ふるさと
 
「きれいだね」
 女の子が、夜空を見上げて言う。
「ああ…」
 男の子がそれに答える。
「いつか…あたしたちも、あのお星様に行けるのかな」
「そのうち…たぶん、ね」
「行ってみたいな、お星様へ」
「そうだね…」
 そう答えると、男の子は立ち上がった。
「帰ろうよ。今夜も寒い」
「…そうね」
 女の子は立ち上がると、男の子の後について歩き出す。そして、いったん立ち止まると、もう一度星空を仰ぎ見た。
「いつか、きっと」
 
 男の子と女の子がそんな会話をかわしたその時から、十五年が経った。
 この十五年は、人類の歴史に大きく記されるべき十五年であった。教科書には「躍進の十五年」とか、「宇宙技術革命の十五年」とか載っているし、俗には「時を飛び越えた十五年」とも呼ばれている。
 国籍不詳の科学者が一人、学会に誕生したのがことのおこりだった。彼は次々と今までの常識を覆し、新たな技術を生み、多くの謎を解いた。
 彼の誕生で、世界の科学技術は一気に千年分は進んだ、とも言われている。
 そんな彼のもっとも大きな功績を一つ挙げるとすれば、それはやはり「スペースコロニー」の開発実用化であろう。
 彼がスペースコロニーの理論だけでなく、それを造る画期的な施工法をも一度に考案したおかげで、この十五年で実に十ものコロニーが宇宙に浮かぶことになったのである。
 多くの人間が既にコロニーにあがったが、やはりそれは一部の先進国の上層階級の人々にすぎなかった。
 さて、コロニーはすべてが居住用とされたわけではない。十のうち三つは、地球環境改善用コロニーとか、反射鏡コロニーとか呼ばれるものであった。
 太陽光線を反射して北半球の日照時間を延ばし、地球上においても人間の居住可能区域を拡大するために、その三つは浮かんでいる。
もちろん厳密に言えばこれは「植民地(コロニー)」ではないのだが、先に述べた科学者が、「でっかいんだから、人工衛星よりコロニーの方がかっこいいじゃないか」などと本気とも冗談ともつかないようなことをのたまったため、正式名称はともかく一般にはコロニーと呼びならわされている。
 このコロニーのおかげで一気に開発が進んだ地域が、二つある。すなわち、アラスカとシベリア。特にシベリアはその土地の広大さ故、著しい発展をとげた。
 なにもかもが変わっていった。都市も、生活も、文化も、そして、人々も。
 そんな中、あのときの男の子と女の子も、それぞれ成長して立派な青年と、美しい娘になっていた。
「イリヤ、どうしてあなたはいつもそうなの?一緒にコロニーに上がりましょうよ!」
 娘がそう尋ねた。明らかにお冠のご様子だ。この娘・クリーシァ=クラフツォフは、このシベリア…反射鏡コロニーによって天候調節がされているはずだが、最近はその整備がされていないらしく、また凍死のニュースが珍しくなくなりつつあるようなところ…が嫌で嫌でたまらなくて、コロニーに上がろうと必死になってお金を貯めている。毎日毎日シベリアの悪口を言いながらせっせせっせと働くクリーシァを見て、「そんな、命を削るみたいな働き方しなくても…。地球ですごせばいいじゃないか」と言って、彼女の反論を受けたのは、彼女の恋人であるイリヤ=クルーチェ。
