「イギリスへ、ですか?」
「はい」
「そうですか」
「?」
 一瞬、ほんのわずかだが、彩音の表情がくもったように見えた。
 どうして?
 いや、きっと気のせいだろう。自分がイギリスへ行くからといって、お嬢さんが暗い顔をする理由など、何もないはずだ。
「イギリスへはどのくらいの間いらっしゃるんですの?」
「わかりません。一度行けば、学問を修めるまでは」
「そうですか」
「正直言って、悩んでます」
「あら、どうしてですの?」
「自信がないんです。日本を離れて、長い間異郷でやっていけるのか。僕の英語がちゃんと通じるのか。不安だらけです」
 その言葉を聞いた彩音は、表情をひきしめて言った。
「陽志郎さん、だめですよ、機会を逃しては。イギリスなんてもう二度と行けないかもしれないんですよ。だから」
「・・・・・・」
 何かが胸をえぐったような気がした。
 お嬢さんは僕がイギリスへ行ってしまってもかまわないのだろうか。
「でも、淋しくなりますわね」
(淋しいだけ、ですか?)
 心の中に浮かんだ質問は、しかし口にはできない。
「・・・・・・」
「あら?」
 沈黙する陽志郎を後目に、彩音は何かに気づいたようだった。
「菊が」
「え?」
 彩音の言葉に、陽志郎が視線をめぐらすと、そこに一輪の赤い菊が風にゆれていた。
「採ってあげましょうか?」
「いえ、結構ですわ。花は咲いたところにあるのが一番綺麗ですから」
「そうですか」
 一瞬沈黙して、陽志郎は言葉をなんとか紡ぎだした。
「けれど、お嬢さんにあの花をあげたかったと思います」
「・・・・・・」
 彩音も一瞬沈黙する。
「赤い菊の花言葉は、『あなたを愛する』だそうですね」
 彩音の頬が赤らんで見えるのは、夕焼けのせいだろうか。
「・・・・・・」
 再び沈黙すると、陽志郎はその言葉に答えた。
「知ってました」
「え?」
「その花言葉、知っていました」
「そう、ですの」
「あげたかったんです。その、花を」
「え?」
「すいません。これからイギリスへ行く人間がこんなことを言っていくのは卑怯なことだとは思います。わかってはいるんです。ですが、貴女に僕の気持ちを伝えておきたい。貴女に僕の気持ちを気づいてもらえないまま、忘れられたくないんです!
 好きです、好きなんです、お嬢さん!!」
「ああ、あ」
 彩音は目をうるませて、なにかの病のように全身をわなわなとふるわせた。
「陽志郎、さん」
 彩音はなんとか陽志郎の名を呼ぶ。
「あの、わたし」
 彩音の顔は真っ赤になっている。明らかに夕陽のせいではない。
「う、嬉しい、です」
「え」
 陽志郎は思わず我と我が耳を疑った。
「わたし、わたしも、陽志郎さんをお慕いしていましたの」
 しどろもどろにはなりながらも、はっきりと、彩音はそう言った。
「お嬢さん」
「彩音と呼んで下さい」
「彩音、さん」
 彩音は陽志郎の手をとる。
「忘れません、忘れませんとも。ご心配なさらずにイギリスへ行って、思う存分学んでいらしてください。わたし、わたし待っていますから」
「けれど、どれだけかかるかわからないんですよ」
「かまいません」
 きっぱりと、彩音は言い切った。
「わたし、待ちます。いつまでも待ちます」
「彩音さん!」
 陽志郎は感極まり、彩音を抱き寄せた。彩音はあらがうそぶりすらみせず、静かに陽志郎の胸に飛び込んだ。
 自分の腕の中にある彩音の顔を、陽志郎は見つめた。
 化粧気こそないものの、それでも充分魅力的なかんばせ。うるんだ瞳、紅を引いていない、薄い唇。
 その唇に顔をよせて。
 夕陽にてらされた二人の影が、より近づいて、そして、ひとつになった。
 
