聖夜の悪魔
 
 十二月二十三日。
 あともう少しでクリスマス。デパートにはクリスマスセールの派手な飾り付けがあふれ、雪が降り積もる寒い街もどこか楽しげな雰囲気だ。
 街ゆく人々も、大晦日と並ぶ年末の一大イベントを前に、皆明るい顔をしている。デパートの前で親にプレゼントをねだる子供の声がする。
 街中が、思いきり幸せだった。
 そんな街を上空から、思いきり不幸せな気分で見おろす者がいた。
 そいつは、深く重いため息をつくと、愚痴るように独り言を始めた。
「何でみんなこんなに楽しそうにしてるのかしらねえ。別に神の子が生まれた日なんて、この国の連中には関係ないでしょうに」
 真っ黒な服と翼に降りかかる雪を苛立たしげに払い、そいつはもう一度、深いため息をついた。
 そいつの名はルーデル。悪魔である。
 彼女は信心深い奴がほとんどいないこの日本という国が気に入っていたが、何でもかんでもお祭りのように騒ぐのだけは嫌いだった。あんたらキリスト教徒でも何でもないんでしょう、だったらクリスマスなんてほっといて家でこたつにでも入って震えてなさい、というのが彼女の正直な気持ちだ。
 悪魔であるルーデルにとって、人々の幸せな気持ちというのはただ不快なだけでなく、力を失う原因にもなる。このままではクリスマスの間震えていなくてはならないのはルーデルの方になってしまう。
(さて、どうしようかしら?)
 ルーデルは、足下の人々を見おろしながら、難しい顔で考え込んだ。
 
 さて、この街には総合大学が一つある。
 大学の学生もまた、クリスマスを楽しみにしていることに変わりはない。学生にとってクリスマスは、絶好のコンパの機会である。
 谷口忠智にとってもそうだった。
 彼は華道のサークルに入っている。で、そのサークルも例にもれず、クリスマスコンパをやろうという話になった。
 華道サークルにはあまり人がいない。コンパといってもささやかなものだ。だから、会員の家をコンパ会場にしようということで話がまとまっていた。
「で、明日結局何人来るの?」
 コンパ会場を提供することになっている沢辺依が、忠智にそう尋ねた。
「あんまり人来られないみたいだよ。樋口さんは四年だからいろいろ忙しいらしいし、市川さんは帰省するって言ってたし、大内さんってこういうの好きじゃないだろ?だから」
 忠智は、依のどこか眠そうに見える瞳を真っ直ぐに見つめながら答えた。
 忠智と依は、実は大学にはいる前からの…子供の時からの知り合いである。
 依はいつも眠そうな顔をしていて、実際中身もボーッとしており、何もないところでつまづいて転び頭を打って失神したりすることもしばしばだった。
 忠智はそんな依の世話をいろいろやいているうちに、彼女のことを放っておけないと思うようになり、やがて、彼女のことが好きなことに気づいた。
 だから、本当はサークルのコンパなどではなく、二人きりでクリスマスを過ごしたいというのが本心である。
「じゃあ、あたしたちと、竹中兄妹と、志津ちゃんの六人だねえ」
 そんな忠智の気持ちを知ってか知らずか、依は寝ぼけたような声で確認した。
「ゆうゆうだな、お前の家広いから」
 依は少し微笑んでうなづいた。彼女は、年子の妹でやはり華道サークルの一員である結と一緒に、アパートの二人部屋に住んでいる。しかもその部屋が和室であるため襖を外して二つの部屋を大きな広間にできるので、コンパ会場にはもってこいなのだ。六人など余裕で入る。
「それで、時間いつだっけ?」
「夜七時。起きてろよ」
 大学生のくせに依は異様に夜に弱い。というより、暇さえあればいつも寝ている。夕方依の家に電話をかけたりすると、結がでて依は寝ていると告げることもよくある。依は外見が悪くないので、「眠り姫」と冗談めかして呼ばれることもある。
「うん。がんばって起きてる」
 自分の眠り癖は依自身ちゃんと自覚しているので、ちょっと気合いを入れたような表情で依はうなづいた。
「それじゃあね、たーくん。明日起きてられるように帰って寝るから」
 依はそう言って立ち上がったが、頭がフラフラしているようにも見える。いつものことと言えばいつものことだが、忠智は心配になりながらその後ろ姿を見送った。
 
