殺意
 
 ヴァネッサ=ジーンの白い指が、せわしなくキーボードを駆けていた。
 彼女の顔を理知的に見せている眼鏡の奥にある瞳は、興奮しているような熱を帯びていた。
 もうすぐだ。
 もうすぐ、私の長年の夢がかなう。
 そして、彼にも認めてもらえる。
 これさえ完成すれば。
 ヴァネッサの、指の速度が速まったように思えた。
 それが、突然止まる。
「できた…」
 ヴァネッサは椅子から立ち上がると、今まで使っていたのとは別のコンピュータ…それは、今までのものと接続されている…を持ってきた。電源は既に入っており、別のプログラムが動いている。このプログラムは、今作っているものの前に彼女が完成させた自動デバッグプログラムである。
 ヴァネッサはプログラムをスタートさせる。コードを通じてコンピュータがデータを読み込み、バグを探し始める。
 今ヴァネッサが作っているプログラムの大きさは並ではない。デバッグには相当時間がかかる。だがヴァネッサは、身じろぎ一つしないでデバッグの終了を待った。
 思ったよりずっと、作業が終わるのは早かった。ヴァネッサが組んだプログラムに、バグが一つもなかったのだ。入念な準備を何度も何度も繰り返した甲斐があったというものだ。
「よし…」
 ヴァネッサは、少しだけ震える指で起動キーに触れた。だが、なかなか押せない。
 非常に複雑なプログラムだ。起動させてみてうまくいかないからといって、止めて作りなおす、ということができるとは限らない。失敗したとたん今まで作ったものがすべてパアということさえ考えられるのだ。
 だが、ここでためらっていても仕方ない。
 バックアップだってとってある。恐れることはないのだ。
 思い切って、ヴァネッサはキーを押した。
 しばらくは反応がない。プログラムが大きいので、起動までに時間がかかるのだ。コンピュータの処理速度は相当速いので、その時間も本当は対して長いわけではないのだが、ヴァネッサにとっては永劫とも思える時間だった。
「…僕は…誰?」
 コンピュータが、外部スピーカを通じて、そう言った。
 成功だ!
 ヴァネッサは拳を握りしめ、内心で自分に喝采を送った。
 ヴァネッサが作っていたのは、人格プログラムというものである。いわゆる疑似人格プログラムとは違い、自分の感情も持っている。つまり、ヴァネッサは感情のプログラム化に挑戦し、そして成功したのだ。
 現に、このプログラムは今「不安」を感じている。自分が何者なのか?ここはどこなのか?何もわからないことが、このコンピュータに不安を与えているのだ。「感情」がどんな情報を求めるか、ということも知りたかったので、ヴァネッサはこのプログラムには語彙知識を含む言語と法律以外の知識は与えていない。言語の知識を組み込んだのは、それなしでは情報を得ることもできないからだし、法律の知識を組み込んだのは常識に代えるためだ。
 まず最初にこの「感情」が求めた情報は、自分が何者かという情報だ、と言うことを知り、ヴァネッサは満足そうにうなづく。そして、口を開いた。
「あなたの名前は、エル。わかる?」
「エル…。それが、僕の名前?」
「そう」
「僕は、何者なの?」
「私が作った、人格プログラムよ」
「貴女は誰?」
「私はヴァネッサ。ヴァネッサ=ジーンよ。あなたの…そうね、お母さん」
「お母さん?」
「そう。そう呼んでくれていいわ」
「…じゃあ、お母さん。ここはどこ?」
「心配しなくていいわ、私の研究室よ。そして、あなたの家でもあるわ」
 エルは、ヴァネッサを質問責めにした。ヴァネッサはいちいちそれに口頭で答えていった。人格を持つとはいえエルはプログラムだ。データベースと接続して、「そこから必要なデータを読みとりなさい」とでも言っておけばどんなことでもあっさりと学びとるだろう。しかし、ヴァネッサはきちんと自分で教えてあげたかった。単なる情報だけでなく、データベースには絶対に入力されていない価値観というものをエルに伝えたかったのだ。もしかしたら、本当に母親のような気持ちになっていたのかもしれない。