 かくして、陽志郎はイギリスへと旅だった。港には、孝十郎をはじめとする学友が見送りのために集まり、ちょっとした人混みができていた。
 その人混みの中に、彩音の姿もあった。
 孝十郎は、そこで、陽志郎を見る彩音の瞳の変化にめざとく気づいた。
 しかし、旅立つ陽志郎をつかまえてまで言うことはない、と黙っていた。
 古来より「去る者は日々に疎し」という。
 陽志郎のことだ、いくら彩音が気になるとはいえ、学問を修めもせずにおめおめ戻ってくるようなことはないだろう。
 とすれば、奴が帰ってくるのはかなり先になる。
 これからも彩音と一緒に居続ける自分に、陽志郎が勝てるわけはない。
 孝十郎は、そう思った。
 
 そして月日は流れた。
 彩音は自分の言葉に背くようなことはしなかった。
 彼女は二十三になったが、結婚はおろか男女としての交際ひとつなかった。現代ならばともかく、この時代ではそろそろあせりを感じ始めてしかるべき年齢だ。
 不思議と、両親は何も言わなかった。
 苛立っていたのは孝十郎である。
 彼もこの数年で、日本国内において学びうるすべての建築学を修め、今では下級官吏ではあるが将来の展望のひらけた、工部省の役人になっていた。ちなみにこの工部省の頂点・工部卿が、数年後初代内閣総理大臣となる伊藤博文である。
 さて、そんな孝十郎だが、彩音がかたくなに男を拒み続けるのを見て、今更ながらに陽志郎をうらめしく思った。
 ある日、孝十郎は一計を案じ、彩音を呼び出した。
「お久しぶりですね、孝十郎さん」
 彩音は孝十郎に微笑みかけた。
 もちろん、その笑みに底意はない。いわゆる「箱入り娘」の彩音にとって孝十郎は数少ない男友達であり、会って嬉しくなる人間であるのは確かな真実なのだ。
 だが、孝十郎は、その彩音の微笑みの裏に陽志郎の姿が見えかくれするような気がして、よけいに苛立ちをおぼえるのだった。
「彩音さん、よく聞いてくれ」
「はい」
「本気で陽志郎を待つつもりなのか?」
「・・・・・・」
 彩音は沈黙した。
 孝十郎が、自分を慕っていると公言していたことは、もちろん覚えている。
 そして、それが本気であったことも、わかっている。
 だから、自分の陽志郎に対する想いを正直に告げたら、孝十郎を傷つけてしまう。
 そうは思ったが、だからといってここでその場しのぎのつまらない嘘をついても仕方がない。
「はい、わたしは陽志郎さんを待ち続けます」
「馬鹿な!」
 孝十郎は怒鳴りつけるように言った。
「彩音さん、陽志郎がイギリスへ行ってどのくらい経ったと思っている? 六年だ! もう充分だ、貴女がたとえ待っていなくとも、陽志郎は恨んだりはせぬ! それに、奴とて向こうで他の女に惹かれておらぬとも限らぬのだよ!」
 そのことに思い至らなかったわけではない。
 だが、もう気持ちの整理はとうの昔についている。
 彩音はきっぱりと言った。
「わたしは陽志郎さんを信じます」
「何故だ、何故だ彩音さん!?」
 孝十郎は彩音にくってかかった。
「なぜ俺ではいけない!? 俺では陽志郎のかわりにすらなれぬのか!? 俺は貴女が好きなのだ、なのに何故!」
「・・・・・・」
 彩音は顔を赤らめたが、真剣な顔で答えた。
「陽志郎さんが好きなのですもの、仕方ありませんわ」
 茫然とする孝十郎に、彩音は続けた。
「孝十郎さんは本当に素敵な方です。わたしなどお構いにならなくとも、もっと素敵なお相手が必ず見つかりますから」
「・・・・・・」
 孝十郎はがっくりと肩をおとした。
「すまない、彩音さん」
 身も世もないような口調で絞り出すように孝十郎は言った。
「呼び出しておいて本当にすまないが、しばらく一人にしてくれ」
「はい。
 ごめんなさい、孝十郎さん」
「いや」
 ただそうとだけ言って、孝十郎は沈黙した。
 後ろを振り返りながら立ち去る彩音の姿が見えなくなると、
孝十郎は心底憎々しげに吐き捨てた。
「陽志郎の奴め!」
 しかし、すぐに表情をゆるめる。
「俺の、負けだ」
 