「…いいかい、クリーシァ」
 イリヤはその反論に対し、クリーシァを諭すように答える。
「僕は、つくりものの世界に住むのは嫌なんだ。コロニーも確かに悪くないかもしれない。宇宙には害虫や害獣、病原菌の類は持って上がらなかったからね。天候も調節されてるし、ここよりずっと住み易いだろう。君の言ってることもよくわかる」
「じゃあ、どうして…」
「何て言うのか、よくわからないけど…。思い上がり、って言うのかな。そんな、何から何までひとがコントロールしてるようなのは、どうもね。僕は地球が好きだな。本当は小さい頃の、死ぬほど寒いシベリアのほうがもっと好きだったんだけど」
 イリヤの言っていることは、何も彼だけが思っていることではない。天候を著しく変化させるという反射鏡コロニーの設置について、世論はまっぷたつに割れ、設置当初はロシア首相の首が次々とすげかわったものである。
「馬鹿馬鹿しい!」
 しかしそんなイリヤの言葉を、クリーシァはにべもなくはねつけた。
「イリヤ、あなたの言ってるのはただのつまらない感傷よ。今、もうこの土地には何の価値もないわ。他の星の開発も進んでこの土地の干上がりかかった資源なんて無意味だし、ちょっとしかとれない作物だって、お金がかかりすぎてどうしようもないし。現に反射鏡コロニーだってもうずいぶん長いこと放って置かれてるじゃないの、みんながもうこの土地を見限ってる証拠よ。それとも、狩りでもして暮らすつもり?」
「…そういうのも、悪くないかもね」
「・・・・・・」
 クリーシァは頭をかかえる。イリヤは小さい頃からずっと、のほほんとしながらも言い出したらきかない性格だった。説得は、もしかしたら不可能ではないかもしれないが、恐ろしいほどの労力と時間を要するだろう。それなら、お金を稼いでコロニー移住の費用を貯めていた方が有意義かもしれない。
 イリヤと一緒には行けないのだろうか。
 意見の不一致は数え上げればきりがないが、それでもクリーシァはイリヤが好きだった。コロニーへ行くことは、イリヤと別れることを意味する。
 イリヤは好きだ。
 だが、シベリアは嫌いだ。
 どうしたらいいのだろう。
「ねえ…」
 クリーシァは口調を優しくして、イリヤに語りかけた。
「あたし…イリヤが好きよ。イリヤは…あたしのこと、嫌い?」
「なんだよ、いきなり…」
「答えて」
 イリヤは照れて赤くなりながらも、小さな声で答えた。
「嫌いなわけ…ないだろ」
「じゃあ、一緒にコロニーへ上ろうよ。ね…」
「お前こそ…コロニーなんかへ行かないで、僕とここで暮らそうよ」
「・・・・・・」
 実の所、この二人が結婚していないのは、ただこの一点における意見の不一致だけが原因と言ってもいい。
「わかったわよ…。結局、また話してもしょうがなかったのね」
 クリーシァは悲しいような怒っているような顔でイリヤを見ると、彼に背を向けた。
「じゃ…仕事の時間だから」
「・・・・・・」
 イリヤは無言のまま、クリーシァを見送った。
 
