仁術
 
 景色がゆれていた。
 右肩が、まるで太陽を埋め込まれたように熱かった。
 足がもつれる。
「はあ…はあ…」
 息ももうあがってきている。
「畜生…俺様もとうとう年貢の納め時か…。ロクな死に方しねえたあ思ってたが…こりゃあだいぶひでえなあ…」
 人気のない山中。追手を逃れて走り続けたら、いつのまにかこんなところにいた。
 こんなところで死ねば、あとで山犬どもを喜ばせるだけだろう。
 死にたくはなかったが、自分の余力と、右肩の刀傷の深さから考えて、ここよりましなところで死ぬというだけのささやかな望みもかなえられそうにはない。
「因果応報、ってか…」
 ついに男は力つきて、その場に倒れた。
 
「ん…ぐっ…」
 薄暗い所だった。
 近くでさらさらと水の流れる音がした。
「なんでえ…これが話に聞く三途の川ってやつか」
 男は身を起こそうとした。そのとたんに右肩に激痛が走る。
「んぐう!…ちっ、気前の悪ぃこったな、死んだんだったら傷ぐれえ治してくれたっていいじゃねえか…」
「おや、気づいたか」
 その男に声をかけた者がいた。
「よかったなあ私が通りかかって。もう少しで山犬の餌になっている所だったぞ」
 男は視線を巡らせて、声の主を見た。
 それは、かなりの美貌の持ち主だった。自分がも
し女だったら放っておかないだろう…もちろん、現世の身体があれば、の話だが。
「よお、お前さんも死んじまったのかい。意外とあの世ってのも娑婆とかわりばえしねえもんだなあ」
「なにを言っているのだ?」
 そいつはきょとんとした表情で男を見た。
「ははあ。自分が助かったことがわかってないな」
「何? 助かったって?」
「ああ。言っただろう、私が通りかってよかったと。これでも私は医術の心得があってな、薬草を取りに山へ入っていたら、そなたを見つけたというわけだ。おかげでいままでに採った薬草を使い果たしてしまった」
「ほおー、そうかい。そりゃまたありがとよ」
「礼には及ばん。傷つき倒れた者を放っておけるか。そうだ、まだ名を聞いていなかったな。私は結城という者だ」
「俺ゃあ一馬ってんだ」
 そいつと男は互いに自己紹介しあう。
「そうか、それでは一馬。私の家にくるといい。本当は動かさぬ方がよいのだが、この河原にそなたを放っておくわけにもいくまい」
 河原…そうか、さっき三途の川と間違えたのは本当に川があったせいか、と、一馬は思った。確かにこんなところに置いて行かれたのではたまったものではない。だが、この結城とかいう奴が何を考えているのか、まだよくわからない。
「いいのかよ?」
「遠慮はいらん、これも何かの縁だ。それに私の家なら治療の器具ももっとそろっている、そなたにとっても好都合だろう」
 結城はそう言うと、微笑んで手を差し出した。
 一馬は今までにいろいろな人間を見てきた。その経験によると、この結城というのは典型的なお人好しのようだ。
「んじゃあ、お言葉に甘えるとすっか」
 一馬は、結城の背負子にくくりつけられて、結城の家に向かった。
 
「血の跡が途絶えている…」
 一人の侍が、そのしばらく後、その河原にあらわれた。
「血を止めたか…。にしては、薬草などがあるでなし…。川に入ったか? いや、あの傷で水に入るは自殺行為か」
 抜き身のままだった刀を鞘に納め、侍はあたりを見回す。
「逃さぬ…! かならずやしとめてみせる!」
 侍は吐き捨てるようにそう言うと、再び下生えに分け入った。
 