 一方、イギリスの陽志郎は、日々勉学にいそしんでいた。
 暇をみつけては机に向かい、英語の原書をも熱心に読む。
 イギリスの若者に、「日本人は勤勉な民族である」という認識を植え付けるのに充分な態度であった。
 とはいえ、陽志郎は決して閉鎖的な性格ではなかったので、進んで人付き合いもした。
 最初こそは日本で学んだ英語が通じるかかなり不安であったが、案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、すぐに英会話も不自由なくできるようになった。
 陽志郎には多くの学友ができた。彼は学友からも多くのことを学び、着々と法学を修めつつあった。
 イギリスの学友は、陽志郎をさまざまな所へ連れ出した。彼らとしては遊んでいるのだが、陽志郎にとってそれはまたとない社会見学の機会であった。
 その日、陽志郎が連れていかれたのは、一軒の酒場であった。
 陽志郎は実は酒に強い方なので、皆がべろべろにつぶれていく中、酔いながらも持ちこたえていた。
「おい、大丈夫か?」
 陽志郎は仲間たちを介抱してまわったが、結局の所正気を保っているのは陽志郎と、もう一人だけであった。
「みんな仕方がないわね」
 もう一人残ったのは、意外にも女性であった。
「ヨーシロー、手伝って。みんなを家に送って行きましょう」
「あ、はい」
 その女性に言われるまま、陽志郎は仲間たちを引きずり始めた。
 
 最後の一人を家へなんとか送り届けて、女性と陽志郎はやっと一息ついた。
「それじゃ、ヨーシロー、またね」
「あ、一寸待って下さい」
「え?」
 陽志郎に呼び止められ、女性は振り返った。
「夜の女性の一人歩きは物騒ですよ、送りますよ」
「まあ、ありがとう。紳士なのね」
「いえ、そんな」
 瓦斯灯の明かりに照らされて、女性の姿が浮かび上がる。
 典型的な「外人」だ。黄金色の長い髪、真っ青な瞳。文句のつけようもなく美人の部類に入るであろう。
 二人で夜道を歩いていると、だんだん場がもたなくなってきた。
「あの」
 陽志郎は、とにかく何か話そうと口を開いた。
「えーと」
「どうしたの?」
 そこで陽志郎は、この女性の名前を自分が知らないということにはじめて気づいた。
「失礼ですが、お名前は?」
 女性は、一瞬何を聞かれたかわからないといった表情をしたが、やがて苦笑した。
「やだ、ヨーシロー、私のこと知らなかったの? 嫌ねえ」
「あ、はあ、すいません」
「謝らなくてもいいわよ。じゃああらためて、私はマリー。マリー=ラブロック。よろしくね」
 マリーはそう言って微笑むと、陽志郎に手を差し出した。陽志郎は手をにぎるということにはまだ多少抵抗があったが、握手の習慣のことは知っていたので、その手を握り返した。
 その夜はそのまま、何事もなかったのだが。
 
 その日以来、マリーはなにかと陽志郎の世話をやいてくれるようになった。
 何年かイギリスで暮らしてはいるが、それでもやはり陽志郎は日本人、文化のギャップに悩む場面もいくつかある。そのたびに、マリーが助け船を出してくれたり、フォローをしてくれたりした。陽志郎はそれでだいぶ助かったのだが、同時にマリーがどうしてそこまで自分を助けてくれるのか疑問に思った。
「マリーさん」
「ん?」
 ある日、帰り道で、陽志郎はそれを聞いてみることにした。
「あの、どうしてこんなに親切にしてくれるのですか?」
「あら、お節介だったかしら」
「いっいえっ、そういうわけではないのですけれど」
 マリーは何か妖しげな微笑みを浮かべ、一瞬沈黙した。そして、悪戯っぽく言う。
「うふふ。貴方が好きだからよ、ヨーシロー」
「え!?」
 陽志郎は見ていておかしくなるほどあわてふためいた。マリーは、そんな陽志郎にすっ、と身を寄せる。
「本気なのよ」
 そして、硬直している陽志郎に、素早く口づけした。
「!!」
 欧米では、口づけは挨拶のようなものだ、と聞いたことはある。
 しかし、今のは違う。断じて違う。
 それに気づかぬほど陽志郎は鈍感ではなかった。
 どうしたらいいかわからない。
 体から力が抜ける。
 手にしていた本を取り落とし、陽志郎はそのまま茫然と人形のように立ち尽くしていた。
 マリーは長い口づけを終えると、微笑んで手を振った。
「バイバイ、ヨーシロー!」
 マリーが去っても、しばらくの間陽志郎はそのままつっ立っていた。
 