 その日は、反射鏡コロニーの調子が格別悪いらしく、尋常でない寒さであった…もっとも、この寒さが本来のシベリアの寒さであり、イリヤの言葉を借りれば「正直な、本当のシベリアの姿」なのだが。
「寒っ…」
 自分の体を抱きしめるようにして、クリーシァはふるえに耐えた。
「これだから…!」
 そして、シベリアへの嫌悪感をたかめつつ、仕事に向かうのであった。
 
 イリヤがクリーシァに批判めいたことを言ったのは、何もコロニーへ上がるのに反対だったからというそれだけの理由ではない。
 イリヤが言ったとおり、クリーシァは「命を削るような働き方」をしているのだ。
 反射鏡コロニーによって気候が改善されたシベリアには、その資源を目的とする人々が集まり、大きな都市がいくつもできた。そしてその都市群は、最新鋭のネットワークシステムで結ばれ、シベリアは今や一大情報化社会となっていた。したがって経済は情報を中心に成り立ってはいるのだが、所詮人間は情報を食べては生きていけない。肉体労働や物流もまた必要なのだが、情報化社会になってしまった今、それに携わりたがる人はほとんどいなかった。
 必要な仕事に、働き手がいない。どうするか。
 二十世紀の末頃では先進国が発展途上国の人々を安い賃金で働かせるというようなこともやっていたのだが、世界中のどこもかしこもがそれなりに発展してしまった今となってはその手はもう使えない。
 で、結局、今はかなりの賃金が肉体労働に払われているというわけだ。
 それだけに仕事は厳しい。女性の身で肉体労働をしようなどと考える者は、大抵の場合体をいくらか機械化した者ばかりである(余談ではあるが、生身ではもちろん男の方が力があるが、機械化した場合女性の方がより大きな手術に耐えられるため、かえって力がでる)。
 女性で、しかも生身のままでそういった労働に従事しているクリーシァが、まわりから多少好奇の目で見られたことは否めないが、それでも仕事仲間はクリーシァを受け入れてくれた。
 最初は「生身の女なのに大変だな」とか言っていた者達も、クリーシァの働きぶりを見て、男なのに女なのにという考え方が間違っていることにすぐに気付いた。
 もちろん仕事仲間は皆最初からクリーシァをなめてかかっていたわけではない。中にはクリーシァが最初に働きに来たときからずっと対等の仲間としてつきあってきた者もいる。
 今日の仕事が終わって、皆家へ帰ろうとしている今、クリーシァとしゃべっている男もそんな一人だった。
 彼の名はエゴールシャ=ハルチェーヴニコフ。仕事場でもずいぶんの古株で、相当な「実力者」でもあるが、変に偉ぶったところがなくて、愛嬌のある気のいいおじさんである。熊か何かを思わせる風貌とは裏腹に優しい人物で、仕事で致命的なミスでもしない限り怒鳴られたりすることはまずない。綺麗な奥さんと二人の可愛い小さな子供がおり、家族の話をするときは顔中の筋肉が弛みまくるというすてきなパパでもある。そのせいか、現場では「親父」というあだ名で通っていた。
 お金を稼ぐ、といってこの仕事に入ったものの右も左もわからなかったクリーシァの世話をなにかと焼いてくれたのもこの男だった。今では仕事はもちろん人生の先輩として、クリーシァのよき相談相手である。
 何ということもない会話をかわしているうちに、「親父」はクリーシァが何か浮かない顔をしているのに気付いた。
「どうした、さえない顔して?」
「・・・・・・」
「また例の奴か?確か…イリヤとかいう」
「はい…」
 少し黙り込んで、クリーシァは意を決したように口を開いた。
「親父さん…あたし、どうしたらいいんでしょう」
「親父」は、詳しい事情は知らないが、クリーシァと、イリヤとかいうその彼が、なにかうまくいっていない、ということだけはうすうす感づいていた。
「詳しく話してみろよ」
「親父」は信用できる人物であるし、人生の先輩として様々なアドバイスをくれる人物でもある。現場でも彼に相談をもちかける人はだいぶいた。「親父」というあだ名はそういうところからもきているのかもしれない。
「実は…」
 クリーシァはイリヤとのことを細かく話した。
「なるほどな。お前さんが熱心に稼いでるのはそういうわけだったのか」
「はい」
「難しいな」
「・・・・・・」
「親父」は考え込む。実の所、彼はそれほど的確なアドバイスをくれるわけではないのだが、こうして親身になって考えてくれるのが、相談した者にとっては嬉しく、励みになるというのが本当のところであった。
「そうだな…。言うまでもないことだが、お前さんの取れる道は三つだな。地球に残るか、彼氏を説得するか、それとも、地球とコロニーに別れて暮らすか」
「…そうですね…」
「俺は、地球が好きだからな。お前さんもここで暮らすのを勧めるが…、これはお前さんの問題だからな」
 そこでいったん口をつぐんで、「親父」は続けた。
「いっそ、お前さんだけでコロニーへ行くのもいいかもしれないな」
「え…?」
「それで、向こうで幸せになれればそれでよし、彼氏よりも宇宙の生活の方がお前さんにとって大事だったってことだろうな。逆に物足りなくなったとしたら宇宙の生活よりも彼氏の方が大事だったってことだろう。安心しな、コロニーへは行きは高いが帰りは安い。一つ言えることは、ごちゃごちゃ考えてるだけではどうしようもないということだな」
「そう…ですね」
「で…資金のほうは?」
「次のお給料で…もう、行けます」
 すなわち三日後のことである。
「そうか…。じゃあ、それまでに決心しとくんだな…」
「ありがとうございました、お休みなさい」
 