「しばし横になっていろ。とりあえず傷がふさがるまではな」
 結城はそう言うと、数ある床の一つに一馬を寝かせた。
「診療所か、ここは?」
「ま、そんなところだ。私は診療所など開くつもりはなかったのだがな、以前お前さんのようなのを一人助けたらそれが口伝てで広まって、今ではこの通りだ。ま、この山には薬草が多いんで、元手もかからんのだがな」
「ははあん」
 一馬は聞くともなしに結城の言葉を聞いていた。
 結城は薬草採取の装束を解くと、一馬のもとに座った。
「さて、もう一度傷を診ておこうか。無理に動かしてしまったからな」
 手際よく一馬の装束を解き、あて布を外してゆく。
「ふむ…。だいぶよいようだな。しかし、何があったのだ? 私も刀傷などは久方ぶりだぞ。それにこの治りから察するに、やったのはかなりの手だれであろう?」
「・・・・・・」
 一馬は黙り込む。結城は肩をすくめて苦笑した。
「すまない、立ち入った事を聞いた。何があったかは知らないが、まあ、今は傷を治すことだけ考えるのだな」
 優しい表情でそう言うと、結城は立ち上がった。
「くれぐれも言っておくが、無理に動くなよ。経過はいいが、まだ傷がふさがったわけではない。私は湯浴みをしてくるが、下の用などは大丈夫だな」
「ああ」
 一馬の答えを確認すると、結城は建物の奥へと姿を消した。
 一人になった一馬は、今までのことを落ちついて考えてみた。
 今まで、何人もの人間をあやめてきた。自分自身がそういう目にあうということを考えなかったわけではないが、やはり現実にそういう目にあってみると、死ぬのはいやだという思いがつきあげてくる。結城が助けてくれなければ、その思いも空しく死んでしまっていたことだろう。
 しかし、これであの侍が諦めたとも思えないし、自分が死んだと思ってくれているとも思えない。あの侍は意外と頭も切れる。
 まあ、あの侍にしてみれば、確かに自分を生かしておくわけにはいかないだろう。
 だからといって、こっちも素直に殺される気はさらさらない。
 早く傷を治して、返り討ちとはいかないまでも逃げ切ってみせる。
 そのためには、あの結城の手が要るだろう。
 だが、もしここがあの侍にみつかったら。
 結城も巻き込むことになるが…。
「かまわねーか。どーせ、あいつが物好きでやったことだ」
「私がどうかしたか?」
 ふとつぶやいた独り言にいらえがあって、一馬は驚いた。
「つっ…!」
「あぁっと、驚かせてしまったようだな、すまん」
 驚いた拍子に身をおこしかけ、激痛に顔をしかめた一馬を、湯上がりの結城は再び横にする。
「…お…お前さん…」
「ん?」
 手ぬぐいで洗い髪をふきながら、結城がきょとんとした顔で、茫然と自分を見ている一馬を見た。
「女、だったのか?」
「あぁん? 気づかなかったのか?」
 湯上がりの薄着を見れば、いやでもそれはわかる。しかし、今の今までまったく気づかなかったとは…。
「みょうに甲高い声で話す奴だなあとは思ってたが、まさか医者が女だとはおもわねーよ」
 確かにこの時代、医者といえば男の仕事である。
「少しは頭を使え。男の医者だったらもっと大きな街にでも住んでるさ」
「そりゃもっともだ」
「しかし度胸があんな。いくらケガ人だっていったって、女一人の所帯に男引っぱり込むたあ…」
「馬鹿なことを…。その傷で私になにかできるとでもいうのか?」
「治ったらどーすんだ?」
 一馬が言うと、結城は一瞬口をつぐんで、妖しげに、とも見える微笑みを浮かべ、答えた。
「相手をしてやろうか? ふふん、お前で私の相手がつとまるのか?」
 ぽかーん、となった一馬を見て、結城は笑う。
「ふふ、色事など考えていないで、とっとと傷を治すことだ。じゃあ、お休みよ」
「ああ」
 再び奥に姿を消した結城の後ろ姿を見送って、一馬は目を閉じた。
「女だったとはなあ…。道理で女みてえな優男だと思った…。待てよ。あいつ、じゃあ女なのにあんな所からここまで俺を背負ってきたのかよ…。
 こりゃあ、女だからってなめてかかれねえなあ…」
 そんなことを考えている間に、睡魔が襲ってきた。一馬はそれにあらがおうとも思わなかった。
 
