夷神
 
 昨日までの嵐が嘘のようだった。
 雲一つない青空に燦々と輝く太陽の光が、すっかり穏やかになった海の水面に反射して、美しい光景をつくりだしていた。
 近くの村の漁師の一人が、海の様子を見に来ると、そのあまりの気持ちよさに、満面に笑みをたたえて大きくのびをした。この様子だと、今日は久しぶりに漁に出ることができそうだ。
 そう思いながら、海原を見渡していた視線を砂浜に戻した。
 と、彼は、見慣れぬものが砂浜に転がっているのに気付いた。
 人…のような形をしている。
 彼は複雑な表情で、そのまましばらくそれを見ていた。
 黒不浄…すなわち、人の死というのは、漁をするには縁起がいいとされている。つまり、漂着死体が流れ着くというのは喜ぶべきことなのだ。とはいえ、普通の神経の持ち主なら人の死体を見て手放しに喜べるわけがない。気味の悪さがないと言っては嘘になる。
 彼は、ふーっ、と大きく溜息をつくと、苦笑いのような表情を浮かべつつそれに近づいた。
 すると、そのとき、それがぴくっ、と動いた。
 驚いて、彼は立ち止まる。
 死体だとばかり思っていたそれは、むくっ、と起きあがる。
「ひっ…!」
 彼は恐怖のあまり腰を抜かしてしまった。
 立ち上がったそれは、天をつくような大男だったのだ。しかも、髪は血で染めたかのように赤く、目も見たこともないような色をしている。日焼けこそしているが、肌の色も明らかに自分たちとは異なっている。
「・・・・・・」
 それが、何か不気味な声を発した。
「ひーっ!お助けー!」
 彼は一目散に、こけつまろびつ逃げ去った。
 
「・・・・・・」
 何が起こっているのかよくわからなかった。
 乗っていた船が嵐に巻き込まれ、海面に放り出されて、何とかつかまっていた板切れからも手がはなれてしまった…そこまでは、覚えている。
 そして、次に目覚めたらここだ。見たこともない海岸。一人の男が自分を見て、「お助け」とか言って逃げ出してしまった。
 何も逃げ出さなくたっていいだろう…と、すこし機嫌を悪くしながら、彼は状況を整理しようと試みた。
 どうやら、自分は幸運にもどこかの海岸に生きたまま流れ着くことができたようだ。
 どこの海岸に着いたのか…それは、よくわからない。
 ここはどこだろう。
 一つ目の手がかりは、海岸に並べてある船の形だ。故郷の物とは違う。どうやら、ここは異郷のようだ。
 そして二つ目の手がかりは、さっき自分を見て逃げていったあの男だ。
 見慣れない姿をしている男だった。やはり自分の故郷に再び流れ着いたわけではないようだ。それに、彼は「お助け」と言っていた。故郷の言葉ではない。だが、彼はその言葉を知っていた。彼の祖父が彼に教えてくれたのだ。彼の祖父は、若い頃に海の向こうから漂流してきたということだった。ということは、ここは祖父の故郷なのだろうか。だとすれば、ここの人にお願いすれば何とか生きていくことくらいはできるのではなかろうか。彼は言葉を教えてくれた祖父に感謝した。
 そこまで考えた時だった。
「あそこだ」
 さきほどの男が戻ってきた。村の者を引き連れて。
「あの」
 彼は、始めて実際に使ってみる、祖父が教えてくれた言葉で話しかけてみた。しかし、村人達はそれに答えてはくれなかった。彼は、
「へへーっ」
 と、いきなりひれ伏されてしまったのである。
「え?」
 状況がまたわからなくなった。
 戸惑っている彼を村人は取り囲むと、何か早口でまくしたてて、村へと案内した。
 