「今、何とおっしゃいましたの?」
 彩音は耳を疑った。
 父が彩音に告げたことは、ちょっとした衝撃であった。
 ある日父は彩音を呼び、こう告げたのだ。
「鹿鳴館で演奏をしろ」と。
 鹿鳴館は、今年開館したばかりの迎賓館である。
 外人を招いて舞踏会などを行うのだが、その際にはもちろん音楽がいる。
 鹿鳴館のねらいの一つには、不平等条約を改正させるために日本が文化国であることを欧米諸国に知らしめるということがあるので、音楽の演奏などはできるなら日本人によって行われた方がよい。
 しかし西洋の音楽をよくする者はそういるものではない。
 そこで、彩音に白羽の矢が立ったというわけだ。
「そんな。わたしの拙い腕は披露するようなものではありません」
「そう卑下したものでもないぞ。外務卿自らのご氏名だ」
「井上様の!?」
 外務卿・井上馨。条約改正のための欧化政策を先頭に立って押し進めた人物で、当然鹿鳴館にも深く関わっていた。
 実は彩音の父と井上は、ふとしたきっかけで知り合いになっていたのである。当然井上は彩音のことも、その腕前も知っていた。
「外務卿のご推挙を無碍に断ることもできまい」
「・・・・・・」
 彩音は絶句した。
 父の言うことはもっともだ。これを断れば父の顔をつぶすことにもなりかねない。
「わかりました。僭越ながらお引き受け申し上げます」
 
 と、引き受けはしたものの、彩音はものすごく緊張していた。
 あの鹿鳴館で、数え切れないほどの人々が見守る中、提琴を弾いている。
 信じられなかった。心臓が破裂しそうになっていて、手が恥ずかしいほどふるえているのが自分でもよくわかる。
(ああ、早く終わって)
 永劫とも思える時間がやっと過ぎ去って、彩音の全身から力が抜け、汗がどっと吹き出てきた。
 ホールの隅で虚脱していた彩音に、拍手をしながら近づいてくる者がいた。
「お見事な演奏でしたよ」
「ありがとうございます」
 自分の演奏を賞賛しにわざわざ人が来てくれたというのに、椅子に座ってふんぞり返っているわけにもいかない。
 彩音は立ち上がろうとしたが、精神の疲労があまりにひどく、よろめいてしまった。
「大丈夫ですか?」
「あ、も、申し訳ありません」
「いえ、ご無理をなさらないで」
 椅子に座りなおした彩音は、その人物を見た。
「日本語がお上手ですね」
 それは外人の青年であった。黄金色の髪、青い瞳。生粋の大和撫子である彩音は、外人には抵抗があり、怖じ気付いてしまった。
「ああ、私のような外国人は慣れていらっしゃらないのですね。大丈夫、とって食べたりはしませんよ」
「まあ」
 彩音は微笑む。どうやらこの人物は悪い人ではなさそうだ。
「申し遅れました、私はスコットと申します。イギリスから来ました」
「イギリス?」
 彩音の脳裏に陽志郎の姿がよぎる。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ、失礼しました。わたし、彩音です」
 彩音は会釈したスコットに会釈をかえした。
「あの」
「はい?」
「よろしければ、イギリスのお話をお聞かせいただけないでしょうか」
 はにかんで言う彩音に、スコットは微笑んで答えた。
「はい、喜んで」
 
