桜花
 
 穏やかな日の光は風を暖め、その風が凍っていた水をとかす。
 一冬の間しっかりと、積もった雪を支えていた根雪も、その役目を終え、あらわになった大地にしみこんでゆく。
 雪深い里にも春が来た。
(いま少し)
 娘は、ゆるみかけた梅のつぼみを見上げて、きたるべき季節への期待に胸をふくらませていた。
(いま少しで…わたくしの季節です)
 娘のまとっている装束は、くちばと紫の地味な襲(かさ)ね。
 そのかんばせにも化粧気はなく、まるで目立たぬ装いであった。
 しかし、娘には、なにか特別な雰囲気があった。
 何か、素晴らしいものをを内に秘めているような。
 例えるならば、今に美しい花をつけるであろう、裸の木。
 娘の持つ雰囲気は、それに似ていた。
 そんな娘は、既につぼみをつけている梅を見上げて、瞳を輝かせる。
 しかし、その瞳の輝きに、ふと陰がよぎる。
(…わたくしも、すぐに、このように…)
 娘が見上げている梅は、まだ満開にはほど遠いが、それでも春の訪れを象徴する美しさをはらんでいた。
(いいえ、これ以上に美しく…)
 娘は目を伏せる。
(そう、毎年春になると、みんなみんな、わたくしを美しいと言ってくれる。
 けれど…本当に、わたくしは美しいの?
 美しいのだとしたら…誰のために?)
 娘は、もはや梅のつぼみを一顧だにせず、きびすをかえした。
 吹いてくる春風の中、娘はただひとりで歩みを進めていく。
 娘が歩みを止めたその場には、まだつぼみの姿も見えない、桜の木があった。
 娘はその木に手を当て、目を閉じた。
 つぼみこそつけていないものの、大きく、堂々たる桜の木に、すがりつくような格好になる。
「お会いしとうございます…。
 わたくしに、美しくありたいと思わせるような方に。
 その美しさを、捧げたいと思わせるような方に」
 そして、誰にともなく、そう、つぶやいた。
 
「…梅の、つぼみか…」
 一人の若者が、娘と同じように梅を見上げてつぶやいた。
「美しいな…」
 すっ、と目を細め、若者は微笑む。が、その表情が突如苦しげに歪む。
「うっ…ぐっ!げふっ、げふっ!」
 口に当てられた手の、指の間からつっ、と鮮血が流れ落ちた。
 若者はその場にうずくまる。
「はあ…はあ、はあ…」
 顔を上げると、若者の視界に、まだ裸同然の桜の木が入ってきた。
「私も長くはないか…。だがしかし…せめて、あの桜が咲くまでは…生き長らえたいものだ…」
 
 若者は、ある戦がきっかけでこの村に落ち延びてきた武士の息子で、名は篁といった。
 父は戦の古傷がもとで他界し、母も労咳を患って先年帰らぬ人となった。
 そしてまた、彼自身の体も、母ゆずりのその病に冒されていたのであった。
 近頃ではせき込んだ途端に鮮血を吐くこともめずらしくはなくなっている。
(長くはなかろう)
 わざわざつぶやいてみるまでもなく、彼は前々からそう思ってはいた。
 しかし、ずっと昔から、そう、物心ついた頃から、若者はこの村の桜が大好きだった。
 いつまでも生き続けて、毎年春には咲き誇る桜を見続けたい。
 そうは思ったが、それは、この若者にとっては他の者以上に叶わぬことだ。
 だから。
 せめて、自分が死ぬ年の、その春の桜だけは見てから逝きたい。
 それだけが、今や篁の、唯一の望みだった。
 
 わずかな時が流れ、梅の盛りも過ぎ、桜のつぼみがふくらみ始める。
 幸いにして篁の病状は悪化もせず、せめて桜を見てからという彼の望みはどうやら叶えられそうであった。
 もはや彼の他にはだれもいない彼の家は、少し皆と離れた、丘のような所にぽつんと建っていて、村の様子を見はるかすことができる。
 一人、陽の当たる縁側に座し、彼は村とそのあちこちにある桜を眺めていた。
 村全体が、梅の、少し強めの赤から、桜の、やわらかな桃色になり、春の雰囲気がより強くなって、村全体が華やいだ雰囲気になっている。
 たまには村に行ってみようか、と思い立ち、篁は立ち上がった。
 