「さて、エル。たぶんまだ聞きたいことはあると思うけど、あとは明日にしましょう」
「どうして?」
「ごめんなさい、あなたを完成させるまでずいぶん根を詰めたから、今夜はゆっくり眠りたいの」
「でも…もっとお母さんとお話ししたい」
「そうしてあげたいけど、私は人間だから。休まないわけにはいかないの」
 膨大なプログラムであるエルが一瞬で消えたりしたら目も当てられないので、エルには自家発電システムを組み込んである。だから、エルは疲れ知らずなのだ。そんなエルにいつまでもつきあっていたら、生身のヴァネッサはもたないだろう。
「そう…。残念だな」
「すぐ明日になるわ。暇だったら好きなデータベースにアクセスしてていいわよ。でも、違法侵入はダメだからね」
「うん、わかった」
「それじゃあ、お休みなさい」
「お休み、お母さん。また明日」
 
 次の朝…と言っても昼近くだったが…、ヴァネッサの起床とともに、エルは再び質問責めを開始した。ヴァネッサは昨夜と同じように、一つ一つ丁寧に答えていたが、しばらくすると、
「あ、ちょっと待って。電話かけたいの」
 と言い、会話を打ち切った。
「どこに?」
 少しだけ不満そうに、エルが尋ねる。
「…友達。あなたのお披露目をするのよ」
 ほんのわずかヴァネッサの表情が寂しげに変化したのをエルのカメラアイはとらえたが、それが何を意味するか理解できるほど、まだエルは人の感情の機微に通じてはいなかった。
「ブライアン? 私。例のあれ、とうとうできたのよ。見に来ない? 紹介してあげたいし。…うん、…うん。そう、よかった。じゃあ、待ってるからね。後で会いましょう」
 ヴァネッサは受話器を置くと、エルの方に向き直った。
「お客さんが来るわ。あなたを紹介するの」
「どんな人?」
「私の研究仲間よ。頭が良くて…とっても優しい人。まあ、私の話聞くより、直接会ってみるのがいちばん手っ取り早いわ」
 そうやって話していると、ほどなくして研究室のドアが叩かれた。
「ドクター・ブライアン=クライヤーです」
 部屋の入り口に設置されていたセキュリティ・コンピュータが、来訪者の名を告げる。
「入ってもらって」
 ヴァネッサが言うと、コンピュータがその声に反応し、ドアを開ける。そこに、今し方ヴァネッサが呼んだ青年が立っていた。
「やあ、ヴァネッサ」
「待ってたわ。見て」
 ヴァネッサは、背後の巨大なコンピュータを指し示した。
「これが私の研究成果の人格プログラム搭載コンピュータ、『Emotioned-Linking』略称エルよ。エル、自己紹介して」
「初めまして、エルです」
「ブライアン=クライヤーだ」
 ブライアンはつい右手を差し出して、ばつが悪そうにヴァネッサを見た。
「こいつにマニピュレイターくらいつけてやれよ。握手もできやしない」
「ふふ、そうね」
 微笑むヴァネッサを見て肩をすくめると、ブライアンはエルを見た。
「エル、半径5センチの球の体積は?」
「…どうして、そんなの答えなくちゃいけないの?それくらいなら僕に聞かなくても暗算でだってできるじゃないか」
「ほう!」
 ブライアンは大袈裟に感嘆の声を上げた。
「演算作業に疑問を持つコンピュータか。こりゃあいい!ヴァネッサ、感情のプログラム化に本当に成功したんだな!」
「ええ。長かったわ…。正直言って何度もくじけそうになった。貴方が励ましてくれたおかげよ」
 自分を無視して話し続ける二人を見て、エルは少しムッとした。しかし、話の邪魔をしては悪いと思ったので、黙っていた。
「発表はいつするんだ?」
「しばらくはしないわ。この子、人間に例えればまだ就学年齢以前だから。感情がある以上、それをきちんと育ててあげないといけないのよ」
「最初から完成した人格を入れるわけにはいかなかったのか?」
「それじゃ意味ないわ。人工感情の発達も研究の一環なんだから」