 その縁で、スコットはちょくちょく彩音と会うようになった。
 スコットは日本のことを彩音からいろいろ教えられたし、彩音はスコットからイギリスのことをいろいろと聞いた。
 スコットは日本政府に招かれた技術者であり、その赴任先であるこの日本という国を知りたかったから。
 彩音は、陽志郎が行っている国を知りたかったからである。
 そんなある日のこと。
「そんな、ひどうございます、お父さま!」
 彩音が非難の声をあげる。
「しかしこのような積み重ねがこれからの日本のためなのだ」
「けれどそんなこと!」
 父は、スコットのことを聞くと、彩音に言ったのだ。
「その男の子を身ごもれ。日本の将来のために欧米人の血を日本に入れよ」と。
 井上と気が合うような人物である彩音の父は、極端な欧化主義者であった。彩音が結婚せずにいても何も言わなかったのはこのためだったのだ。
 父がそういう人物だということは、彩音も充分知っていた。しかし、こればかりはすなおに従うわけにはいかなかった。
「いくらお父さまがそうおっしゃっても、それだけはできかねます!」
 さすがの穏和な彩音も腹を立て、そのまま父の前を辞した。
(陽志郎さん、早く帰ってきて下さい。でないと、わたしは)
 そんなことがあった次の日、スコットがなにやら深刻な顔でやってきた。昨日の今日であったので、彩音は少し身構えてしまった。
「彩音さん」
「はい」
「あの、お願いがあるのですが」
「何でしょう?」
「私と一緒に、イギリスへ来ていただけないでしょうか?」
「ええ!?」
 昨日の父の言葉が脳裏をよぎる。
 スコットは彩音の肩をつかむ。
「お願いします、彩音さん!」
 そのままスコットを見ていると、なにか悲しくなって涙がこぼれてしまいそうで、彩音は、自分をまっすぐ見つめるスコットから視線をそらし、言った。
「ごめんなさい、わたしは」
「誰か、心に決めた人がいるんですか?」
「はい」
 彩音は言おうかどうか少し迷ったが、事実をスコットに告げることにした。
「イギリスへ留学しています」
「イギリスへ」
 スコットは彩音から手を離した。
「そうですか」
 そして一歩彩音から離れ、静かに言った。
「失礼しました。その人、早く戻られるといいですね」
「本当にすいません」
「いえ、いいんです。けれど」
 スコットはきびしい顔で言った。
「もう一度、ゆっくり考えてみて下さい。祖国びいきかもしれませんが、イギリスはすばらしい国です。その方の情が移らないとも限らない。イギリスという国に、イギリスの女性にね」
「それなら大丈夫ですわ」
 彩音は微笑む。
「日本も、とても素晴らしいところですから」
 
 彩音の言葉の通り、陽志郎の心は未だ日本にあった。
 イギリスの法学を一通り修めた陽志郎が、帰国する日がやってきたのだ。
 多くの学友に別れを告げ、港へ向かうだけとなったのだが、陽志郎はずっとマリーの姿がないことが気になっていた。
 しかし、出港までもう時間もない。マリーに何も言わずに帰るのは心残りであったが、仕方がない。
 しかし、陽志郎が港に着くと、そこにマリーがいた。
「ヨーシロー」
「マリーさん、その格好は?」
 マリーは、旅装束にトランクといった出で立ちだったのである。
「うふ」
 マリーは彼女がよくやるように、悪戯っぽく笑って見せた。
「私も、日本へ行くのよ」
「え!!」
「だって、あなたが日本へ帰ってしまうんでしょう?だったら、私も日本へ行きたいわ」
「そんなこと、急に」
「急じゃないわ、あなたの帰る日が決まってから、ずっとこうしようって決めていたのよ」
「そんな」
 陽志郎は困り果てた。いかにマリーに一方的に迫られているだけだとはいえ、女連れで日本へ帰ったりしたらどう思われるだろう。もし、彩音さんが自分を待ち続けてくれていたりしたら。
「ちゃんと学校に休学届けも出してきたわ」
「そういう問題ではなくて」
「いろいろ言っている暇はなさそうよ、船が出るわ」
 マリーは陽志郎の手をひいて、船へ向かった。
「行きましょう、あなたの国へ。日本へ」
 陽志郎から習った日本語でわざわざ言って、マリーはにこにこしながら船に乗り込んだ。その後ろでは、陽志郎がどうしようどうしようとうわごとのようにつぶやき続けていた。
 
