椛縁
 
 秋も深まったある日曜日の昼下がり。
「そろそろかな」
 特に身だしなみを整えるでもなく、立川光延は家を出た。
 光延は、これから実は女性に会いに行くところなのである。
 その割にはまったく服装にも何も気を使っていない。というのも、その女性というのは幼い頃からの友人である山村美鶴だから。
 光延も美鶴も十七歳。鬼も十八…というにはいささか早いが、それでも美鶴が年齢的にいい時期であることには違いない。
 美鶴は意外と、学校の男子どもの間では人気が高い。
 すらっと背が高く、出るところは出て引っ込むところは引っ込んで、スタイルもいい。
 つやつやとした黒髪は背の中程まであり、ヘアケアも行き届いている。後ろ姿だけでも人を引きつけられるだろう。
 で、顔の方も悪くない。色は白く、つぶらな瞳は深く澄んでいる。唇は薄くて小さい。顔全体が小さくて、可愛らしい印象を受ける。
 そんな姿の中身はというと…、
 …それは、言わぬが花というものだろう。
 さて、そんな美鶴ではあるが、正直言って光延は彼女を女として意識していなかった。
 当たり前といえば当たり前だ。小さい頃、一緒に魚を捕りに言って川に転落したり、ケンカして泣かされた思い出がある彼女を、育ったからといってそうおいそれと女として見られるわけがない。
 もっとも、同じようなことは逆に美鶴から光延を見たときにも言えるのだが。
 今日はその美鶴に、光延の方が呼び出されたのだ。いわく、
「ねぇねぇみっちゃん、今度の日曜の午後、お買いものつきあって。何かおごるからさ、荷物持ちやってよ。ね©
 ということである。
 美鶴が、語尾に「©」をつけてお願いをしてくるときにはロクなことがない。わかってはいるのだが、長い間の腐れ縁とのせいだろうか、つい、
「あ…ん。別にいいよ。ヒマだし」
 と、答えてしまった。
(我ながらお人好しなことだ)
 そう思った。それだけだった。
 何か、腐れ縁以外に自分を動かしている感情が、無意識の中にあることなど、光延はまったく気づかなかった。
 
 待ち合わせのコンビニに着いたが、美鶴の姿はない。まあ仕方がないだろう、光延が早く来すぎているのだ。約束の時間を決めたら、光延は早めに来るが、美鶴はぴったりに来る。だから、いつも光延は少しだけ待つことになるのだ。
 仕方がないので週刊誌でも立ち読みして時間をつぶすことにした。
 すぐに、肩がたたかれる。
「や、みっちゃん。えっちな本読んでるの?」
 振り向くと、にこやかな美鶴の顔がそこにあった。
「止せよ、えっち本なんかじゃない」
 週刊誌を元の棚に戻しながら、光延は顔をしかめる。そんな光延を見て、美鶴はなんだかますます上機嫌になったように、少し声を落として応えた。
「いいじゃないの今更照れなくたって。この間遊びに行ったときえっち本隠し忘れて床にそのまま転がしといたくせに。ああゆうのは十八になるまで買っちゃだめなんだよ」
 忘れかけていたことを指摘され、光延は一瞬言葉に詰まる。心なしか、周囲の視線が自分に向いているような気さえした。
「でっかいお世話だ」
 照れ隠しのためにそう言うと、美鶴の額を軽く小突く。美鶴は笑いながら「あう」とか言ってのけぞると、すぐにそんなことを気にした様子もなく続けた。
「ま、そんなことどうでもいいや。行こう」
「はいはい」
 
 光延はいきなり後悔していた。
 わかっていた。わかっていたはずなのに…。
 美鶴の買い物の長いこと長いこと。しかも、その荷物の重いこと重いこと。
「み…美鶴。よくお前、金が続くな…」
「ふっふーん。バイトのお金が入ったばっかりなんだよー。だから後でちゃんと何かおごってあげるからねー」
「ああ…期待してるよ…」
 大量の荷物を抱えてふらふらしつつ、光延は言った。
 