 次の日からは学校は休みである。忠智は、今頃依も寝てるんだろうな、と思いながら、ベッドでゴロゴロしていた。そのとき、部屋の電話が鳴る。嫌々ながらも布団から這い出し、受話器を取ると、同じサークルの二年生の竹中弥太郎だった。
「実は、急に実家に帰らないとならなくなって」
 何でも、同窓会の知らせが届き、その期日が迫っていて、急いで帰らねばならないのだという。そして、妹の弥生の方もバラバラに帰るよりは一緒に帰った方が兄が荷物持ちになるということで、一緒に帰ることにしたのだそうだ。
 ちょっと残念だ、と思う一方、忠智は嬉しくもあった。これで邪魔者が減った。
 自分が邪魔者扱いされているなどとはつゆ知らず、竹中はすまなそうに謝って電話を切った。
 
 一方そのころ、沢辺宅にも電話がかかってきていた。相手は、一年生の笹川志津だ。
「すいません、風邪を引いてしまって…」
「うん…それじゃ、しょうがないよ」
 依が寝ているため電話にでた結は、そう言いながらも微笑んだ。
 忠智と依は幼なじみで、結は依の妹である。勘のいい結は、忠智の依への想いにうすうす感づいていた。そして、依の方もまんざらでもないことにも。
 結は一計を案じることにした。何度も何度も謝意を述べる志津をなだめて電話を切ると、姉を起こしに部屋に向かった。
 依はしばらく起きなかったが、ようやくむっくりと上体を起こした。まだ寝ぼけ眼の依に向かい、結はまくしたてるように言う。
「あのねお姉、じつはあたし今夜都合悪くなっちゃったの。いやー実は彼氏から電話かかってきてさ、今夜一緒にいないかって。きゃーどうしようとか思ったけど、やっぱり男かなーって。
 あ、そうそう。それから、志津ちゃん風邪ひいて来られないって。じゃそーゆーことで」
 依は相変わらず寝ぼけていて結の言うことがほとんどわからなかったが、それでも今夜結がいないのだということだけは辛うじて理解した。スキップを踏みながら部屋を出る結の後ろ姿をぼーっと眺めながらも、このまま寝過ごしてはいけないと思い、依はフラフラと起き出した。
「頑張りなよ、お姉」
 そんな依を後目に、結は部屋を後にした。これで今晩来るのは忠智と竹中兄妹だけのはずだ。竹中兄妹はどうせ兄妹でどつき漫才を始めるだけだろうから、それほど二人の邪魔にはならないだろう。そう思って結は行くあてもなく街に出た。
 さすがに、竹中兄妹もこられないということまで結が知っていたわけではなかったが、これで図らずも依と忠智は二人きりの夜を過ごすことになったのである。
 
 そんな光景を上空から見おろしている者がいた。もちろんそんなところから見ている奴など、ルーデルしかいない。
 彼女はまだ、このクリスマスを乗り切るいい案を思いついていなかった。思案に暮れながらふわふわ飛んでいるうちに、この光景を目にしたのだ。
 ルーデルは最初、この姉妹の行動に別に何の興味も持っていなかった。だが、眠け覚ましにと外に出てきた依を一目見て、ルーデルの脳裏にある考えがひらめいた。
(そうだ、いいこと考えた!)
 
