GIFT
 
 曇った窓ガラスを手で拭くと、外は雨だった。細かく冷たい雨が、音もなく降りしきっている。
 世間は年の瀬を迎え、慌ただしく賑やかになっているはずだ。にもかかわらず、この家には妙な静けさと沈鬱な雰囲気が満ちていた。
「お兄ちゃん」
 呼ばれてそちらを向くと、ベッドに横たわった妹の藍が不安げにこちらを見ている。
「どうした」
「雨が降っているの?」
「ああ」
「クリスマスには、雪、降るよね?」
「ああ。きっとな」
 そうは答えたが、実の所、本当に雪が降るかどうかなどはわからない。聞くところによるとずっと昔は冬になれば雪など当たり前のように降っていたそうだが、最近では冬じゅう雪が降らないことも珍しくはない。だが、ホワイトクリスマスを楽しみにしている藍にそんな事実を告げるつもりは私にはない。
 藍は生まれつき体が弱く、小さい頃から度々病に倒れていた。今も少し体調を崩している。
 私と藍の母親も体の弱い人だった。私を生んだときにもひどく体調を崩し、長く寝込んだらしい。ようやく元気になってしばらくして藍を身ごもり、そして今度はそのまま力つきてしまった。
 父は母が死ぬと、どこか海外へ仕事とやらで単身赴任してしまった。母が死んだときには私がもう藍の面倒を見られるくらいの年齢になっていたためかもしれない。
 母はどうやら金持ちの娘であったらしく、多くの遺産を遺してくれたし、私と藍を放って海外に仕事に行くような仕事人間の父からは毎月多くの仕送りがあるから、私も藍も金には困っていないが、そのような事情で、藍は両親の愛情というものをほとんど知らない。病気がちで学校にもあまり行っていないため、友達もいない。そのためか、藍は私にとてもなついている。私が今この藍の寝室にいるのも、一人で寝ているのは寂しいから、という藍の言葉に応じたからだ。
「サンタさんは来てくれるかな?」
 この部屋で寝込んでいることが多いせいか、藍はひどい世間知らずだ。藍は十一だが、おそらく同い年の少女達でサンタクロースの存在を信じている者はそうはいないだろう。とはいえ、藍の美しい幻想を壊してしまう気にはなれない。藍に出来ることは夢見ることくらいなのだから。
「きっと来てくれるさ。藍は何が欲しいんだ?」
 尋ねてみる。しかし、藍は黙ったまま答えない。悲しそうな顔でうつむいたきりだ。
「どうした?」
「何も要らないわ。この部屋の中じゃあ、何をもらってもすぐに飽きちゃうもの」
 私は困惑した。無論、今まで毎年藍に贈り物をしてきたのはこの私だ。クリスマスの度にそれとなく藍の欲しい物を聞き出していたが、何も要らない、などと言われたらどうしたらいいのか。
「ただ、元気になりたい」
 藍は言う。そうしてやれたらどんなにいいか、と私も思う。だが、残念ながら藍の体質は母親ゆずりだ。医者も匙を投げている。私が本物のサンタクロースでもないかぎり、健康という贈り物を藍にしてやることはできないだろう。
「でも、無理だよね」
 感情のこもらない声で言うと、藍は蒲団に潜り込んだ。さすがに十一年もすると、自分の体質がもうどうしようもないと悟るのだろう。そんな藍にかける言葉が見つからず、私が途方に暮れていると、蒲団の中からか細い藍の声がした。
「雪が積もっているところ、見たいな。冷たくて、気持ちよさそうだもの」
 藍は微熱に悩まされていることが多い。だからこんなことを言い出したのだろうが、健康ほどではないにせよ、雪というのも私にとって難しい注文であることには違いない。私は深いため息をついた。
「そうか。それなら、クリスマスにはきっとサンタさんが降らせてくれるさ」
 藍と、そして何もできない私自身に気休めを言う。
「うん、そうだよね。
 わたし、少し寝るね」
「ああ。ゆっくり休めば、クリスマスには外に出られるさ」
「そうだね。
 お休み、お兄ちゃん」
「お休み」
 私は藍の部屋を出てドアを閉めると、再び深いため息をついた。
 
 自分の部屋に戻った私は、机に伏せてうつむいた。
 藍は私になついているが、私の方も藍にひとかたならぬいとおしさを感じている。
 藍が生まれ、母が死んだとき、私は十三だった。父が判断したように藍の面倒を見られる年であったことは確かだが、母の死という衝撃に平気で耐えられほどの年でもなかったのも、また確かだ。
 父も家には居てくれなかったので、私は、まだ赤子の藍と二人だけで今まで生きてきた。小さい頃から何度も体をこわしていた藍の面倒を見続けたのも私だ。そのせいで、私が藍に抱いている感情には、あるいは兄妹愛だけではなく、保護欲のようなものも混じっているのかも知れない。
 藍のためならどんなことでもしてやりたいと思う。しかし、所詮私は本物のサンタクロースではないのだ。健康とか雪とか、そういうものを贈る能力などない。
 何もできぬ自分が、たまらなく口惜しかった。
 