「あ…篁さん」
 村娘の一人が目敏く彼を見つける。
 春の雰囲気のせいか、彼女たちも普段にもまして綺麗に見える。
 おそらく、彼女たちも篁をそのように見ているのだろう。
 篁自身は自分の容姿を、病人の不健康なそれだとしか思っていないが、村娘たちはどうやら、病のせいで肉の落ちた彼の姿を、繊細な魅力としてとらえているらしかった。篁自身はあまり自覚していなかったが、彼は村娘の間ではかなり人気がある。
「もうすぐ…桜が咲きますね」
 最初に篁を見つけた村娘が、なにか話したくてそう言ってきた。彼女自身の頬が、まるで桜が咲いたように染まっている。
「そうですね。今年もどうやら桜を見ることができそうです」
 篁は優しく微笑んで答えた。
「大丈夫ですよ!きっとよくなられます」
 篁の周りにあっと言う間に出来上がった村娘の壁の中から、一人の娘がそう言って励ましの声をかけた。
 労咳…つまり肺結核…は、この当時は不治の病である。しかし、この村にそれほどの病の知識があるわけでなく、村娘達は希望の見方も混じり、篁の病はそのうち治るものだと信じて疑わなかった。伝染病である労咳をわずらっている篁にためらいもなく近づくのもそのせいだろう。
 だが、篁自身は、母の例もあり、この病が遅かれ早かれ自分の命を奪うであろうことがわかっていた。
 篁は今年で二十六になる。この時代ではとっくに結婚していてしかるべきであり、さらにこのように多くの村娘の憧憬の的になっているにもかかわらず、未だに独り者のままであるのも、自分の妻になった女性をすぐさま未亡人にしてしまうことがわかっていたからだ。
 自分は一人で死んでいく。
 篁は、そう覚悟を決めていた。
 桜の花が開いた日までは。
 
 その日も篁は、一人縁側で村の桜を眺めていた。
 村全体がもう大分桜色に色づいている。…今、桜は八分咲きくらいであろうか。
「よい季節になった」
 穏やかな気分で桜を眺めていた篁は、咲きほこらんとしている桜を間近で見たくなった。
 そして篁が向かったのは、この村でもっとも古く、大きな桜のもとであった。その威厳に相応しく、素晴らしい花を咲かせる。
 その花は、あとわずかで満開を迎えようとしていた。
 その様子を、篁は目を細めて静かに見守る。
「ぬっぐ…!」
 その時、しばらくの間忘れていた苦しみが篁を襲った。
「がふっ! がはあ!」
 まるで今までのぶんがたまっていたかのように、そのときの発作はひどかった。暖かになってきた春の空気の中に、篁の鮮血が飛び散る。
(あとわずか…あとわずかで…満開の桜が見られるというのに…)
 がくっ、と篁は膝をついた。
(無念…)
 そのまま地に倒れ伏そうとした刹那。
 誰かの手が、篁の体を支えた。
「いかがなされました? 大丈夫ですか?」
 暖かな、やわらかな娘の声。
「あ…あなたは…」
 ぼやける視界が、また徐々に正確な像を結び始める。
「どこが苦しいのですか?」
「…く…はあ…はあ…。面目ない…。だが、もう大丈夫…。無様な姿をお見せいたしました…」
「そのようなことはお気になさらずに」
 発作の苦しみがなんとか静まり、篁にはようやくその娘をしっかりと見る余裕ができた。
「あ…」
 篁は一瞬、自分は本当は死んでしまったのではなかろうかと思った。
 なぜなら、自分を介抱してくれているその娘が、天女か菩薩か何かかと思うほど美しかったから。
 自慢するわけではないが、篁は、村娘であればこのくらいの年頃の娘は大抵知っている。
 しかし、その娘は今まで見たこともないような人であった。
(…美しい…)
 篁は本気でそう思った。
「…お世話になりました」
 何か話したい。そう思った篁の口から出た言葉は、しかしなんの機転も効いてはいないありきたりのものであった。
「私は周防篁と申します。よろしければお名前をお聞かせ願えませんか」
「・・・・・・」
 篁が立ち上がり、娘の目を見つめて尋ねた。篁に見つめられた娘は、桜色の頬をさらに赤らめ、うつむいた。
(不躾であったろうか…)
 篁がそう思って戸惑っていると、娘が小さな声で答えた。
「さくら…と、申します」
 さくら。
 それは、春の初めの頃、ゆるみかけた梅のつぼみを見上げていたあの娘であった。
 今はあのときよりもずっと華やかな装いをしているが、派手さは感じられない。
(ああ…そうだったのですね)
 さくらは、気恥ずかしさに顔を背けたまま、横目で篁の顔を見つつ、思った。
(わたくしは…このような方にお会いするために、美しいと言われ続けてきたのですね…)
 二人の視線が絡む。
 二人とも、微動だにできなかった。
 下世話な言い方をすれば、一目惚れ、というやつである。
 時の流れが妙に遅くなったような気がした。いっそこのまま止まってしまえばいいのに、とさえ思った。いつまでも、このままでいたかった。
 だが、そういうわけにもいかない。とはいえ、ただこのままで別れるのも嫌だった。
「何か…私に出来ることで、今日の御礼をしたいのですが…」
 篁がおずおずと申し出る。
「御礼だなんて、そんな…」
 さくらはためらった。が、このまま別れたくないのはさくらも同じだった。
「また…会っていただけませんか?私が望むのは、ただ、それだけです…」
「…喜んで」
 