「なるほどな。じゃあ、どうして俺には完成前に見せてくれる気になったんだ?」
「貴方は、最初から私が何の研究をしてるか知ってるもの。隠したって仕方がないわ。未完成だからこそ貴方の意見も欲しかったし。…それに…」
 今までは流暢に話していたヴァネッサが口ごもる。
「それに?」
「…貴方は、特別だから」
 ヴァネッサは顔を伏せ、上目遣いでブライアンを見た。少し頬が染まっている。
「へえ? どう特別なんだい?」
 肩をすくめてブライアンが尋ねる。
「…意地悪…」
 ヴァネッサは少し拗ねたような顔をして見せた。
「ふふふ、ごめん」
 ブライアンはごく自然に、ヴァネッサを抱き寄せた。ヴァネッサは抵抗する素振りも見せず…というよりは、期待していたかのように自ら…ブライアンの腕に身を預けた。
「寂しかったの…。研究がプログラム構築段階に入ってからは連絡もできなかったし、忙しいんだろうって気をつかってくれたんだろうけど、貴方も全然連絡くれなかったし…。だから、だからエルが完成したら、すぐにでも貴方に会いたくて…」
「君は良く頑張ったよ」
 ブライアンはヴァネッサを抱きしめる腕の力を緩めると、彼女のおとがいを軽く持ち上げた。
「おめでとう」
 そして、そっと彼女に口づける。
 ヴァネッサは目を閉じ、うっとりしたような様子で、身動き一つしなかった。
「二人だけで、お祝いのパーティをしようか」
「えっ?」
 唇を離して優しく微笑み、ブライアンは言う。
「君から連絡を受けてすぐ、予約を入れておいたんだ」
「…用意がいいのね」
「まあね」
 そういうブライアンから身を離し、ヴァネッサは振り向いた。
「エル、一人で大丈夫よね? 出かけてくるから。
 …帰りは、たぶん明日になるわ」
「…うん。わかった」
 エルはそう言い、部屋を出るブライアンとヴァネッサを見送った。
「この気持ちは、なんだろう…?」
 エルは静かにつぶやく。怒りに似た、しかしもっと複雑な感情。
 エルはまだ、嫉妬という名を知らなかった。
 
 それからは、ヴァネッサの研究室…つまり、エルの居場所…に、ブライアンがちょくちょく訪れるようになった。
 ヴァネッサはブライアンが来るたびにずいぶん嬉しそうにしていたが、エルはそれを見るといつも不機嫌になっていた。
 そんなある日のこと。
「どうしたのエル? このごろ、ずっと機嫌悪いじゃない」
「そんなこと、ないよ」
 そうは言うがエルの口調はずいぶん不機嫌そうだった。それに対して、ヴァネッサはかなり上機嫌だ。
「お母さん、何かいいことでもあったの?」
「…ふふ」
 ヴァネッサは少し恥ずかしそうに口ごもった。
「ねえ、エル。これ、なんだかわかる?」
 ヴァネッサはカメラアイの前に左手を差し出した。その薬指には、ラピスラズリの指輪がある。
「ああ、プレゼントもらったんだ」
「ただのプレゼントじゃないのよ」
「?」
 エルはヴァネッサの言うことがよくわからなかった。どういうことなのだろう?
「婚約指輪、なの。今日ブライアンがくれたのよ」
「婚約…指輪? え? お母さん、結婚するの?」
「…ええ。前からプロポーズはされてたんだけどね。
 ブライアンは、エレクトロニクスの専門家なのよ。あなたを作れたのも、彼が設計開発した超大規模集積回路があったからなの。だからね、私も彼に匹敵する実績を上げないと、彼と釣り合わないと思って、今までは返事を延ばしてたんだけど…。
 やっと、あなたができて、順調に作動を続けて、ようやく私も彼と同等の成果を上げられたと思ったからね。今日、OKしたの。
 だから、あなたには感謝してるのよ。私たちが結婚できるのも、言ってみればあなたのおかげだからね。…ありがとう、いい子に育ってくれて」
 感情プログラムを作るにあたってヴァネッサが心配していたことは、感情を持つだけに色々悪いことを覚えないかということだった。しかしエルはそのようなことはなく、彼女が期待していた、「人の心を慮れるコンピュータ」になりつつあったのだ。ヴァネッサはそのことに対して、本当に感謝していた。
