ひとりきり
『 告
国の西の外れの森から
姫を連れ戻した者には
望むままの褒美を与える
…国王』
そんなおふれが国中に出されてから、かれこれ二年になる。
おふれが出された頃から、その西の外れの森には妖しげな植物が生い茂り、不気味な鳴き声が響くようになっていた。
なるほど、姫は森に住み着いた魔物か何かにさらわれでもしたのだろう、と皆納得し、何人かの勇敢な…あるいは、欲に目がくらんだ…者達が、その森に向かった。
異常なまでに生い茂り、剣より鋭い棘をつけた木々の森を抜け、無数の魔物達を打ち倒し、奥へ分け入った者達が見たものは、巨大な古城だった。
古城に入ると、不気味な動植物の襲撃はなくなった。そして、古城の一番奥には、一人の少女がうつむいて座っていた。
「姫様」
「誰? あなた」
「お助けにあがりました。さあ、お城に戻りましょう。国王陛下もご心配しておいでですぞ」
「…あなた、何か勘違いしてない?」
姫君は立ち上がると、その勇敢な者に近づいて、冷淡に言った。
「私は、誰とも一緒にいたくないの。だから、自分から家を出て、誰も来られないように自分で森に魔法をかけて、魔物を放ったのよ。助けてなんてほしくないわ、私はひとりきりでいたいの」
それでも何人かの者は、なんとか姫君を連れ戻そうと頑張った。しかし、森の怪植物と魔物のすべての支配者で、かつ自身が強力な魔法使いである姫君にかなう者は、誰一人としていなかった。
姫君を連れ戻すというおふれの一番の障害は、ほかならぬ姫自身だったのである。森に挑んだ者はすべて姫君に叩きのめされ、這々の体で城下に逃げ帰った。
姫君は、彼女自身の望んだ「ひとりきり」を、こうして勝ち取ったのだ。
結局、姫君を連れ戻そうなどと考える者は誰一人いなくなり、姫君は西の外れの森であいかわらずひとりきりで過ごしていた。森は魔物だらけだったがそいつらが森から出ることはなく、姫君の「ひとりきり」を邪魔しない限りは安全だということがわかったので、国中の人々すべてが姫君は放っておいた方がいいという結論に達していた。
そんなある日のこと。
姫君は相変わらずひとりきりで、古い城の中にいた。何をするでもなく窓の外を眺めている。
姫君にとっては「ひとりきり」が当たり前の状況なので、寂しくなどはなかった。
いつもこうして日がな一日、窓の外を見ていたり昼寝したり、魔法の修行をしたりして過ごしている。だから、今日もそんな平和な一日が繰り返されると思っていた。
しかし、その日は、少し様子が違っていた。
最初、姫君は、久しぶりに誰かが自分を連れ戻しに来たのかと思った。外で、放っておいた魔物が騒いだのだ。
どんな奴が来たのやら…と思った姫君は、窓から外を見て、自分が思い違いをしていたことに気づいた。
魔物に追い回され、悲鳴を上げながら逃げ回っていたのは、まだ年端も行かない小さな子供だったのだ。
森に迷い込みでもしたのだろう。このまま放っておけば、長いこと侵入者もなく退屈していた魔物に、殺されないまでも散々いじめられるのは間違いあるまい。いくら「ひとりきり」を愛する姫君でも、それを邪魔する気もない者を傷つけるつもりはなかった。それが子供となればなおさらだ。
「おやめ!」
窓から叫ぶ。久しぶりの獲物に喜んでいた魔物は一瞬不満そうな素振りを見せたが、姫君には到底かなわないことは充分わかっているらしく、しぶしぶだが素直に引き下がった。
「誰だか知らないけど、早くこの森から出て行きなさい。ここはとても危険なところよ。入ってくるだけでああいうのに襲われることになるわ」
「…でも…足が痛くて、動けないんです」
子供は魔物に追い回された拍子に転んだか何かして、足を痛めたようだ。
姫君は黙ったまま子供を見下ろし、少し考えた。
一人きりでいられないのは残念だが、そういうことなら仕方あるまい。足を痛めて動けない子供を城の外に転がして放っておけるほど、姫君は非情ではなかった。城の中にその子を運び入れると、簡単な手当をしてやる。残念ながら、姫君は傷を治すような魔法は使えないのだ。
それでわかったのだが、どうやらこの子は人間ではないらしい。「緑人(みどりびと)」と呼ばれる妖精の一種のようだ。
緑人とは、簡単に言ってしまえば植物の特性を持った人間のようなものだ。だから、大抵は性別がないし、日向にいれば食べ物を食べなくてもいい。現に、この子は綺麗な緑色の髪をしている。この髪が葉の役割を果たしているのだ。
緑人は植物の特性を持っているから、治癒能力は高い。完全に四肢が失われても、また生えてきたりもするほどだ。この足の怪我もすぐに治るだろう。