「どうなってるんだ…一体?」
 気付くと、彼は一人きりで村の社にいた。
 村に連れてこられてしばらくは、なにやら大騒ぎされて手厚くもてなされたが、そんな村人達も漁に行ってしまった。とりあえず飢えや渇きはおさまったが、やっぱり何がおこっているのかはさっぱりだった。
 社から出てみようと思い、扉に手をかけてみた。鍵がかかっているかと思ったが、意外と、扉はすんなり開いた。とはいえ、社から出たところでいくあてがあるわけでもない。
「夷様!」
 突如、誰かの声がした。反射的に振り向くと、そこには一人の娘が立っていた。
「え?」
「いけません、お社からお出になっては」
 娘はそう言って、こちらに寄ってきた。ということは、今この娘が言った「ヱビスサマ」とかいうのは、自分のことなのだろうか。
「あ…の」
 何か言おうと思ったが、娘はうむを言わさず彼を再び社に押し込んだ。もちろん、本気で抵抗しようと思えばこのような娘ひとり押しのけるのはたやすいだろう。だが、今の「ヱビスサマ」のこととかで、また頭が混乱し、とりあえずもう一度考えをまとめたくなったので、娘に大人しく従って、社に戻ったのだ。
「夷様。せっかくいらっしゃって下さったのに、そんなにすぐにいなくなったりなさらないで下さい。村の者もがっかりします」
 去り際に娘が言った言葉で、彼はますます混乱した。自分がいなくなると村の者ががっかりする?たかが漂着民がいなくなっただけで?
 
 一人で考えているだけでは結局何もわからず、陽が傾いた。もう夕方だ。漁に出た人々も戻ってくるころだろう。
 彼は社に一人ごろんと寝転がって、天井を眺めていた。
 そのとき、社の扉がばたん、と開いた。
「?」
 ふと起きあがって見ると、そこには、昼間のとはまた別の娘が立っていた。
「ふーん…」
 娘は不躾な視線で自分をじろじろと見回した。何だか気恥ずかしくなり、彼は「な…何?」と、その娘に言った。
「あんたが夷様?」
「ヱビスサマって…何さ?」
「やっぱりね」
 娘は笑うと、彼に近づいてきた。
「あんた、人間でしょ?」
「当たり前じゃないか」
「そうだよね。確かにやけにでっかいし…髪や目は変わった色してるけど…目が二つに鼻が一つに耳が二つに口が一つ、手足が二本ずつ、どう見たって人間だよね」
「何を…当たり前のことを…」
「ね。あたしは鮎。あなたは?」
「え?」
「名前だよ、名前。夷様じゃなくて普通の人間なら、名前くらいあるでしょう?」
 初めて人間扱いされて、彼はなんだか嬉しくなった。安心してにっこり微笑むと、
「俺の名前? ウラディミールだよ」
 と、答えた。
「え? 裏地見ーる? 何言ってるんだよ、そんな名前あるわけないじゃないか」
「あ…そう?」
 そうか、ここは自分の故郷じゃなかったんだ。そういえば爺さんも変わった名前だったっけ。彼はそう思うと、答えなおした。
「それじゃあ…俺は、浦治っていうんだ」
 自分が幼いとき、祖父が自分を呼んだ名だ。祖父はどうやら馴染みのあるような名で呼びたかったらしい。
「ふーん、浦治かあ」
「鮎…だったっけ? なあ、教えてくれよ、ここはどこで、今俺はどういうことになってるんだ? ヱビスサマって何なんだよ?」
「え? あんた全然なんにも知らないの?」
 鮎は、驚いたような呆れたような顔をしたが、状況を説明してくれた。
 
 鮎の話によると。
 夷様(ヱビスサマ)というのは、海の向こうからやってくる神様のことなのだという。そして、村の中にいる人間しか見たことのないような村人にとっては、風変わりな容姿のウラディミール=浦治は、人間ではないもの、すなわち海の向こうから来た夷様、ということになってしまったらしい。
 ここは、別に名前もないような小さな漁村なのだという。村の生計は漁業だけで成り立っている。したがって、豊漁をもたらしてくれる夷様の来村は、非常に喜ぶべきこと、というわけだ。
 つまり、浦治は今、海の向こうから来た夷様として、すっかり信仰の対象に祭り上げられてしまっている、ということなのだ。
 