 その二日後の、昼時。
「ほら、口を開けろ」
 結城が、匙を突き出して言う。
「女に飯食わせてもらうたあ、俺もいい身分になったもんだ。これで毎日芋粥でなかったら言うことないんだがなあ」
「仕方なかろう、食うものがあるでなし、お前さんも豪勢なものが食べられるほど回復してはおらん」
「へいへい」
「薬草を入れておいたから、滋養はちゃんとある」
「薬草だあ?俺あれ嫌いなんだよな、苦えし」
「何を子供のようなことをぬかしている。良薬口に苦しと古来より言うではないか」
 昨日、結城は、一昨日採ってくるはずだった薬草をあらためて採りに行った。で、その成果が昨日の夕餉と今日の朝餉に出てきたのだが、これがまた苦いのなんの。結城の言うには傷の熱を鎮めたり膿むのをおさえたりするのだそうだが、こんなに苦いのならば熱や膿の方がまだましだと一馬は本気で思った。しかしケガ人が医者の言うことに逆らっても仕方がない。
「限度ってもんがあらあな」
 せめて抗議くらいはしないと気がすまなかった。
「男だろう、我慢しろ。これくらい私にだって耐えられる」
 ひょいっ、と、結城は造作もなく薬草を自分の口に放り込む。
「な?」
「んじゃ、せめて口移し。な?」
「…ふふん」
 結城はいたずらっぽく笑った。
「よかろう、目を閉じろ」
「なんで?」
「恥ずかしいではないか」
 ちっとも恥ずかしそうには見えなかったが、とりあえず一馬は言うとおりにした。
「ほら…」
 何か、暖かいものが口に押しつけられる。
(なんだ…妙にざらざらしてやがんな。それに意外と毛深いような…。山になんて入ってるからかな。わ、舌なんて入れて…大胆だねえ。なんだこりゃ。妙に薄くてざらざらした舌だねえ。これじゃまるで、猫…猫?)
 一馬は思い至って、目を開ける。案の定、そこには結城の飼い猫・いろは丸の顔があった。
「にゃーん」
「ぉうわあぁっ!」
「はっはっは、どうだ、口移しの感想は?」
「こら結城、なんだこりゃあ、いろは丸じゃねーか!」
「お前さんは、別に私の口移しとは言わなかったからな」
「じゃあ、お前頼むよ」
「ふふ、断る」
 結城が笑い、一馬が言い返そうとした、そのときだった。
 かなり乱暴に、入り口の扉を叩く者があった。
「ごめん!どなたかご在宅か!」
「おや、誰か来たようだ。すまんがあとはいろは丸にでも食べさせてもらっててくれ」
「無理を言うなよ」
 一馬の言葉には答えずに、玄関から自分を呼ぶ声を聞いて結城が言う。
「相当あせっているようだな。それほどひどい怪我か病気か、あるいは赤子でも生まれるか…」
 結城がそんなことを考えていると、扉がいっそう強く叩かれた。
「あああ、あんなに強く叩かれては壊れてしまう。 おおい、今行くから、扉を壊さんでくれよ!
 では、くれぐれも言っておくが…」
「動くな、だろ?」
「よろしい、その通りだ」
 結城は小走りで、入り口へと向かった。
 
「どなたかな?」
 結城が扉を開けると、そこにはじらされていらだった侍がいた。
 その侍はいらだちを押さえながら口を開いた。
「拙者は酒田と申す者」
「はあ」
「この山に悪逆非道の大悪党が逃げ込んだゆえ、探しておる」
「それはそれは」
「『毘沙門の一馬』と名乗る大盗賊なのだが…心当たりはござらぬか?」
「一馬?」
 当然、結城の脳裏にはあの一馬の顔がよぎる。
「・・・・・・」
「ご存じか?」
「…いや…知らんな」
 酒田の目が厳しくなる。
「そなた、何か知っておるな。隠しだてするとためにならんぞ!」
「知らんと言っているだろう」
「…改めさせてもらおう。かくまっておらんとも限らぬからな!」
「待てい!」
 結城が鋭い声で怒鳴る。
「そのような者はここにはおらんと申したはず! よしんばおったとしても、ここにいる限りは病人・怪我人。病人や怪我人を守るは医者のつとめ。ここを通すわけにはいかん!」
「貴様…」
 酒田が刀の鯉口を切る。
「一馬は我が家族の仇、許すわけには参らぬ。邪魔だてするなら斬って捨てるぞ!」
「やってみろ! 確かに私は女だが、仮にも苗字を許された身。医者の誇りにかけて、屍となろうともここは動かんぞ!」
 しばらく双方動かない、にらみ合いが続いた。
 永劫とも思える時間が過ぎて、先に目を逸らしたのは酒田の方だった。
「くっ…。邪魔をしたな!」
 酒田はそう捨てぜりふを残すと、後ろ手に扉を乱暴に閉め、去った。
「くふうっ…やれやれ…」
 それを見届けた結城は、一気に吹き出てきた汗をぬぐって、その場に座り込んだ。
 