その、ほんの少しの間だけ、「ひとりきり」は我慢しよう。姫君は、そう思った。
「どうして、こんな危ないところにひとりきりでいるんですか?」
手当が終わると、その緑人は姫君に尋ねた。姫君はお喋りなどわずらわしいと思ったが、本当のことを知ればこの緑人も少しは静かになるだろうと思い、答えてやることにした。
「危なくなんてないわ。この森をこんなにしたのはこの私だもの。木も魔物も私には何もできないのよ」
緑人はすこしきょとんとしていたが、首を傾げてさらに尋ねた。
「どうして、そんなことを?」
「ひとりきりになりたかったから」
「…寂しく、ないんですか?」
緑人が悲しそうな瞳で姫君を見る。姫君は、フッ、と馬鹿にしたように笑った。
「『寂しい』っていうのは、当然あるはずのものがなかったり、いてくれるはずの人がいなかったりしたときの気持ちよ。
だから、私は寂しくないの。
何もなかったし、誰もいてくれなかったから」
緑人は言葉を失う。姫君が、ものすごく恐ろしい顔をしていたからだ。
「いいわ、話してあげる。
私がひとりきりになりたいと思ったのはね。
周りにいる人が、みんなみんな大ッ嫌いだったからよ。
私の御母様は、私を生んだのがもとで死んでしまったわ。御父様は全然気にしていないようだった。御母様の他にもたくさんお后がいたからね。
で、私は乳母と、他のお后の子供に囲まれて育ったの。ひどい生活だったわ。私の御母様はそんなに身分の高い女性じゃなかったから、お后や兄弟達は散々私を馬鹿にしていたし、乳母はどこかよその国の男に気に入られるお人形さんみたいな女に私を育てようとばかりしていたし、御父様だって私を政略結婚の道具くらいにしか思ってなかった。
嫌になったの、あんな生活が。だから、隙を見ては少しずつ魔術を覚えて、ひとりきりになれる機会を待ってたの。
それで、二年くらい前、ようやくひとりきりになれたのよ。この森でね。
わかった? そういうことなのよ」
吐き捨てるように最後の一言を言い終わる姫君を見て、緑人はうつむいた。
「貴女は、お姫さまなんですよね?
だったら、王様、連れ戻してくれるよう、みんなにおふれを出してましたよ。ちゃんと、心配してくれてるんじゃないですか?」
「まさか。言ったでしょう、御父様は私のことを政略結婚の道具くらいにしか思ってないって。
私を連れ戻そうとしているのは、私のことを心配してるんじゃなくて、手駒が減るのが嫌なの」
緑人は、嘲笑しているような顔の姫君に何か反論しようとしたが、何を言ったらいいか結局わからず、口ごもる。
「…どうしたのかしら、こんなふうに誰かに自分のこと話すなんて。
ま、いいわ。あなたも事情はわかったでしょう。傷が治ったら自分の元いたところに戻るのね」
姫君は、身を翻し、部屋を出た。
緑人はただうつむいていた。
それから数日が過ぎた、ある夜のこと。
姫君は、小さな物音に目を覚ました。
部屋のドアが開く。誰何の声をあげるより早く、ドアを開けた緑人がか細い声で言った。
「…寂しいんです…」
声音が涙でにじんでいる。ぐすっ、と、しゃくりあげる音も混じっていた。
姫君は、どう声をかけたらいいのかわからず、口ごもる。生まれてこのかた寂しさなど感じたことがなく、寂しい思いをしている緑人の気持ちはよくわからなかったからだ。だが、こうして目の前で寂しさに泣きじゃくっている緑人を見ていると、放っておいてはいけないような気がしてきた。
初めての気持ちだった。自分自身の胸の内のそんな気持ちに戸惑いながらも、姫君は、寝台を出て緑人に歩み寄った。
「いつも…いつも…まわりには仲間がいてくれて、動物さんたちもいて…綺麗な小川や湖があって…。それなのに、ここには何もないから…誰もいないから…」
だって、私がひとりきりになるために作った場所だもの、と、姫君が言うより前に、緑人は姫君にすがりつき、大声で泣き出した。
「貴女しかいてくれないから…寂しいの!」
泣き続ける緑人の頭を、緑色の髪を、小さな背を、優しくなでながら、姫君はぽつん、と言った。
「私だけでは、だめ?」
はっとなって、緑人が顔を上げる。そして、大きく頭を左右に振った。
「私に…一緒にいてほしいの?」
泣き止まないまま、緑人はうなづく。
「…仕方ないわね」
口ではそう言いながらも、姫君は、自分の顔が微笑んでいるのに気づいていた。
そして、寂しさに凍えていた緑人の心が少しずつ暖かくなって、その暖かさが自分にも流れ込んでくるのがわかった。
(これが、誰かと一緒にいる気持ち?)