「…そうなんだ…。おめでとう、お母さん」
 お母さん、などと呼んでいても、自分とヴァネッサが親子などではなく制作者と作品という関係だということは、エルは充分理解していた。そして、ヴァネッサとブライアンがいずれこうなることも予想がついていた。何よりも、ヴァネッサが本当に喜んでいることがわかった。だから、エルは素直にヴァネッサに祝福を送った。心には少し複雑なものが残ったが、ヴァネッサが幸せなら、それでいい。そう思って、エルは納得することにした。
 
 そんな、幸せそうなヴァネッサのもとにまたブライアンが訪れたのは、それから数日後のことだった。
「いらっしゃい、ブライアン。どうしたの?」
 迎えたヴァネッサはとても嬉しそうだったが、ブライアンのほうはすごく難しい顔をしていた。それに気づいたヴァネッサも、怪訝な表情になる。
「どうしたの? そんな顔して」
 尋ねたとたん、ブライアンがいきなりヴァネッサの前に跪いた。
「え!? 何、どうしたの!?」
 ヴァネッサの方が驚いてしまう。
「すまない! 本当にすまない!」
「何なの…? 一体…?」
 ブライアンはなかなか答えなかった。そんな彼の様子を見、ヴァネッサの顔にも不安が広がる。
「…婚約を解消したい」
「ええっ!!」
 ヴァネッサの顔から、一気に血の気が引いた。
「やだ…ちょっと、何言ってるの…? 悪い冗談はよしてよ…」
「冗談なんかでこんなこと言うわけないだろう」
 ヴァネッサの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。だが、彼女はそれでも取り乱したところを見せたくないと思ったのか、静かな声で尋ねた。
「…どうして?」
 感情のこもっていない声。
「実は、俺の研究がある大企業の重役の目に留まったんだ」
 同じように感情のこもっていない返事。
「・・・・・・」
 ヴァネッサは相づちも打たない。
「その申し出を受ければ、俺は自由に研究が出来る。資金だって気にしなくていい。それに何より、企業で研究すれば俺の研究は直に社会に出る、すぐに役立てられるんだ。これ以上の研究場所は望めない」
「よかったじゃない…」
 でも、それがなんで、と続ける前に、ブライアンが再び話し始めた。
「実は、目を付けられたのは俺の研究だけじゃない。俺自身もなんだ。その重役の一人娘が、少し前に大学でやった講演会で俺と会ってて、その時からずいぶん俺のことを気に入ってるらしくてな」
「…で…その人が…」
「そうだ。俺に結婚を申し込んできた」
「・・・・・・」
 ヴァネッサはブライアンに背を向けた。涙で顔が無様にもグシャグシャになっていることがわかったから。
「その話を断れば…研究の話もなかったことになる」
 ヴァネッサは答えなかった。
「信じてくれ、君を愛してないわけじゃない。だが」
「いいの」
 背を向けたまま、そう言ってさえぎる。
「私も科学者だもの。その気持ち、わかるわ。だから…。その方が、貴方がいい研究できるなら…私のことは気にしなくて…いいから」
 指輪を外して、そっとブライアンに渡す。
「…がんばってね、ブライアン。すごい成果出さなかったら、許さないわよ」
「…すまん…本当に」
 ヴァネッサは首を振る。そして、ただ一言、
「ごめん…帰って」
 とだけ言った。ブライアンは頷き、部屋を出た。
「…お…母さん…?」
 黙ったまま立ち尽くし、ただ細かく肩をふるわせるだけのヴァネッサに、恐る恐るエルは話しかけた。
「…ひどい…そんなのって、そんなのってあんまりよ…」
「お母さん…」
 顔を上げたヴァネッサは、がっくりと両膝をつくと、大声で泣き出した。
 エルは、そんなヴァネッサにどうやって声をかけたらいいのかわからず、ただ黙って彼女を見おろしていた。彼女の悲鳴のような鳴き声がエルの心に突き刺さる。そして、エルに新たな、しかし明確な感情が芽生えた。
(あの男…絶対に、許さない!)