「誰だったんだ?」
「・・・・・・」
 一馬の問いに答えず、結城は一馬をじっと見た。
 怪我をしている者を放ってはおけないと思ってとっさに助けてしまったが、よく考えてみれば自分はこの男のことをまったく知らない。
『度胸があんな』とは一馬の言葉だが、今となってはまったくその通りだ。
「なあ、お前…」
 結城は、一馬に尋ねてみようと思った。
「あん?」
「・・・・・・」
 だが、やめた。
「いや…何でもない」
 先ほど自分で言ったではないか。
 盗賊だろうがなんだろうが、怪我や病気をしている者を守るのは医者のつとめ。
 一馬は私の患者。
 それで、いい。
 
 そんなこんなで、時が流れた。あれ以来酒田はやってこない。おそらく一馬が出てくるのを待っているのだろう。診療所の中にいる間は結城に阻まれるであろうし、だからといって結城の留守に一馬を討つのは押し込みのようで、酒田の侍としての誇りが許さない、といったところだろうか。
 一馬の傷は順調に快方に向かい、今では庭先を散歩するくらいなら問題なくなっていた。
 そんなある日のことだった。
「ゆっ…結城様! 結城様ァー!」
 縁側で薬の調合をしていた結城のもとに、近くの村人がこけつまろびつ駆けてきた。
「どうした?」
 結城は手をやすめて尋ねたが、すぐに状況を悟った。その村人の後から、血みどろの子供が戸板に乗せられて運ばれてきたから。
 泣く、というより、その子はもう声のかぎりに叫んでいた。あまりの痛みにじっとしていられず、動くことでさらに痛む…そんな悪循環に陥っている。
「暴れ牛にはねとばされて…」
「話は後だ、奥へ運べ!動かんように手足をしっかり押さえつけておけ!」
 たまたま庭にいた一馬は、その子をちらりと見た。
 ひどい傷だ。足など骨が見えている。
「あーあ」
 あきれたような声で一馬がもらす。
「もうダメだな、これは」
「馬鹿なことをぬかすな!」
 とたんに、結城の怒声が飛んできた。
「諦めたら助かるものも助からん! 私が…私がなんとしてでも助けてみせる!」
 一馬は茫然と結城を見ていた。
 あんなに厳しい顔の結城は初めて見た。
 そして、あんなに凛々しい結城も、初めて見た。
 美しい…と、不謹慎ながらも本気で思った。
 結城は、そのまま奥へと駆け込んでいった。
 
 奥からくぐもった声が聞こえてくる。
 舌を噛まないように、結城が子供の口に布でも詰めたのだろう。
 それでもなお、ここまで悲鳴が響いてくる。
 手術の苦痛は想像を絶するものであろう。
 結城はああ言ったが、やはり一馬はあの子供は助かるまいと思っていた。
 もし身体の傷を結城が治せたとしても、あの子供はおそらく手術の痛みに耐えられず、狂い死ぬだろう。
 尽力するだけ無駄なことだと思った。
 そのうち、子供の声が弱々しくなっていった。
「終わりだな」
 
 しばらくして、疲れはてた表情の結城が出てきた。
 精気こそなかったが、その顔には先ほどの凛々しさが残っているだけでなく、喜びと満足の表情があった。
「…助かったぞ…」
「何?」
「助けられたよ…。もう、大丈夫だ」
「本当かよ!?」
「ああ」
 信じられなかった。この女はバテレンの妖術でも使うのかと、本気で思った。
「あのガキ、よくイカレちまわなかったな」
「普通にやったらおかしくなっていただろうな…。たまたま手元にハシリドコロがあってよかったよ…」
「ハシリドコロ?」
「舶来の薬草だ。食べると正気を失う毒草だが、うまく使えば痛み止めになる。本当はあまり使いたくなかったんだが、ま、終わってみれば思い切って正解だった…」
「大したもんだよ、あんた…」
「ありがとう」
 結城はそのまま縁側にごろんと寝ころぶ。
「こういう時なんだよなあ…。医者をやっててよかった!って思うのは!」
 一馬はじっと結城を見た。自分の傷を治してくれたときも、結城はこんな誇り高い顔をしたのだろうか。
「疲れた、少し休むよ。なにかあったらたたき起こしてくれ」
「ああ…」
 即座に寝付く結城を見て、一馬は、なんと言ったらいいかわからない感情を抱いている自分に気づいた。
 