姫君は、今まで感じたことのない気持ちに混乱していた。
でも、悪い気分ではなかった。
一緒にいていいと言われて安心したのか、緑人は次の日からかなり元気になった。
もともとこの緑人は活発な性格であるらしく、姫君に外出をせがんだりもした。最初は姫君も鬱陶しく思っていたが、あの夜の暖かさが忘れられず、緑人につきあっていた。そのうち、姫君も、緑人と一緒にいることが当たり前のような気がしてきた。
緑人がおびえるので、姫君は森の魔物のほとんどをもといた世界に送り還し、木々も元に戻した。
すると、次第に森には虫や鳥や動物達が集まってきた。それらと戯れている緑人を近くから見ているうちに、姫君にも小動物がなつき始めた。
姫君は最近、よく笑うようになっていた。ひとりきりでいたときにはほとんどなかったことだ。駆け回る緑人が微笑みながら姫君を呼んだとき、姫君は、ごく自然に笑えたのだ。
最初は「仕方なく」のはずだった。だが、今では姫君は、この緑人とは離れたくない、と、そう思うようになっていた。
やがて時は流れ、森が赤や黄色に色づく季節になった。
その日の夕方、緑人が姫の部屋を訪れた。
「どうしたの?」
姫君は心配そうに尋ねる。近頃、緑人に元気がないのも気になっていたので、その表情はくもっていた。対する緑人は、寂しそうな、それでいて妙に安心しているような表情で、姫君を見る。一言も言わないまま。
「…最近、変よ。髪の色も…その、おかしいし」
森の木々が色づくにつれ、緑人にも変化が現れ始めた。美しく深い緑色だった髪が徐々に黄色みを帯び、パサつき始めている。
「…もうすぐ…」
「え?」
「もうすぐ、お別れなんです」
姫君は驚いて立ち上がった。緑人は微笑んで、ぺこりと頭を下げる。
「長い間ごめんなさい。貴女は…ひとりきりでいたかったのに。ずっとおじゃましちゃって」
「そんな…。どこかへ、帰るの?」
「いいえ」
緑人は首を振る。
「枯れるんです。冬だから」
「枯れるって…あなた、まだそんなに小さいのに」
「しょうがないんです。一年草だから…。冬、越せないんです」
この緑人がいなくなる。そう考えただけで、姫君は自分の胸が締め付けられるのを感じた。
こんなことは、緑人が来る前にはあり得なかったことだ。だが、偽らない姫君の本当の気持ちだ。
「嫌よ、私」
「え…」
「どこへも行ってほしくない。枯れるなんて、絶対ダメよ」
一瞬緑人はきょとんとしていたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そう言ってくれると、嬉しいです。
本当は寂しいんです。ものすごく。泣いちゃいたいくらい寂しいんですよ。お別れが絶対嫌なのは、一緒です。
けれど、人間で言えば、寿命みたいなものですから…」
「そんな…」
戸惑う姫君に、緑人は背を向ける。
「…それじゃあ…」
「ま…待ってよ…。
もう、私ひとりきりになんてなりたくない!」
「大丈夫ですよ。
この森から…貴女だけの世界から出さえすれば、貴女はひとりきりにならずにすみます」
「でも、私、ずっとひとりだったから…。
今更誰かと一緒になんか生きられない」
緑人は首を横に振る。
「一緒に過ごせて…楽しかったですよ」
姫君は口ごもる。その隙に緑人は、ぺこりと頭を下げて、部屋から出ていってしまった。
「あ…」
引き留めようとした姫君の伸ばした手は、ただ虚空を掴んだだけだった。握りしめた手を、姫君はそのまま胸元におろす。
拳を、涙がぬらした。
朝までにようやく乾いた姫君の頬を、再び涙が伝う。
古城の裏手で、動かなくなっている緑人を見つけたからだ。
「そんな…」
緑人にすがりつき、がくがくゆさぶるが、まったく反応はない。姫君はしばらく諦められず、泣きながらその場で緑人の亡骸を揺らしたり叩いたりしていたが、やがて、弱々しい手でその場の地面を掘り返し始めた。
緑人を埋葬し終わり、その姿が完全に見えなくなっても、姫君の涙は止まらなかった。