「で…結局これかい」
 帰りに公園でひと休みしながら、約束通り美鶴におごってもらったアイスをなめつつ、光延は不平をもらした。
「まあまあ、いいじゃないの。金額より気持ちってことよ」
「お前が言うなよ」
 はあ、とため息をつく。
(俺、何でこんなやつと友達やってるのかなあ)
 そう思ったそのとき、ふと、美鶴の様子がおかしいのに気づいた。
 美鶴は、色づいた椛を見上げ、うっとりしたような顔をしている。
 そんな美鶴の表情を、今まで光延は見たこともなかった。
 かすかな風が吹いて、美鶴の長い髪を揺らす。
 その白い肌と黒い髪のコントラストが、なんだかとてもきれいに見えた。
 胸の中心をいきなり握りしめられたような感覚。
 どうして、ずっとずっと長い間見慣れているはずの美鶴を見て、こんな感情を抱くのだろう。
 こんな、何と言ったらいいのかわからないような感情を。
「ねえ…みっちゃん。あたしね…椛って、大好きなんだ」
 そんな心の葛藤を知ってか知らずか、美鶴は穏やかな微笑みを浮かべたまま、光延を振り向いた。
「そういえばそうだったな。ちっちゃい頃から、お前よく俺を椛見に連れ出したもんな」
「覚えてる? 昔あたしが椛見て言ったこと」
「ん…何か言ったっけ?」
「…忘れちゃったんだ」
 光延の座っていたベンチに自分も座って、美鶴はうつむいた。
 がっかりしているようにも見える。
 そんな美鶴の表情を見て、なぜか胸が痛んだ。
 何か、すごく大事なことを、俺は忘れてる。
 そう思ってあれこれ考えてみたが、どうしても思い出せなかった。
 悩んでいる様子の光延を見て、美鶴はにっこり笑う。
「忘れててもしょうがないよ。あたしだってついこのあいだ、今年の椛を初めて見たときにふっと思い出したばっかりだもの」
「?」
「まだ、あたしたちがこんな小さかったころ」
 美鶴は手のひらを膝の少し上まで下げて言った。
「あたしが、『もみじってだいすき。きれいなんだもん。あたし、もみじのおよめさんになるんだ』みたいなこと言ったんだよ」
「・・・・・・」
「そしたら、みっちゃんが『ばかだなあ、そんなのなれるわけないじゃないか』って」
「あ…」
 朧気ながら、思い出してきた。
「だから、あたし言ったんだ。『じゃあ、いっしょにもみじみてくれるみっちゃんがいいな』」
「・・・・・・」
 思い出した。だが、その内容のせいで、何も言えなくなってしまった。
「忘れちゃってたんだね。しかたないよね、小さいころのことだもんね」
「…ごめん」
「いいよ。みっちゃん、一生懸命思いだそうとしてくれたんだもの」
 それっきり、美鶴は口を閉ざした。光延も、何と言ったらいいかわからなくて、黙っていた。
 沈黙が二人を包む。
 陽が傾き、空が真っ赤に染まる。
 美鶴の頬が赤らんで見えるのは夕焼けのせいだろうか。
 ちがう。
 光延はそう確信できた。
 なぜなら、光延には自分の顔が赤くなっているのがわかっていたから。
 そして、美鶴も自分と同じような気持ちだと思ったから。
「なあ…美鶴」
「なに?」
 言わないと。
 今まで、何だって言い合えた仲じゃないか。
 こんなちょっとしたこと、簡単に言えるはず。
 そう思ったけれど、光延は何も言えなかった。
 美鶴は、急かすでもなく怒るでもなく、少し首を傾げて、小さく微笑みながら光延の次の言葉を待っている。
「…だめだ」
 光延はうつむいて、うなるように言う。
「みっちゃん?」
「だめだ…言えない」
「…みっちゃん…」
「美鶴。俺が、何を言いたいか当ててみてくれ」
 俺はずるい。光延は心底、そう思った。もしかしたら、美鶴は怒るかもしれない。不安になって見上げてみると、
「・・・・・・」
 美鶴は再び黙りこくっていた。
 わからないのではない。
 わかるのだ。自分のことのように。
 自分も、同じ気持ちだったから。
 だけど、やっぱり同じように、光延にそれを言うことはできなかった。
「たぶん…あたしと同じようなこと、言いたいんだと思う…」
「…そうか」
 光延はうなづくと、立ち上がった。
「帰ろうか」
「うん」
 ここへ来るまでよりも、少しだけ自分の近くを歩いている美鶴を見て、光延はなんとなく、自分がどうして、美鶴と一緒にいるのかが、何となくわかったような気がした。
 そして、今日美鶴に言えなかったことも、いつかきっと言える日が来ると、それに、美鶴が言えなかったことを、いつかきっと言ってもらえる日が来ると、そう思った。
 
                           <おしまい>
 
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