 懐かしい故郷。
 安心する景色であるはずなのだが、隣でにこにこしているマリーのせいで、陽志郎は心配ばかりしていた。しかも、気が滅入っていたせいか、ものの見事に船酔いになってしまっていた。
「陽志郎!」
「久しぶりだな、陽志郎!」
「船酔いなのか、大丈夫か?」
 旧友たちが、船から降りた陽志郎を取り囲んだ。
 その人混みの外側に、彩音の姿もあったのだが、彩音はどうも陽志郎のそばにいる金髪の女が気になって仕方がなかった。
 陽志郎のほうは一刻も早く彩音に会いたかったのだが、旧友たちは彼を解放してはくれなかった。
 そんな人混みをはさんで、陽志郎は彩音を、彩音は陽志郎を見つけた。
「陽志郎さん!」
 彩音は叫んだ。しかし、陽志郎からのいらえはなかった。
 答えられなかったのか、答えなかったのかはわからない。
 どちらにせよ、それで彩音は大変不安になった。
「陽志郎さん」
 不安げにうつむく彩音に、金髪女が近づいてきた。彩音の声を聞きつけたらしい。
「アヤネって、あなたのこと?」
 それほど流暢ではないが、充分理解できる日本語でその金髪女が話しかけてくる。
「あ、はい」
「私はマリー、よろしくね」
「はい?」
「ふふ、おかわいそうに。やっぱり離れているとだめよね」
「えっ!?」
 彩音は心臓を握りつぶされたような衝撃を受けた。
『奴とて向こうで他の女に惹かれておらぬとも限らぬのだよ!』
 孝十郎の言葉が脳裏によみがえる。
「まあ、貴女も綺麗な方だから、まだ充分やり直しは効くわよ。元気でね、さようなら」
 マリーはそう言うと、ニヤリと笑って身を翻した。
 その後、彩音はどうやって家まで帰ったのか覚えていない。
 気づくと自分の部屋で、茫然と立ち尽くしていた。
 本当は港で泣いてしまいたかった。
 だが、そんな無様な真似はしたくなかった。
 しかし、その緊張の糸も、自室では完全に切れてしまった。
「ひどい、ひどい! ひどいわ陽志郎さん! そんなの、そんなのあんまりよ!!」
 寝台に突っ伏して、彩音は泣いた。その泣き声は、まるで心が砕け散る音のようであった。
 
 泣いて泣いて泣きつかれて、彩音は服がしわになることも気にせず、茫然と寝台で横になっていた。
「お嬢様、陽志郎様が」
 メイドの老婆が来客を告げる。
「会いたくないわ」
「は?」
「会いたくないの。お詫びしておいて」
「ですが」
「いいから! 一人に、なりたいの」
 微動だにせぬままそう告げると、彩音はそれきり黙りこくった。
 さっきまでで流し尽くしたと思っていた涙が、またあふれてきた。
「言い訳なんて聞きたくない」
 
「そうですか」
 面会を謝絶された陽志郎は、とぼとぼと彩音の家から離れた。
 マリーが彩音に何を言ったのか知らない陽志郎は、やはり彩音は待ちきれなかったのだろうと思った。
 彩音はもう誰かと結婚したのだろうか。
 確か彩音は今年で二十七になるはずだ。普通にいけば、結婚していないほうがおかしい。
 誰と?
 孝十郎だろうか。
 そうだ、孝十郎はどうしただろう?
 そう思って、陽志郎は母校に赴き、孝十郎のことを尋ねてみることにした。
 その結果、孝十郎についていくつかのことがわかった。
 まず、今孝十郎は内務省で要職にあるということ。
 そして、内務省の偉い人の娘と結婚したということ。
 孝十郎は、彩音と結婚したわけではないようだ。
 陽志郎は、孝十郎を訪ねてみることにした。
 