 それからさらにいくらかの月日が過ぎて。
「そろそろ薪をとりに行かねばならんな」
 結城が物置をごそごそやりながらつぶやく。
「俺が行ってやるよ」
「一馬…。もう大丈夫なのか?」
「おいおい、それは俺があんたに聞くことじゃないのか?」
「まあ、な。たしかに薪ひろいくらいなら別に問題はないが…。そんなことをしてもらっては悪い」
「何言ってんだよ。薪ひろいくらいの恩返しもさせてくれねえのかい?」
「…恩を売ったつもりはないぞ」
「そういう意味じゃねえよ。その、なんだ。感謝の気持ち、ってやつなんだからよ、遠慮なんかするなよ、な?」
「…わかった、では言葉に甘えるとしよう」
 結城はその時、心に何かひっかかるものを感じた。
 私は何か重大なことを忘れている。
 鉈と篭を持って山に入る一馬の後ろ姿をしばらく眺めて、彼の姿が見えなくなってからしばらくたった時、突如、天啓のように結城はそれを思い出した。
「しっ…しまった!酒田!!」
 
「やっと出てきたか」
 山のあるていど深いところに入ったとき、一馬を呼び止めた者がいた。
「…誰だ?」
 一馬は声の主を振り向いた。そこには髪も髭も伸び放題の、一人の男がいた。
「身なりは気にするな。貴様を待ちすぎただけだからな」
「…貴様、あの侍!」
「その通りだ」
「冗談じゃねえ!」
 その男が、かつて自分を瀕死に追い込んだ酒田であると気づいて、一馬は篭を投げつけると、一目散に逃げ出した。
「逃さぬ!」
 たやすく篭を払いのけると、酒田は抜刀して追ってきた。
「せっかく助かったってのに、またやられてたまるか!」
 一馬は必死で逃げたが、所詮は病み上がり。いくら酒田が疲労しているとはいえ、すぐに追いつかれてしまった。
「父母と妹の仇、覚悟!」
「うあああああ!!」
 ざしゅッ!
 
 倒れた一馬を見ると、酒田は刀の血をぬぐい、鞘におさめて、しばらく感慨にふけった後、去った。
 放っておいても死ぬであろう仇にとどめをさして、わざわざ楽に死なせてやる義理はなかろうと思ったからであった。
 一馬は、目の前がぼやけていくのを感じながら、少し前の、あの子供の出来事を思い出していた。
 あの子供を見て、自分は、「もうダメだな、これは」などと言った。
 今の自分の傷は、あれよりも重い。
 あの子供は、結城によって助けられたが。
 今度こそ。
 自分こそ、もう、ダメだろう…。
 
「一馬! 一馬あー!!」
 結城はあのあと、すぐに一馬を追って山に入った。しかし、一馬がどちらへ行ったのかわからない。
「一馬! 返事をしろ、一馬!!」
 叫ぶ結城の声にいらえるのは、ただ風の音のみ。
 ザワザワザワザワ…。
「ん…?」
 その風に乗って、結城がよく知っている臭いが運ばれてきた。
「血の臭い…!」
 結城は、その臭いをたどって走った。
 やがて、その臭いのもとが、見つかった。
「かっ…一馬!」
「・・・・・・」
 左肩から右脇にかけてばっさりと袈裟斬りにされた一馬は、返事をしなかった。
「一馬! 大丈夫か、一馬!」
「う…」
 驚くべき事に、一馬には意識がまだあった。
「あの野郎…死んだふりしたら…帰っていきやがったよ…」
「馬鹿! もうとどめをさすまでもないと思っただけだ!」
「そうかい…じゃあ、俺もうたすからねえんだな…」
「大馬鹿!! 何としてでも助けてみせる、もうしゃべるな!」
「・・・・・・」
 一馬は心底ほっとした。
 正直なところ、結城に、「もうダメだな、これは」などと言われるのではないかと思っていたのだ。
 安心したとたん、意識が遠のいた。
 