 夜になり、忠智は依の家に向かった。
 竹中兄妹が来ないということは、なかなか今日はいい雰囲気になれるかもしれないということだ。結はどうやら自分の気持ちに気づいているらしくいつも気を使ってくれるし、志津は例え酒を飲んでも大人しいので邪魔者はいないも同然だ。
 依の家につき、ドアを前にして、淡い期待を胸に秘めながら、忠智は依の家のチャイムを押した。
 どうせ依は寝ぼけているだろうから、出てくるのは結だろうと思っていたが、意外にも出てきたのは依だった。
「たーくん、待ってたわ」
 しかも、いつもと違ってはっきり目が覚めているようだ。こんなにぱっちりした目をしている依を見たことは、今までにも数えるほどしかない。
「よっぽどたっぷり寝たんだな」
 そう言ってみたが、依はただ曖昧に微笑むだけだった。そのまま部屋に通されるが、他には誰もいない。
「結ちゃんは?」
「よくわからないけど、ほかに約束あるみたい。あと、志津ちゃんも風邪だって」
 それを聞いて忠智は耳を疑った。ということは…。
「竹中兄妹も来られないって言ってたよ」
「そうなんだ。それじゃあ、わたしたち二人きりなんだね」
 二人きり…!
 その言葉を聞いて、忠智は自分の心臓がひっくり返ったような気がした。それは、依と二人きりというのは嬉しい。だが、二人きりで間がもつかどうかもわからないし、自分があらぬ考えを抱かないとも限らない。そんな心配を抱えて、ぎくしゃくしたまま一晩を過ごすのもどこか不安だった。
「二人だけっていうのも何だし…今日は、やめとこうか」
「え、何で?わたしと一緒じゃ嫌?」
 依は少し首を傾げ、真意のつかめない曖昧な微笑みをうかべて、じっと真っ直ぐに忠智を見た。
 忠智はそんな依を見て困ってしまった。もちろん、依と一緒なのが嫌なわけはない。
「嫌なわけじゃないけど」
 じゃあいいじゃない、と笑って言うと、依はまだためらっている忠智を部屋に引っ張り上げた。
 もちろん、忠智は依の部屋に初めて入ったというわけではない。依の部屋は広いので、こういう集まりに使われることが多かったからだ。だが、そういうときは必ず他の人もいたし、ただ単に遊びに来たときでも、少なくとも結がいて、二人きりということはなかった。
 コンパの用意がしてあったらしく、テーブルの上には酒やらジュースやらお菓子やらが並んでいる。それを見て、忠智は依が酔っぱらっているのかと思った。しかし、すぐにそうではないと思い直す。今まで依と一緒に酒を飲んだことは何度もあるが、依はほんの少し酒が入っただけですぐに寝てしまうのだ。もし酒を飲んでいるのなら依がこんなに元気に動き回っているわけはない。
 そんなことを忠智が考えているうちに、依はとっととコップに酒をつぎ始めている。
「二人だけだけどさ、飲もうよ」
 差し出されたコップを前に、忠智はためらった。自分が酔っぱらうとどうなるか、自分ではよくわからない。あまり酒が好きではないので、いつも飲み会の時には人に勧めてばかりだったのだ。しかし二人きりのこの状況でそれはできない。下手に勧めて、依に目の前で無防備に寝られてもそれはそれで困ってしまう。
「あ、そうか。たーくんお酒あんまり好きじゃなかったよね」
 依はそう言って、コップを置く。そしてまた真意の読めない微笑みを浮かべると、ささやくように言った。
「でもさ。酔った勢いってことなら、いいんじゃないかなあ?」
 忠智は一瞬で真っ赤になった。それを見た依は、かわいー、とか言いながらクスクス笑う。
 何かおかしい、と忠智は思った。いつもだったら自分がこんな風に依に手玉に取られるなどということは考えられない。たっぷり寝たにしても依が活動的すぎる。もっと依はぼーっとしているものだ。
「どうしたんだよ、依?」
「どうもしないよ」
 そう言いながら、依は忠智ににじり寄る。明らかにどうかしている。
 距離を取ろうとする忠智の腕をつかみ、依は身体をすり寄せてきた。忠智の頭に一気に血が上る。
 何しろ依はプロポーションがいいのだ。寝る子は育つ、というわけではないだろうが、全体的にふっくらしていて肉付きがよく、柔らかそうである。はっきり言って、劣情を刺激しやすいことこの上ない。
 右腕に押しつけられた依の胸から、とく、とく、とく、とく、と規則正しい律動が伝わってくる。忠智の心臓はそんなリズムと裏腹に、さっきからばっくんばっくんいっていていまにも破裂しそうである。
 そんな忠智の反応を楽しむかのように、依はますますくっついてきた。セッケンかシャンプーの甘い香りが鼻をくすぐり、息づかいが耳の間近で聞こえる。忠智の頭によけい血が上っていった。
「よ、依。やっぱりお前おかしいよ。酔っぱらってるのか? それとも寝ぼけてるのか?」
 さあ、そうかもね、と艶っぽくつぶやいて、依はとうとう唇を寄せてきた。たえかねた忠智は、依を何とか押しのけ、距離をとった。依は不満そうな顔でそんな忠智を真っ直ぐに見つめる。
「依。落ちつけよ。お前普通じゃないよ。そりゃあ、その…俺、お前のこと嫌いってわけじゃないよ。だからさ、嫌いじゃないから、お前のこと大事にしたいな、とか思ってて、だからその…」
 忠智のしどろもどろの言葉を聞くうちに、依の表情がどんどん不機嫌になっていく。それを見た忠智の言葉は次第に小さくなっていった。そこに追い打ちをかけるように、依がなによなによなによ、と不機嫌な声で言い始める。