「ただいま…」
「あ…おかえり」
 イリヤがキーボードを叩く手を止めて振り返る。イリヤはごく普通にネットワーク上での情報のやりとりで生活している。だから、クリーシァのようにどこかへ出かけていって働くということはなく、自宅のパソコンの前に座って仕事をしている。
「ね…どうしても、あたしと一緒にコロニーへ行ってくれないの…?」
 実の所、イリヤは相当儲かっている。ただイリヤが首を縦に振るだけで、イリヤ自身がコロニーへ行けるのはもちろんのこと、クリーシァのぶんまで出してもまだおつりがくる。
「・・・・・・」
 イリヤは一瞬絶句したが、やがてうめくように、
「ああ…」
 と、答えた。
「そう…」
 クリーシァはうつむく。
「疲れたから…先に寝るね」
「うん…おやすみ」
 シャワーを浴びて、自室に戻り、ベッドに潜り込んで、ぎゅっと目をつぶった。
(イリヤのばか…あたしなんかいなくたっていいのね…)
 かたく閉ざしたまぶたから、涙がこぼれた。
(いいわよ…。あたし一人でコロニーへ行っちゃうんだから…!)
 心を決めたつもりなのに、涙が止まらないのは、どうしてなのだろう。
 
 長かったような、短かったような三日間が過ぎた。
「行くのか」
「親父」が尋ねる。
「ええ」
 短く、クリーシァは答えた。この職場とも、今日でお別れだ。
「元気でな。まあ、コロニーは地球よりもずっと病気にはなりにくいし、お前さんほどたくましければそう簡単に体をこわしはしないだろうが」
「いままで、本当にありがとうございました」
「コロニーに行っても、頑張りな」
「はい」
 ぺこりと一礼して立ち去るクリーシァの後ろ姿を見て、「親父」はつぶやいた。
「コロニーへ…行くことにしたのか、結局。あいつは向こうで幸せになれるのか…な」
 
「それじゃあ…」
 宇宙港。大きな荷物を持ったクリーシァは、手ぶらのイリヤを淋しそうに見た。
 地球の上でなら、遠距離恋愛も難しいことでも何でもない。現在は真空のチューブの中を走るリニアモーターカーが交通ネットワークを形成しているため、例え行き先が地球の対蹠点であっても時間もお金もそれほどかからない。しかし、コロニーと地球では話が別だ。情報の行き来こそあるものの、人や物の行き来はあまりない。コロニーはそれぞれの中で自給自足が可能であるためと、シャトルの航行はリニアモーターカーに比べてかなり割高であるせいである。
「手紙…送るから…」
「ああ」
 この場合の「手紙」とは電子メールを意味する。これならば時間もお金もほとんどかからずにイリヤと連絡をとれる。
「持っていけよ」
 イリヤは一枚のディスクを手渡した。
「何…?」
「困ったら使えよ」
 情報で物事が動いているこの社会では、ディスクというものはどんな価値がある物か使ってみるまで全くわからない。
「ありがとう…」
「向こうについたら、すぐ連絡するから」
「・・・・・・」
 イリヤは沈黙し、クリーシァに背を向けた。
「…待ってる」
 そしてそうとだけ言って、イリヤは立ち去ろうとした。
「…さよなら…」
(…ばか! もう知らない!)
 また涙があふれそうになり、その顔を誰かに見られたくなくて、クリーシァは搭乗口へと駆け出した。
 