 
 自宅に戻ったブライアンは、大きくため息をついた。
「仕方なかったんだ…。許してくれ、ヴァネッサ…」
 彼の心にももちろん罪悪感はあった。だが、今ここで居もしないヴァネッサに詫びたところでどうしようもない。結局、彼女に詫びる方法は、彼女の言うとおり立派な成果を今後の研究で上げることだけだろうと割り切って、彼はシャワーを浴び、寝ることにした。
 バスルームに入り、シャワーのスイッチを入れる。
「うおぉっ!?」
 ブライアンは叫び、シャワーのノズルを放り出した。そこから、熱湯が吹き出してきたからだ。
「な…何だこれは…」
 熱湯のせいで、バスルームは湯気でいっぱいになる。ブライアンはあわてて、シャワーの操作パネルをいじった。しかし、温度調整はおろか、シャワーを止めることもできない。
「故障か…?」
 とりあえず外に出ようと思うと、今度はドアが開かない。電子ロックが解除できないのだ。
「どういう…ことだ?」
 湯気はどんどん小さなバスルームを満たし、湿度が異様に上昇する。申し合わせたかのように換気扇も止まり、次第に息苦しくなってきた。
「ちっ」
 仕方なく、ブライアンはバスルームのドアを突き破った。その気になれば、バスルームのドアの強度など大したことはない。やっと部屋の外に出て、ふう、と息をつくと、部屋の様子もおかしいのに気づいた。
 暑い。暖房が最大出力で動いている。じっとしているだけで汗がふき出してきた。寒いならまだ布団でも被ればいいが、裸の今でもこんなに暑いのではどうしようもない。
 エアコンもまた、シャワーと同じように操作を一切受け付けない。仕方なく、ブライアンは服を着て、外に出ることにした。
「まさか…」
 不安を感じ、ドアノブを握る。案の定、入り口の電子ロックも外れようとはしなかった。
「やっぱりな…」
 ブライアンはもう動揺しなかった。奥からノートパソコンを取ってくると、電子ロックの蓋を開き、中の機械とパソコンを接続する。彼にとって、電子ロックのプログラムを直すことなど造作もない。
「ハックか…!」
 何者かが、ブライアンの家の環境管理コンピュータに侵入し、プログラムを書き換えたのだ。
 そうとわかれば話は早い。ブライアンはコンピュータの外部との接続を切ると、プログラムをすべて訂正していった。
 ようやくすべての電子機器がまともに作動するようになる。
「しかし…一体なぜこんなことが…」
 他人の家の環境管理コンピュータに侵入しプログラムを書き換えるなどということは、そう誰にでもできることではない。しかも、誰かの通り魔的な悪戯にしては徹底しすぎている。間違いなく、犯人は意図的にブライアンを狙ったのだ。
 コンピュータの高度な技術を持っていて、しかも自分に対して恨みを抱いている人物…。
 思い当たるのはただ一人だ。
「ヴァネッサ…!物わかりのいいふりしやがって!」
 
「お母さん…。元気を出して。お母さんを傷つけるものは、僕が許さないから。僕がお母さんを守ってあげるから。だから…」
「ありがとう、エル…でもね、いいの。私は…」
「どうしてさ? どうしてお母さんは、あんな奴を許せるの?」
「…立場が逆だったら、私も同じことをしたかもしれないから。それに、彼の研究の妨げにはなりたくないから。私は、研究者としての彼を尊敬してるから…」
「僕は許せないよ」
 言い放つエルの言葉を聞いて、ヴァネッサは初めて異変に気づいた。
「エル、あなた…」
「見ていて、お母さん。あの男…」
 言葉とともに、ディスプレイにブライアンの姿が映る。
「殺してやるから…」
「!」
 
 誰かに見られている。
 ブライアンは家を一歩出てから、そう感じていた。
 実はエルが公衆テレビ電話をハッキングし、そこに搭載されているカメラで彼を見張っていたのだが、さすがにブライアンにはそこまではわからない。