「意気地がないわね、それでも男? 据え膳食わぬは男の恥っていうの知らないの? かまうことないのよ、この娘だってあんたのこと好きなんだから遠慮しないでやっちゃいなさい!」
「この娘?」
 忠智が首を傾げる。それを見た依は、しまった、というように口をふさぎ、そしてごまかすように笑うとあわてて先ほどのコップを手に取り、一気にくーっとあおった。
「そ、そんなことよりさ、やっぱり飲もうよ、ちょっとでいいからさ」
「…お前、いつから酒飲めるようになったの?」
 依は絶句する。顔中に「やばい」と書いてあった。そんな依を忠智は、問いつめるように真っ直ぐ見つめる。そうしながら少しずつ距離をつめると、先ほどとは逆に依の方がたじろいで後ずさった。そうしているうちに部屋の隅に追いつめられると、依は深いため息をつき、開き直ったような顔で忠智を見つめ返した。
「わかったわよ。あんたの思ってるとおり! あたしは依って娘じゃないわ、悪魔のルーデルっていうの」
 依…のふりをしていたルーデルの言葉を聞き、今度は忠智が絶句した。当然のことだが、悪魔が本当にいるなどとはこれっぽっちも考えていなかったからだ。
「冗談だろ?」
「じゃあ、あんたの知ってる依って娘はこんな娘?」
 ルーデルに言われ、忠智は再び絶句した。確かに今の依はいつもの依とは全然違う。悪魔が化けてるというのがもし本当なら、それで説明がつくと言えばつく。しかし、悪魔など本当にいるとは到底思えなかった。とはいえ、依がこういうことをするともやはり到底思えなかった。そんなわけで、忠智は混乱してしまった。
 ルーデルはそんな忠智をしばらく眺めていたが、ふう、と息をつくとまた酒を飲もうとした。しかし、忠智に部屋の隅まで追いつめられていたため、瓶に手が届かない。小さく舌打ちすると、ルーデルはさも当たり前のように瓶を宙に浮かせ、引き寄せた。まるで透明人間が持っているかのように勝手に栓が外れ、瓶はルーデルの手に収まる。それをラッパ飲みで飲む彼女の姿を見て、忠智は、悪魔かどうかはともかくとして目の前にいるのが少なくとも普通の人間ではないということを理解した。そして、居直った彼女を茫然とと見ていたが、やがて大切なことに思い当たり、再び彼女に詰め寄った。
「依は? 本物の依はどこにやった!」
「いるじゃない、あんたの目の前に」
 彼女の言葉を理解できない様子の忠智を見て、ルーデルは状況を説明する気になった。
 眠け覚ましに出てきた依を一目見たルーデルは、彼女が普通の人間と違っていることに気づいた。
 彼女は、他の人間に比べ「魂の緒」が妙に弱かったのだ。依がすぐに寝てしまうのは、肉体に魂が定着していない赤ん坊と同様、魂の緒が弱いからなのである。
 クリスマスという幸せいっぱいの時期を乗り切る方法を考えていたルーデルは、そんな依に目を付けた。魂の緒が弱い彼女の体なら、容易く乗っ取ることができる。そして、肉体の殻があれば幸せな気持ちという精神的な影響を避けることもできる。ルーデルのような悪魔は、実体化しようと思えばできないこともないが、所詮は思念体なのだ。
 そしてついでに、この体をうまく使えば、人間に罪を犯させて、自分の力を増すこともできるかもしれない。姦淫は七つの大罪の一つ、悪魔のルーデルにとってはかなりおいしい罪である。
 依に乗り移るというのは、そういう意味でルーデルにとって一石二鳥の良策だったのである。
 そこまで一瞬で考え、ルーデルはそれを実行に移した。そして、依の心を読みコンパや忠智のことを知ると、それを利用しようと思いたったのだ。
 つまり、中身はルーデルだが、目の前にいる依は体だけは確かに依だというわけだ。
 忠智の頭に血が上った。今度は先ほどまでのように興奮しているわけではない。怒っているのだ。こいつは依の体を使って、あることないこと並べ立てて、俺をからかって…。
 そんな忠智の気持ちを読んだかのように、ルーデルは口を開いた。
「言っておくけど、あたし嘘はついてないわよ。この娘は本当にあんたのこと好きなんだから。なんなら、今からでもどう?」
 忠智はムッとした顔でルーデルをにらむ。ルーデルは困った顔で頭をかいた。
 しばらく忠智ににらまれていたルーデルは、諦めたように忠智から視線を外し、開き直って再び酒をあおった。
「とにかく。クリスマスが終わるまであたしはこの体から出ないわよ。あんたも一緒にいるの? 気が変わったらいつでもどうぞ」
 誰が、と吐き捨てるように言ったが、こんなのを放っておくわけにはいかない。ここで自分が帰ったりしたら、ルーデルは依の体で街角にでも立ちかねない。どうやらこいつは、そっち関係の罪が大好きなようだから。とはいえ、こいつを依の体から追い出すというのも自分には無理そうだ。
 アルコールのせいで依の体の血のめぐりがよくなったらしく、ルーデルは、あついー、とか言って襟を開いている。肉付きのよい依の胸元がちらちら見えかくれして、また忠智の頭に血が上る。しまいには脱ぎ始めるルーデルを必死に止めながら…もちろんルーデルは酔っぱらっているわけではなく、またも忠智をからかって遊んでいるのだ…忠智は、心の底から早く結が帰ってきてくれることを祈った。しかし、結局結は戻ってきてはくれなかったのである。
 