 コロニーでの生活を始めてしばらくして、クリーシァは、コロニーと地球の行き来がどうしてあまりないのかを悟った。
 相当な金がかかるため、コロニーへは誰でも簡単に来られるわけではない。その事実に基づいてか、コロニーの人々は妙な選民意識を持っていたのだ。彼らは地球のことを旧世代の異物と、また、地球にいる人々のことを未開の人種とでも思っているらしい。
 地球から上がってきた、成り上がり。
 クリーシァに対するコロニー社会の見方は、そんなものであった。
 家を探しに行って、話がまとまりかけ、書類を書いて地球から上ってきたばかりだということがわかったとたんに、なんだかんだと理由をつけて断られたのも一度や二度ではない。
 仕事もまったく見つからなかった。コロニーは地球以上の情報社会ではあったが、別にクリーシァとて肉体労働しかできないわけではない。しかし、まったくとりあってもらえないのだ。
 数日ののち。
「ああ…」
 夜の公園のベンチに座って、クリーシァは深く溜息をついた。ここで一夜をあかしても、別に体調を崩したりする心配はない。現にもう何回もそうしてきた。コロニーの気候調節は完璧だし、そうでなくてもクリーシァはそれほどやわではない。
「このままお家もお仕事もなし…ってわけにもいかないしなあ…」
 もう一度溜息をついて、ふと、上を見ると、別の地面がある。コロニーは円筒形になっており、回転することによって生じる遠心力を重力のかわりにしているため、内壁が地面になっている。その所々に太陽光を採り入れるための強化ガラスの窓がある。その窓は現在太陽光を反射する鏡が蓋になることによって閉ざされており、星も見えない。
 そんな空(?)を見上げていると、クリーシァの脳裏にずっとずっと昔のことが蘇ってきた。
『いつか…あたしたちも、あのお星様に行けるのかな』
 来た。
 あたしは、来た。宇宙までは。
 だけど、「お星様」はかえって遠くなったような気がする。
 だって。
 ここは、星も見えないもの。
 一緒にお星様のことを考えてくれる人も、いないもの。
 イリヤが言っていた「つくりものの世界」というのが、今ならはっきりと実感できる。
 コロニーに行って地球に帰ってきた人、というのは何人もいる。そういった人は新たなコロニーの建設にたいていの場合反対している。地球にいるときはそれが理解できなかったが、今にして思えばそれはこういうことだったのか。
 意地を張りすぎた。
 なんとかなる。そう思って、思い続けて、今日まで必死にあがいてきた。
 でも、ダメだ。
 考えてみれば、今もうコロニーは住民を公募してはいない。
 ということは、現在コロニーの中にいる人々だけで社会が成立しているというわけだ。
 それならば。
 もうあたしにはどうしようもない…。
 なにしろ、もう「先立つもの」が尽き果ててしまったのだ。
 頑張るどころか、明日から生きていくのにも困ってしまった。
「どうしよう…」
 大きな荷物を抱えて途方に暮れていると、バッグの横についているポケットに何か小さくて四角くてかたい物が入っていることに気付いた。
「これ…」
『困ったら使えよ』
 そう言ってイリヤがくれたディスク。
 公園の真ん中でクリーシァは荷物を広げると、ラップトップ・パソコンを取り出し、電灯の下へ行って、そのディスクを立ち上げてみた。
 中に入っていたデータは…
「お金!?」
 いわゆる「為替ディスク」と呼ばれるものである。銀行に設置してある端末に入れれば、データとして入力されたお金をおろせるという代物だ。結構な金額が入っている。
「メッセージもある…」
 一言、イリヤのメッセージも登録されていた。
『クリーシァへ。
 君の持ってったお金ではきっと足りないと思う。
 お金が足りなくなったら使って欲しい。
 君の好きに使っていいけれど、できたら、このお金で地球に帰ってきて欲しい。
 僕は待っているから。
                                イリヤ』
「イリヤ…」
 どうしよう。
 このお金でもう一度、ここで頑張ってみようか。
 それとも、イリヤの言うとおり地球へ帰ろうか。
 本当に、どうしよう…。
 
 シベリア、ノリリスク宇宙港。
 今ここにちょっとした名物のようなものがあった。
 朝、最初のシャトルが到着する時間から、夜、最後のシャトルが到着する時間まで、ずっと待合い室で、空を見上げている一人の青年が、ここしばらく毎日いるのである。
 掃除のおばさんあたりにはもう顔を覚えられていて、最近はよくいろんなことを尋ねられる。
「毎日何してるんだい」
「待ってるんだ」
「いつくるとか、わからないのかい?」
「うん」
 青年は、妙に納得したような顔で言う。
「来るかどうかも、わからない」
「彼女か何かかい?」
「ふふ。まあね」
「そんなに想ってもらえるなんて、幸福者だね」
「さあ」
 青年は微笑みながら首を傾げる。
「鬱陶しいだけかもしれない」
「嫌われてるのかい?」
「もしかしたら、そうかも」
 少し淋しそうな顔で青年はいったが、次の瞬間、その表情がぱあっと明るくなった。
「どうしたの?」
 怪訝な顔でおばさんが尋ねた。
「来たよ」
 青年はゲートへ駆け出す。
 ゲートの向こうから、一人の娘が走ってきた。
「イリヤあ!」
 その娘が、嬉しそうに、心底嬉しそうに叫ぶと、待ち続けていた青年に、飛び込むように抱きついた。
 
                           <おわり>
 
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