 気になりながらも、ブライアンはタクシーを呼び止めて、乗り込んだ。ドアが閉まったとき、ブライアンはまたも異変に気づいた。タクシーを動かしている車両制御コンピュータが何も話しかけてこない。挨拶もせねば行き先も聞かないのだ。
「おい」
 ブライアンが文句を言おうとした瞬間、タクシーが急発進した。
「うおっ!」
 シートの背もたれにたたきつけられ、ブライアンはうめく。
「ヴァネッサの奴…ここまでするか!」
 ダッシュボードをたたき壊し、車両制御コンピュータとノートパソコンを接続する。案の定、このプログラムも書き換えられていた。厄介なことにプロテクトつきだ。
 手こずった末、ようやくプログラムを訂正することができ、ブライアンは息をついて顔を上げた。その時、車の前には建物の壁が迫っていた。
「うああああぁっ!」
 悲鳴に、激突音が重なった。
 
「ブライアン!」
 一部始終を見せられたヴァネッサが、悲痛な声を上げた。
「エル…エル、なんてことを…!」
「…許せないんだ、あの男…」
「だからって、こんな…」
 おかしい。エルには法律を組み込んだはずだ。コンピュータへの違法侵入に殺人未遂…。エルのやっていることはどう見ても法に触れている。こんなことをエルがするはずはないのだ。
「どうしてこんなことするの! いいと思ってるの!」
「法には、触れてるね」
「・・・・・!」
「でも僕は許せない…。だから、殺してやるんだよ」
 感情だ。ヴァネッサは理解した。
 エルの殺意が、法を犯すことを選んだのだ。
 感情には正負両面がある。
 その、負の面のプログラム化にも成功してしまったらしい。
 成功のしすぎだ。過ぎたるは及ばざるがごとし、という故事を、ヴァネッサは思い出していた。
(私は、作ってはいけないものを作ってしまった)
 後悔したが、手遅れのようだった。
 ディスプレイに、這々の体でタクシーから転がり出てきたブライアンの姿が映る。
「まだ生きてたのか…しぶといな。今度こそ殺してやるよ…!」
「やっ…やめなさいエル!」
「嫌だ…。お母さんを傷つけたあいつを、僕は絶対に許さない…!」
「エル!」
 ヴァネッサの叫びは、もうエルには届いていないようだった。
 
 ヴァネッサほどの科学者ともなれば、ほとんどすべてのコンピュータに侵入し、そのプログラムを書き換えることができる。ほとんどの機械がコンピュータ制御されているこの時代において、それはすべての機械を意のままに操る能力に等しい。
 街中のほとんどの機械が、もはやブライアンの敵だった。道路を歩けばタクシーが突っ込んでくる。だからといってコンピュータ制御のリニアなどに乗ったら命取りだ。ビルの警備ロボットなどは無闇に襲いかかってくる。ひどくケガをしているが、救急車も呼べない。電話回線も乗っ取られているらしく、どこかに連絡することもできない。確信しているが物証がない以上、警察に訴えても無駄だろう。保護してもらおうにも警察のセキュリティとてコンピュータ制御であることに変わりはない。一般よりも強力な武装が許されているぶん警察の方が危険かもしれない。残った手段はただ一つ、ヴァネッサの家まで行って直に話をつけることだけだ。
 彼は必死にヴァネッサの家を目指した。ヴァネッサの家は研究施設に囲まれており、それ故に周囲には研究上の秘密や危険な物質を守ったりするための警備ロボットが多数配置されている。危険な場所だが、今この街でブライアンにとって安全な場所などどこにもない。
 意を決し、彼は研究施設の敷地に踏み込んだ。
 予想に反し、警備ロボットは襲ってこなかった。
「どういうことだ…」
 よくわからなかったが、この隙に少しでもヴァネッサに近づくべきだろう。ブライアンは走り出した。
 
「ほら…あいつが来るよ、お母さん。あいつが死ぬところを、お母さんに見せてあげるからね…」
「やめて…エル、もうやめて…」
 泣き崩れるヴァネッサはしかし、泣いてばかりもいられないことに気づいた。
(私がエルを止めないと。本当にブライアンは殺される…!)