「・・・・・・」
「気づいたか?」
「・・・・・・」
「気づいたな?」
「・・・・・・」
「やれやれ、手をやかせおって。何度死にかけたら気が済むのだ?」
「俺だってやりたくて死にかけてんじゃねーや」
「もっともだ」
 一馬の床の横に座り込んだ結城は、あきれたような顔で尋ねた。
「今度こそは教えてもらうぞ。一体なにがあったのだ?」
「・・・・・・」
 一馬は一瞬口ごもったが、観念して話し始めた。
「俺は、都で盗賊をやってた」
「酒田に聞いたよ」
「あの侍の家はな、都でも指折りの道場だったんだ。ある日、奴の道場が果たし合いを挑まれた」
 結城は促すこともせず、ただだまって聞いていた。
「奴の道場の代表はもちろん奴だ。奴は強い。普通にやったんじゃ勝てない」
「・・・・・・」
「でだ。その相手の方は闇討ちを考えた。その話がいろんなつてで俺たちん所へ来たってわけだ」
「なぜ闇討ちなどしてまで勝ちたいと思ったのだろう?」
「さあな。おおかたどっかのお武家さんの指南役の座でもかかってたんじゃねえか。
 で、俺たちは首尾良く闇討ちに成功した。奴自身を逃がしたほかはな。
 奴の親父とお袋は寝ているところを一突き、妹は…」
「・・・・・・」
「そういうことだ」
「なるほど。それは確かに奴も怒るだろうな」
 一馬は目を閉じる。
「わかったかい、俺がどんな奴か。あんたは極悪人を助けちまったんだぜ」
「そのようなこと、知るか」
 結城がなにごともないようにいう。
「私は傷ついた者を治す、それだけだ。善人か悪人かなどは関係ない。傷ついていればそのようなごたくも並べられんのだからな」
「信じられねーお人好しだな」
「かもな。
 ただ一つ、医者として言っておく。恩を売る気はないが、医者の私に助けられたからには、もう我々の仕事を増やすようなことはするなよ。我々と火消しと岡っ引きは暇な方がよいのだ」
「…さあな。
 あんたが人を助けるのを生業にしてるのと同じように、俺は人を殺すのを生業にしてる。
 やめられるか、どうか」
「…そうか」
 結城はそれ以上、抗議らしいことは言わなかった。
 
「すっかり世話んなっちまったな」
「かまわんさ。これが私の仕事だ」
 しばらくして、傷が治った一馬は、結城のもとを去ることにした。
「まだ、殺すか?」
「さあな」
 一馬は結城に背を向けた。
「わかんねー」
「そうか」
 少し前にしたのと同じような会話を繰り返す。
「またいつでもくるといい。ただし、こんどは五体満足でな」
「ああ、気が向いたらな」
「達者で暮らせよ」
「ああ」
 一馬はそう言って立ち去ろうとし、ふと、足をとめた。
「そうだ。
 お前さん、下の名前はなんて言うんだ?」
「知りたいか?いつも結城で通しているんでな。女の名は久しく名乗っておらんのだが」
「知りたい」
「私の名は、凛(りん)。医者になって苗字を許されるまでは、だからお凛というわけだ」
「ほお。な、結城ってよりお凛って呼びてえんだが、いいかい」
「ふむ。その名で呼んでいいのは親と夫だけ、と決めているのだが」
「呼びてえな」
「・・・・・・」
 結城は微笑んで、答えた。
「考えておこう。
 私は本来怠け者だからな。私の仕事を増やすような男は嫌いだぞ」
「そうかい」
 
 その後この二人がどうなったのかは定かでない。
 夫婦になったとか、もう二度と会うことはなかったとか。いろいろな話がある。
 ただ一つ、わかっているのは。
 盗賊「毘沙門の一馬」は酒田という侍に討たれたことになっており、したがって、それ以来一馬に殺された者は一人もいなかった、ということだ。
                           <終わり>
BACK
HOME