「ホントかよ…」
「ホントだよ」
 浦治は頭を抱え、左右に二三回軽く振った。冗談じゃない。俺は神様なんかじゃないぞ。
 そこで、浦治はふと疑問に思った。では、目の前で今の状況を自分に説明してくれたこの鮎は、どうしてこんなにも気楽に話してくれるのだろう。
「君は…」
「ああ、あたし? あたしは、変わり者だから。
 あなたは、どこか遠いところから来たんでしょう?
 だったら、あたしと同じだから。
 神様なんかじゃない」
 鮎は微笑んで答えた。「あたしと同じ」というあたりが今一つ納得できなくて難しい顔をしている浦治を見ると、鮎はすすんで自分のことを話し始めた。
 何でも、鮎は孤児なのだと言う。
 上流の山里で捨てられたらしい彼女は、奇跡的にも生きたまま、この村まで川を流れてきたのだそうだ。だから、小さい頃に川から海に来る魚である鮎の名を、自分の名として付けられた。だが、この名には別の意味もある。彼女はよそ者で、厄介者として扱われたのだ。だから、この名を付けられた。鮎は一年で死んでしまう短命の魚である。
 その名に反し、鮎は今まで元気に生きてきた。今ではもう鮎もよそ者ではなく、海女の仕事も覚えた彼女を厄介者として扱う者もいない。だが、自分自身がよそ者であったという事実が、彼女のよそ者…夷様のような…への見方を、普通の村人とは違うものにさせていた。
 そんなわけで、鮎は浦治を特別扱いする気にはなれないのだという。
 そこまで鮎が話したときだった。
「こらっ、鮎!」
 社の外からとがめる声がした。二人がそちらを見ると、昼間浦治を社に押し戻したあの娘が怖い顔で鮎をにらんでいた。
「なんて罰当たりなことをしているの! 夷様に失礼でしょう!」
「いや…俺は別にかまわないんだけど…」
 そう言う浦治の言葉を無視し、その娘はずかずかと近づいてきた。しかし、鮎と違って社に踏み込むようなことはせず、その手前で立ち止まると、鮎を怒鳴りつけた。
「早く降りてきなさい!」
「はいはい」
 鮎はやれやれと肩をすくめると、社から出た。
「申しわけありません、夷様。わたしからもお詫び申し上げます、どうかお許し下さい。ほら鮎、あなたも謝って!」
「えー」
「鮎!」
「はーい。ごめんなさい」
「だからかまわないって…」
「お許しいただいて有り難うございます。さ鮎、行くわよ」
 娘は、鮎を引きずるようにして立ち去った。
「やれやれ…」
 そう言って再び寝転がりながらも、浦治の顔には微笑みが浮かんでいた。
 さっき、鮎が立ち去り際に、耳打ちしていったから。
「また、来るからね」と。
 