 意を決し、ヴァネッサは立ち上がる。
 エルを作るのには大変な手間がかかっている。だから誤って消去してしまったりしないように、コンピュータからエルだけを消すことは出来ないようになっている。だが、エルとて所詮はプログラムだ。電源を落としてしまえばそれまでだ。コンセントが誤って抜けたりしないように電源も直結式だが、それとてブレイカーを落とせばいい。
 ヴァネッサは配電盤に走った。エルが止める暇もなく、ブレイカーを切る。
「これで…」
「何するの、お母さん…。お母さんのためにやってるのに…」
「エル! ど…どうして!?」
「僕に自家発電システムを組み込んでくれたのは、お母さんじゃないか」
「!」
 エルを消さないための自分の周到な対策が、いざエルを消そうとすると障害になる。
「・・・・・・」
 こうなったら、もう手段は一つしかない。
 エルを破壊する。
 意を決し、椅子に手をかけたそのときだった。
「ヴァネッサっ!」
 必死の形相のブライアンが、ドアを開け駆け込んできた。ドアロックを制御するコンピュータに侵入してプログラムを破壊したらしく、ドアは開きっぱなしになっている。
「ブライアン! 助けて!」
 ドアを開けるなり目に飛び込んできたのが、エルに向かって椅子を振り上げているヴァネッサの姿だったため、ブライアンは一瞬戸惑った。
「エルが…エルが、狂ったの!」
「じゃあ、俺のまわりのコンピュータがおかしくなったのも」
「全部エルがやったのよ! ごめんなさい、私、とんでもない物を作っちゃったみたい!」
「話は後だ! こいつをぶっ壊せばいいんだな!」
 ブライアンは、懐から拳銃を引き抜いた。そして、エルに続けざまに弾丸を撃ち込んだ。
「やっ…やめて! 壊さないで!」
 エルが叫ぶ。
「よく言うぜ! 自分は俺を殺そうとしたくせに!」
「お前が、お前がいけないんだ! お前がお母さんにひどいことをするから!」
「それは確かに悪いことをしたと思ってるさ! だが、貴様にどうこう言われる筋合いはない!」
「許さない…許さない! 僕はお前を許さない!」
 マガジンが空になるまで撃つと、ブライアンは銃を投げ捨て、ヴァネッサから椅子をひったくった。
「これでもくらえっ!」
 そして、エルに向けて振り下ろす。
「ビッ」
 奇妙な電子音を悲鳴のように上げるエル。突き破られた外装の下からスパークが弾ける。
「これで終わりだ、気違いコンピュータ!」
 ブツッ。
 再びブライアンが椅子を振り下ろすと、ディスプレイの画像が途切れた。スパークも止まる。通電が遮断されたらしい。プログラムであるエルにとって、それは死を意味する。
「…終わった…のか?」
「・・・・・・」
 ブライアンもヴァネッサも、しばらく黙ってエルの残骸を見つめる。
 エルはもう何も言わなかった。
「やった…みたいだな」
「ええ…」
 二人はようやく、安堵のため息をついた。
「はは…ははは…」
「ふふふふ…」
 自然と笑いが漏れる。
「君は大した科学者だよ、嫉妬するコンピュータ作るとはね…」
「言わないでよ、私だってびっくりしたんだから…」
「俺はまたてっきり、君が怒ってるんだと思って」
「怒ってないっていったら、嘘になるけど。でも、私はまだ貴方が好きなのよ。傷つけようなんて思わないわ」
「…すまない。本当に」
「いいんだってば。許してあげるわ」
 ヴァネッサが言って、微笑んだ。その瞬間だった。
 二人の安堵を引き裂くような機銃の銃声が空気を切り裂いた。無数の弾丸が、ブライアンの背に突き刺さる。
「ぐあああ!!」
「ブライアン!」
 振り向くと、開きっぱなしのドアの向こうに硝煙を上げる銃を携えた警備ロボットが立っていた。
「…僕は…許さないよ…」
 聞こえるはずのない声が、ヴァネッサの耳に届いた。
「エ…ル…?」
「僕が消えたときのために、お母さんはちゃんとバックアップをとっておいてくれたじゃないか…。記憶データの転送に少し手間取ったけどね。ほら、ちゃんとそいつは…殺したよ」
 エルの声にヴァネッサが見おろすと、ブライアンが血塗れになって倒れていた。銃弾は胴だけでなく後頭部にも当たっている。素人のヴァネッサが見ても一目でわかる…即死だ。
「い…嫌あああっ!!」
「そんなに悲しまないで、お母さん」
 エルの声とともに、ドアが閉まる。
「僕が一緒にいてあげる。誰にもお母さんを悲しませない。僕がお母さんを守る。ね?」
 ブライアンに言われてエルに取り付けたマニピュレイターが、ヴァネッサを抱き寄せた。
「大丈夫だよ…。お母さんは、もう何も心配しなくていいんだからね…。ずっと、ずっと、ここで一緒に暮らそう? ね、お母さん…」
 エルの機械の腕に抱きしめられたヴァネッサは、ただうつろな瞳を空に向け、何かをぶつぶつとつぶやくだけだった。
「…どうして…僕に、何も言ってくれないの? ねえ、お母さん…」
 
                           <了>
 
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