 それから毎日、ふたりはその桜の下で会った。
 死を間近に控えた自分は、人を好きになどなるまい。そう思っていた篁だが、さくらを想う気持ちはどうしようもなかった。あらゆる理屈がどうでもよくなるほど、ただたださくらが愛しかった。
 死にたくない。そう思った。この世に、強い強い未練が出来た。
 しかし、あの日の発作から、徐々に体は悪くなっている。
 死にたく、ない。
 そんなことを思いながら日々をすごすうち、桜も満開になった。
 
 満開になった桜の木の下で、篁はさくらといつものように会っていた。
「見事に、咲き誇りましたね」
「ええ…」
「何とも美しいものですね。
 …一体、誰のためにこれほどまでに見事に咲き誇っているのでしょう…?」
 篁のその言葉に、さくらは一瞬絶句した。
 そして、頬を染めて言った。
「あなたの…ためです」
「え?」
「桜は、あなたのために花を咲かせているのです。
 あなたのためなら、どんな桜でも喜んで精一杯の花を咲かせるでしょう」
「・・・・・・」
「もしもあなたが望むなら、この桜はあなたのものになります」
「どういう…ことですか?」
 篁の問いに答えた桜の言葉は、まるで要領を得ていないものであった。ただ、その言葉が心の底から発せられているものであるということが、篁の心に直に伝わってきた。
「わたくしはあなたのものになります。どうぞ、あなたはわたくしのものになってくださいませ。
 …いつまでも、わたくしと一緒にいてください」
「できれば、私もそうしたい」
 篁は、悲しげにうつむいた。
「だが、私はおそらくもう、そう長くは生きられますまい」
「…もしも、あなたが望むなら」
 さくらは再び、同じようなことをつぶやいた。
「あなたとわたくしは、いつまでも、いつまでも、一緒に過ごせます…」
 さくらの表情が、一瞬翳る。
「ですが、それはあなたにとって、死んでしまうということになるのかもしれません」
 謎めいた言葉。しかし、もはや篁にとって、死は恐怖の対象ではなかった。
(この人と一緒にいられるのなら、死ぬことなど何であろう)
 篁は本気でそう思った。
「かまいません。いずれにせよ私はもうすぐはかなくなるでしょう」
「わたくしなどで…後悔は、なさらないのですか?」
「…ええ」
 さくらは再び絶句した。そして、次に口を開くと同時に、その瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「嬉しゅうございます、篁さま…」
 声もあげずにしばらく嬉し泣くと、潤んだままの瞳で、さくらは篁を見上げた。
「目を、お閉じ下さいませ」
 篁は、言われたとおりにした。
「わたくしの中に…いらしてください」
 そう言うさくらの声が聞こえたかと思うと、何か柔らかくて温かいものが篁の唇に押しつけられた。口づけをされたのだ、と気付いた瞬間、篁の意識は遠のいていった。
 
「やはり…姿形だけでなく…魂までも、美しいお方…」
 さくらの手の間に、美しい光を放つものが浮いていた。
「お約束通り、わたくしの中にいらしてください。
 いつまでも…いつまでも、一緒に過ごしましょう…」
 さくらと、その光るものは、近くの桜の木の中に、すうっ、と吸い込まれるように消えた。
 
 翌朝。
 村娘の一人が、村で一番大きな桜の木の近くを偶然通りかかると、その根元に横たわっている篁の姿が目にとまった。
「篁さん?こんなところでどうしたんですか…」
 微笑んで、村娘は篁に近づいた。
 彼は、眠っているようにしか見えなかったから。
「篁さん?」
 しかし、いくら呼んでもいらえはない。
「篁さん!」
 ようやく、村娘は異常に気付いた。
 篁は、二度と目覚めなかったのである。
 幸せそうな微笑みを浮かべたまま。
 
 そんな篁のことを知った村の人は、口々に、
「きっと、彼は桜の精に魅入られたのであろう」
 と言ったという。
 
<おわり>
 
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