 孝十郎は陽志郎を大歓迎してくれた。
「彩音さんのところへはもう行ったのだろうな」
「ああ。だが、会ってもくれなかった」
「何?」
 孝十郎の表情が訝しげにゆがむ。
「貴様、何か彩音さんに後ろめたいことはないだろうな」
 ある。
 心当たりは充分ある。
 言うまでもなく、マリーだ。
 しかし、彩音がなぜそれを?
「彩音さんは、まさか」
「もちろん今も独り身だ。貴様をずっと待っていた」
「・・・・・・」
「貴様、まさか向こうで」
「それは、違う。だが」
「だが?」
「勝手についてきた」
 あまりといえばあまりの言いようだが、陽志郎は実際そう思っていたし、事実もそうである。
「女がか?」
「ああ」
「貴様のそういうところがいかんのだ! 駄目なら駄目だとなぜはっきりと言わぬ!
 さあ、今こそははっきりしてもらおう。どちらにするのだ、貴様を慕ってわざわざ異郷に来た女と、貴様を十年も待ち続けた女と!」
 孝十郎は陽志郎を怒鳴りつけた。
「彩音さんに決まっている」
 きっぱりと陽志郎は答える。
「ならばそのイギリス女は貴様がなんとかするのだな。自分のことは自分で始末をつけろ」
「ああ、その通りだ」
「ならばこんなところでぐずぐずしている暇はあるまい」
「うむ、邪魔をしたな」
 陽志郎は孝十郎の家を辞した。
 孝十郎は陽志郎が去ったのを見届けると、外套を羽織って自らも家を出た。
 
 陽志郎はいきなり途方に暮れていた。
 マリーはどこにいるのだろう?
 イギリスから戻った陽志郎には、政府の要職とそれに見合う住処が用意されていた。しかし、マリーには日本での肩書きなど何もない。陽志郎の家にでもおしかける気なのかと思ったが、港に着いて以来マリーの姿は見ていない。
 陽志郎は八方手を尽くしてマリーを探した。
 いくら日本が開国し、井上あたりがさかんに欧化を進めたとはいえ、まだまだ国内で外国人は珍しい。
 すぐに見つかるだろうと思っていたのだが、なぜかマリーはまるでつかまらなかった。
 もしや、と陽志郎は思った。
 日本国内には、まだまだ外国人を快く思わないものはたくさんいる。
 陽志郎はあわててイギリス領事館へ走った。
 もし、マリーが無縁仏として転がっていたりしたら。
 自分は、取り返しのつかない過ちを引き起こしたことになる。
 マリーは、確かにイギリス領事館にいた。
 ただし、ちゃんと生きたままで、である。
 そしてマリーの隣には、一人のイギリス人の青年がいた。
「あら、ヨーシロー」
「マリーさん!」
「そんなに息を切らせて。心配してくれたの?」
「当たり前です!」
「ふふ、ありがとう」
 と、隣の男がマリーに尋ねた。
「マリー、この方は?」
「ああ、彼がさっき言ってたヨーシローよ」
 誰だろう、と陽志郎は思う。
 マリーと並んでも遜色ない美形だ。同じイギリス人であるためか、マリーとの釣り合いもいいように思えた。
「ヨーシロー、彼、誰だと思う?」
「さあ?」
 なんだか困ったような顔をするその男をおしとどめ、マリーが微笑む。
「彼と私は、他人じゃないのよ」
 そう言ってマリーは、男の腕によりそってみせた。
「え!」
「いい加減にしないか、マリー」
 その男が困った顔で言う。
「驚いた? ヨーシロー。実はね、私のお兄さんなの」
「は?」
「ごめんね、ずーっとからかってて。実は私、訳あってお兄さんに会いに来たの、本当は」
「じゃあ」
「貴方が日本へ帰るから、っていうのは嘘。ごめんね」
 マリーはぺろっと舌を出して見せた。
「冗談で済むか!」
 陽志郎は、いままで生きてきた中で最も大きな声で怒鳴った。
「僕がどんなに心配したか! どんなに悩んだかわかっているのか!」
「ごめんなさい」
 しゅん、となって、マリーがうなだれる。
「ごめんなさいついでに、もうひとつ謝っていいかしら」
「何ですか?」
 まだ怒りの冷めない顔で陽志郎が言う。
「あの、港であったアヤネも、ちょっとからかっちゃって」
「はあ?」
「アヤネ? マリー、彩音を知っているのか?」
 マリーの兄が、マリーに尋ねる。
「え? ええ。ヨーシローの恋人よ」
「それでは、イギリスに留学している彩音の恋人というのは君のことだったのか」
「はあ、まあ」
 赤くなりながら陽志郎が答える。
「自己紹介が遅れたが、私はスコット。ちょっとした縁で、彩音のことは知っている。
 マリーのしでかしたことはうまく取りなしておくから、彩音に会うんだ」
「・・・・・・」
 あまりに唐突な出来事に、陽志郎は茫然となったが、彩音に会えるならこのさい何でもよかった。
 しかし、そこでマリーのことを思い出す。
 マリーを見ると、彼女は微笑んでいた。
「いいのよ、私は。貴方が好きなのは本気だけど、異国で生活する自信はないもの。すぐに帰るつもり」
「異国で生活する自信、か」
 スコットは小さな声でつぶやいた。
(私も、確かに異国で彩音を幸せにする自信は、ないな)
 心の整理をつけて、スコットは陽志郎を見た。
「では、スコットさん。彩音さんに伝えて下さい、『あの河原で待ってます』と」
「『あの河原』でいいのですね」
「たぶん、わかると思います」
 わからないようだったら、それまでだろう、と陽志郎は思っていた。
「わかりました。さあ、来いマリー。彩音にも謝るんだ」
「はーい」
 マリーは微笑んだまま、兄に続いて出ていった。
「バイバイ、ヨーシロー」
 マリーの微笑みは、ほんの少しだけ淋しそうだった。
 