 言ったとおり、鮎はその後もちょくちょく、こっそりと社に遊びに来た。そして、このあたりのことを浦治にいろいろ教えてくれた。
 その中でも興味があったのは、あの娘のことだった。
 鮎によると、彼女の名前は凪。見たとおり普通の村娘だということだ。
 ただ、体が多少弱く、海女の仕事とかはしないで、もっぱら網の繕いのような丘の仕事をしているそうだ。
 この間のような厳しい面も持ち合わせてはいるが、本来とても優しい娘で、小さい頃、よそ者だ孤児だといじめられた鮎をよくかばってくれたりして、今では鮎の一番の親友らしい。
 海の仕事をあまりしないだけに村にいることが多く、実際、お供え(つまりは浦治の食事)を持ってきてくれるのも彼女だった。村の人間の中では、鮎と同じくらいよく会う人である。
「鮎!」
 外から声がした。
「噂をすれば、だね」
 鮎ももう慣れっこになってしまっているらしく、とっとと社を出た。明らかにお冠の凪が、そこにはやはり立っている。
「本当にいつもいつも申しわけありません、どうお詫びしていいか」
「別に謝らなくても…俺はバチなんて当てないし当てられないよ。それに、祭ってくれたって村を幸せにしてあげることだってできないし」
「そんなこと、ございません」
 微笑んで、凪が言う。
「夷様がいらっしゃってからは、大漁続きですのよ。ご覧になって下さいな、あの大漁旗を」
 凪が指し示す海の方では、確かに大漁旗をあげた船が漁から帰ってきていた。
 単なる偶然か、それとも浦治はよっぽど運がいいのか(悪いのか)、彼が来てからというもの村では大漁が続いているのだ。
「ですからお願いします。いつまでもここにいらっしゃって下さい、夷様」
 浦治は微笑み返したが、その表情にはどこかぎこちなさがあった。この軟禁同然の生活に、気の長い彼もそろそろ嫌気がさしていたのだ。
 そんな浦治の気持ちを表情から読みとった鮎は、小さく溜息をついた。それを聞いた凪は、少し微妙な表情をしたが、結局何も言わなかった。
 
 浦治が最初にここに流れ着いたのは、夏も終わろうかとしている頃のことだった。
 なんだかんだと言って、それから大体一月ほどが過ぎた。そして今日は、村のささやかな漁祭の日だ。漁祭というものは時期が一定していないものである。どうやら今年の漁祭は、去年よりだいぶ早いらしい。村人は、それも夷様のおかげじゃとますます浦治を祭り上げるのだった。
 しかし、当の浦治はと言えば、退屈このうえなかった。確かに、お供えの類は山ほどある。だが、まさか神様が人間と一緒に飲めや歌えの大騒ぎというわけにはいかない。社の前の楽しそうな宴会を横目で見つつ、浦治は一人で溜息をついていた。
(俺も…ああやって騒ぎたいな…)
 
 明け方が近くなっていた。
 さすがの海の男たちも、夜を徹して飲み続けていればもうつぶれてしまう、そんな時間だ。
 退屈のあまり眠ってしまった浦治の肩を揺する者がいた。
「ん…」
 うっすらと目を開けると、そこに鮎がいた。
「鮎…」
「一人きりで退屈だったでしょう? 一緒に飲もうよ。お酌くらいしてあげるよ」
 お供えに並んでいた酒を一本、浦治の前にどかっと置くと、鮎はにっこり微笑んだ。
「ありがとう」
「いいっていいって」
 鮎は浦治の持っている小さな杯にに、徳利から酒をついでくれた。浦治はそれを飲み干すと、にっこり微笑む。
「変わった味だけど…美味しい」
「まさか、お酒飲むのは初めて?」
「こういうのはね」
 そうやって二人が話していると、
「こら、鮎」
 と、それをさえぎる声があった。二人は、またか、という表情で声がした方を見る。果たして、そこには凪が立っていた。
「ダメでしょう? そんなに夷様に馴れ馴れしくしては」
「でも」
 さすがに鮎も、今日ばかりは反論する。だが、凪はそれをさえぎった。
「…と、言いたいところだけど。今日はお祭りですものね。仲間外れでは、夷様も気を悪くなさるわ。
特別よ」
「…凪」
「夷様、わたしの杯でよろしければ、受けて下さいますか?」
 そして、凪も浦治の隣に座り、徳利を手にする。
「…喜んで」
 そうして、三人は、朝までの短い時間を、ささやかながらも楽しくすごしたのであった。そして、浦治は凪に対する認識を改めた。彼女は決して話の分からない娘ではないし、自分を人間扱いしていないわけでもない。ただ、村人の気持ち…夷様が来てくれて、大漁続きの毎日で、浦治のことを本当の夷様だと信じて疑っていない…も大切にしてあげたいと思っているだけなのだ。だから、村人を幻滅させたくなくて、殊更に浦治を夷様扱いする。鮎の行いを咎めだてするのも、鮎が他の場所で「あれは人間だよ」などと不穏当なことを言わないようにという心遣いか何かなのだろう。
 考えてみれば、彼女だって鮎と同じように、浦治に親しく接してくれた。毎日…雨の日も風の日も…お供えを持ってきてくれて、今日は街からいろんな物を売りに来たとか、どこどこの家で赤ん坊が生まれたとか、そういう世間話もよく話してくれた。決して、本当の夷様にするような話題ではない。彼女のおかげで、退屈な時間が減っているのもまた疑いようのない事実だ。
(ああ、そうだった…。俺は、この娘を誤解していたな…)
 浦治はそう思い、彼女のことをとても優しいと評した鮎は正しいと、実感した。
 