 結局藍に何を贈ったらいいか思いつかぬまま、クリスマスは明日に迫った。
 考え込みながら家の廊下を歩いていると、何か妙な音が聞こえた。
 音の出所は藍の部屋のようだ。これは、藍が咳込んでいるのか? それにしてもいつもにましてひどいような気がする。
 私はあわてて藍の部屋に駆け寄ると、ドアをノックした。
「どうした、藍? 大丈夫か?」
 返事がない。私の胸の中で不安がどんどん大きくなっていった。
「入るぞ」
 言ってドアを開ける。藍はベッドに潜り込んだまま、こちらを見ようともしない。
「藍、大丈夫なのか?」
 それでも返事がないので、私はベッドに駆け寄る。蒲団をはがそうとしたとき、ようやく藍の弱い声がした。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
 それでも藍は蒲団から顔を出そうとしない。心配になった私が蒲団に手をかけると、藍はいつもとは全く異なった激しい声で叫んだ。
「大丈夫だから! 出ていって!」
 私は一瞬呆気にとられた。藍が私にこんな事を言うとは思ってもみなかったからだ。とはいえ、藍は私の人形というわけではない。生身の人間なのだから、いくら仲良く育った私と言えど、顔を合わせたくない日もあるのだろう。
「苦しくなったら呼べよ」
 そう言って、私は藍に背を向けた。藍は、先程とはうってかわった静かで、優しげで、少し悲しそうな声で答える。
「うん、ありがとう。ごめんね、お兄ちゃん」
 私は一言、ああ、と答えると、後ろ手にドアを閉めた。
 この時のことを私は後に後悔することになる。藍は私が思っていたよりもずっと、私のことを思いやっていてくれたのだ。
 藍が何を思って、私にあのようなことを言ったのか。
 私はそれに、気づいてやることが出来なかった。
 
 そして次の日。目を覚ました私は、肌寒さに身を震わせた。窓際に寄って見てみると、寒いはずだ、昨日までの雨が雪に変わっている。
「藍が喜ぶな」
 微笑んで、一人つぶやく。この雪は藍への何よりの贈り物となるだろう。そして、その雪を見て喜ぶ藍の顔が、私への贈り物だ。
 藍の喜ぶ姿を想像しながら、私は藍の部屋のドアをノックした。
 しばらく待つが、返事がない。二度、三度とノックしても同じだ。
「入るぞ」
 昨日の藍の様子が思い起こされる。またも、私の胸に不安が満ちてゆく。
 部屋の中はもぬけの殻だった。ベッドにも藍の姿はない。
「藍?」
 私はベッドに近づいてみた。そこで、はっと息を呑む。
 藍のベッドのシーツには、赤黒い染みが広がっていたからだ。
 昨日、藍の部屋から聞こえた、激しく咳込むような音を思い出す。おそらく、あの時に藍は血を吐いていたのだろう。
 藍が私に顔を見せなかったのは、これを見せたくなかったからか。
 自分が血を吐いたと知れば、私が心配すると思ったのだろうか。苦しかっただろうに、私を気遣ってくれたのか。
「藍!」
 そんな体でいったいどこへ? 私は焦燥感にさいなまれ、部屋を飛び出した。
 
 すぐに、藍は見つかった。
 家の庭で、両手を広げ、舞うように身を翻している。顔からはすっかり血の気が引いて、漆黒の髪と瞳を持つ藍は、まるでモノクロームの世界の住人であるかのように見えた。
「お兄ちゃん。雪、降ったね」
 私を見つけた藍は、穏やかに微笑んだ。
「藍、何をしている! 寝ていなくては駄目だろう、あれほど血を吐いたのだから! 部屋に戻れ、すぐに医者を呼ぶ!」
「もういいよ、お兄ちゃん」
 ぞっとするほど静かな声で、藍は言った。
「今までにも、何度か血を吐いたりはしてたんだ。でも、お兄ちゃんを心配させたくなかったから、ずっと隠してたの。
 昨日のは、いつもよりずっと多かったんだけどね、ちっとも苦しくなかったんだよ。
 それでわたし、わかったんだ。
 おかあさんの所へ、行くんだな、って」
 藍の黒い髪に白い雪がひとひら、ふたひらと舞い落ちる。藍はそれを払おうともしなかった。
「おかあさんの夢を見たの。わたし、おかあさんの顔全然知らないけど、夢で見たとき、ああ、おかあさんなんだな、ってわかった」
 微笑んだまま話し続ける藍が、とても遠くにいるように感じた。手を伸ばせば届くところにいるはずなのに。
 困惑している私を後目に、藍は灰色の空を見上げた。白い雪は絶え間なく降り続いている。
「嬉しいな。最後に、こんなすてきなプレゼントがもらえるなんて。
 冷たくて、気持ちいい」
 上を向いた藍の顔に純白の雪片が触れる。それでも、藍の顔色は感じられなかった。
 藍は、本当に嬉しそうだった。しかし、その笑顔は、寒気を感じるほど穏やかで、見ている私の胸を締め付けた。
 違う。
 私が見たかったのは、藍のこんな顔ではない。
 このような、諦観しきったような顔では。
 茫然としている私の前で、静かに、ゆっくりと、藍が両膝をつく。
 そして、苦しそうに胸と口を押さえた。
 二三度咳込む。薄く積もった庭の雪の上に、真っ赤な藍の鮮血が、ぽたりぽたりとしたたった。
「藍!」
 駆け寄り、あわてて藍を抱き起こす。藍の口元は、べっとりと血で汚れていた。咳込む度、藍は新たな血を吐き出す。
「しっかりしろ、藍!」
「お兄ちゃん。ありがとうね」
 もう一度だけ、藍は微笑んだ。
 そして、それきり、もう何も言わなかった。
 真っ赤な血が、黒い髪を伝って、白い雪の上に、落ちた。
 
 藍は、この日、望んでいた雪景色と、永遠の安息を贈られた。
 私に贈られたものは、愛しい妹の、安らかな、この上なく安らかな顔、ただ、それだけだった。
 
                           <了>
 
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