 彩音と一緒に夜空を見上げたあの夜のように、その夜も満月を過ぎて少し欠けた月が闇を照らしていた。
 彩音さんは、本当に僕をずっとずっと待っていてくれた。
 しかしマリーの一件で、どうやらだいぶ彩音をも傷つけてしまったようだ。
 会ってくれなかったことからしても、かなり怒っているに違いない。
 当たり前だ。女のいたずらであるとはいえ、十年待ち続けた男が女連れで帰ってきたのだから。
 僕がもっと気を利かせられたら。
 それに、僕がもっとマリーに対して毅然とした態度で接していれば、この誤解はおこらなかっただろう。
 僕は、ひどい男だと思った。
 そのとき。
 月明かりに立つ影一つ。
「彩音さん」
「・・・・・・」
 彩音はそっぽを向いたまま、口もきいてくれない。
 ここにきてくれたということは、スコットから事情は聞いているのであろうが、それでも確かに彩音が怒るのももっともだ。
「彩音さん、すまない。本当に」
「許しません」
 やっと口を開いた彩音が最初に発した言葉が、これだった。
 振り向いた彩音の瞳には、涙がいっぱいにたまっている。
「誰が…誰が許すものですか。十年も待たせて…女の人と一緒に帰ってきたりして…。きちんと紹介してくださるなりなんなりしてくださればよろしかったのに…それなのに…」
「彩音さん」
「絶対に許しません。わたし…」
 彩音はそこで言葉を切る。
 そして、少し表情をゆるめて言った。
「あなたを一生離しません。ずっと、ずっとわたしがあなたに罰を与え続けます」
 そう言い終わると、彩音はいきなり陽志郎に飛びついた。
「陽志郎さん! 陽志郎さん、会いたかった!!」
「彩音さん…」
 陽志郎はそんな彩音をしっかりと受けとめる。
「もう絶対離さない!何処にも行かせない!もうわたしを一人にしないで!」
「僕は、一生償い続けます。あなたをずっと放っておいてしまったことを」
 彩音はもう何も言わずに、そのまま陽志郎の胸で泣き続けたけれど。
 それは魂の喜びの声だった。
 いつまでも寄り添い続ける二人を見守るのは、ただ夜空の立待月だけだった。
 
                           <終わり>
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