その場でうずくまって泣き続ける姫君の肩に、冷たい白いものが舞い降りる。
冬が…やってきた。
姫君は古城の窓から、降りしきる雪を見つめていた。
緑人が来る前は、毎日こうして過ごしていた。そんな生活に苦を感じることもなかった。
だが、今は…。
辛くて、苦しくて、でも、どうしようもない。ひどい気持ち。
(やっぱり、こんなことなら…誰かと一緒に、すごしたりしなければよかった)
そうは思っても、もう、どうしようもない。
『寂しさ』とは、当然あるはずのものがなかったり、いてくれるはずの人がいなかったりしたときに生まれる気持ち。
出会ってから別れるまで、当然のように、緑人は姫君に暖かい気持ちを与えてくれていた。
その、暖かい気持ちが、今はもうない。
ひどく寂しかった。
姫君の瞳から、また新たな涙があふれた。
今はもう姫君の森には、凶悪な魔物も危険な木々も存在しない。
それでも、人々は、もう姫君を連れ戻そうとは思っていなかった。
だから、姫君の寂しさを慰めてくれる者は、だれもいなかった。
石造りの古城は吹雪にさらされて冷え込み、姫君は部屋で凍えていた。
身も、心も。
永遠に続くとも思われた冬も、ようやく開けた。
窓の外の景色が、白から茶に、そして緑に変わってゆく。
冬の間じゅう、ただため息をつきながら窓の外を見ていた姫君は、その緑色に惹かれ、何かに憑かれたようにふらふらと外へ出た。
やがて足が、自然とあの緑人を葬った城の裏手に向かう。
(もう…だれも、いないのに…)
そう思っていた姫君は、緑人を葬った所をぼんやりと見おろしているうちに、何か地面が妙なことに気づいた。
すこし盛り上がって、ひび割れたところに何かが見えている。
はっとなった姫君はその場にひざまづくと、必死に地面を掘り始めた。
「あ…」
姫君の手が、何か柔らかいものに触れる。
土の中から出てきたのは、小さな赤ん坊だった。 緑人の子供だ。
あの時、あの緑人がこんな所で力つきていたのは、ここに自分の種をまいたからだったのだ。
すやすや眠っていたその嬰児は、抱き上げられたことに気づくとうっすらと目を開け、姫君に気づいて、にっこり笑った。
(よかった…。私、もうひとりきりで生きて行かなくていいんだ)
そう思ったのもつかの間、姫君はとたんに不安になった。
(でも…私ひとりきりで、この子を育てられるの?)
普通、緑人は放っておいても育つ。だが、それは代々緑人が育つ森の中で、の話だ。だから普通緑人は、枯れる前には自分が生まれた森に戻り、そこで種をまくのだが、この子の親であるあの緑人は、この森に迷い込んだまま帰らずここで枯れてしまった。 この子が、この森で、このまま大きくなれるという保証はない。明日にでも枯れてしまってもちっともおかしくはないのだ。
(どうしよう…。私ひとりきりで、無事にこの子を育てられるわけ、ない)
姫君の顔が再び曇る。無意識のうちに嬰児を抱きしめた、その時だった。
(大丈夫ですよ。
この森から…貴女だけの世界から出さえすれば、貴女はひとりきりにならずにすみます)
「え…?」
声が聞こえたような気がした。
辺りを見回すが、自分と、嬰児しかいない。
(でも、今のは、気のせいなんかじゃない)
森から出さえすれば。
自分だけの世界から出さえすれば。
姫君は、決意した。
自分の世界にいれば、傷つけられることはない。
けれど、何も得られない。
この子のために。そして、自分自身のために。
森を出よう。自分の世界から出ていこう。
今までずっと人との接触を避けてきた自分だ。それに、姫という立場もある。森から出た後の生活が容易なものだとはとても思えなかった。
けれど、もうわかったのだ。ここでこうしていてはいけないと。
「ひとりきり」は、もうやめよう。
もう一度、嬰児をしっかりと抱きしめた姫君は、春の暖かい日差しが降り注ぐ森の中を歩き始めた。
ひとりきりで過ごしてきた古城に背を向けて。
振り向くことなく、迷わずに。
<おしまい>