 生き地獄か拷問のような時はのろのろと過ぎてゆき、ようやく時計の針が十二時を過ぎて、十二月二十六日になった。
 忠智は二日間一睡もできなかった。こんな奴を目の前にして無防備に寝たりしたら何をされるかわからない。そうでなくてもずっと頭に血が上りっぱなしで、眠くなどならなかったのだ。
 嫌いな聖夜をようやく乗り切ったというのに、ルーデルの顔は不満そうだった。ルーデルは忠智ににじり寄ると、きつい口調で尋ねてきた。
「どうして二日間も、ただにらめっこしてるだけだったのよ」
 よっぽど忠智を姦淫の罪に陥れることができなかったことが不満らしい。
 不機嫌なルーデルに向かって、忠智は静かに話し始めた。
 確かに、忠智は依が好きだ。それに木石というわけではないから、そういう欲望だってちゃんとある。だが、歯止めもなしにその欲望に任せて突っ走る気はさらさらなかった。
 依のことが好きだから、依に一方的な欲望をぶつけたりはしたくない。
 依のことが好きだから、依を自分の手で傷つけたりはしたくない。
 依のことが好きだから、依を大切にしたい。
 忠智は、そう思っていた。
 そんな忠智の気持ちを聞いて、ルーデルは頭を抱えた。今まで、いろんな人間を堕落させてきたが、たまにこういう奴がいた。きれい事を並べて、自分の中に確かにある欲望を抑える、悪魔のルーデルにとっては理解しがたい奴等が。
 もちろん、悪魔であるルーデルにとって人間の体を操ることなど造作もない。だが、それではダメなのだ。それは結局ルーデルの罪であり、人間は哀れな被害者でしかない。あくまでも人間の心を堕落させ、自ら罪を犯すようにしむけなければならない。
 しかしなぜか、そういうくだらないきれい事を並べる人間の心は強かった。付け入る隙を与えてくれなかった。堕落させることができなかった。
 この男もどうやら、そういう奴らしい。
 ルーデルはそう思って、深いため息をついた。
「ま、いいわ。あたしはこれで消えるから。あんたの思い通り、この娘大切にするなりなんなりしなさいな。もう会うこともないでしょう、じゃね」
 そう言うと、ルーデルは依の体から抜け出した。ルーデルの本当の姿…頭に角が生えていて、真っ黒な衣装を着ており、背には烏のような翼がある…を見て、忠智は初めてルーデルが悪魔だということを信じる気になった。
 よかった、俺は悪魔に魂を売らずに済んだんだ。
 ほっとしている忠智の頭の上から、あ、そうそう、とルーデルが話しかけてきた。
「あたしが入ってる間も、その娘の意識はちゃんとあったからね。あたしの意識より弱かったから体を動かせなかっただけで。だから、あんたが言ったこと、その娘もちゃんと聞いてたから」
 忠智は息をのんだ。依が好きだとか大切にしたいとか、ああいう恥ずかしいセリフを依は全部聞いてたっていうのか。
「あー、恥ずかしい。まあ、あたしの知ったことじゃないけどね」
 クスクス笑うルーデルは、やがて空気にとけ込むように消えていった。
 ふと気がつくと、隣で依が真っ赤な顔をしている。そんな依を見て、忠智は何と言ったらいいかわからなくなった。気まずいことこのうえない。
 照れ隠しのように、忠智は、もう何も見えなくなった虚空に向かって叫んだ。
「この…悪魔ーっ!」
 クスクスという笑い声と、そうよ、という悪戯っぽい声が聞こえたような気がした。
 
                           <おしまい>
 
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