 それからしばらくは、また以前のような日々が続いた。だが、凪のことが少しよくわかると、凪がどれだけ親切にしてくれているかが実感できた。
 それから、あの日から、一つだけ凪の態度で変わったことがある。浦治のことを、少なくとも鮎以外に他の人がいないところでは、「夷様」ではなくて「浦治様」と呼んでくれるようになったのだ。
 そんなある日の、夜のことだった。
「あら…鮎」
「凪」
 社の近くで、二人はばったり出会った。
「行き先は同じみたいね」
 今では、凪は鮎が浦治に会うことを咎めだてしてはいない。
 鮎は昼間は海女の仕事をしているため夕方くらいに浦治に会いに行くことが多く、凪もお供え(夕餉)を持っていく時間の関係で遅くに行くことがある。その時間が偶然重なったのだろう。もう季節的には、大分昼が短い。あたりは暗くなり始めていた。
 そして二人が浦治とまた雑談し、帰る頃にはもう真っ暗になっていた。
「早く帰らないと」
「夜は物騒だからね」
 そう言って二人が道を急ごうとしたときだった。
 後ろから何か言い争うような声が聞こえてきた。
「…! 鮎、今の…」
「行こう!」
 二人が引き返すと、社の外で浦治のまわりを何人かの見知らぬ男が囲んでいた。だが、その男たちは何かにおびえているようにも見える。
「おい…どうする、人が来たぞ…」
「しょうがないだろう…夷様が何か鬼みたいなのだとは思わなかったんだから…」
 浦治は頭を抱えた。確かにこれだけ体格差があると、相手からは鬼か何かに見えるのかもしれない。そもそも、ここで夷様として祭られてしまったのもこの容姿が大きな原因となっているのだろう。
「お前たち! そこで何をしているんだ!」
 鮎が怒鳴った。
「さては…あなたたち、夷様を盗みに来たのね!」
「ちっ…!」
 男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
「ふう…」
 浦治が大きく息をつく。
「何だったんだ、今のは…」
「たぶん…隣村あたりが、夷様を盗みに来たんでしょう」
「盗みに?」
「ええ…」
 凪の話によると、このあたりには、漁に恵まれた村の神様を盗むという風習があるということだった。
 浦治が来てから、それが原因かどうかはともかく、この村が非常に漁に恵まれているのは事実だ。だから、隣村あたりは夷様…浦治を盗みに来たのだろう。
「と言うと、何か? 俺はこれからよその村にも狙われると言うのか?」
「・・・・・・」
 凪は無言で肯定を表した。
「冗談じゃない!」
 鮎や凪がいてくれるこの村でさえ、今の不自由には辟易しているのだ。この上よその村へなど、物のように移されてたまるものか。
「俺はもう嫌だ…ヱビスサマって、やめられないのかよ…!」
「・・・・・・」
 鮎と凪は、それぞれに黙り込んだ。鮎はもちろん凪も、浦治がさすがに我慢の限界に達しているな、と思っていた。そして、できることなら浦治を解放してあげたい、とも。
 自分たちのしていることが、軟禁か何かだということが、二人ともわかっていたのだ。
「・・・・・・」
 気まずい雰囲気のまま、三人は、その日は別れた。
 
 そして、それからまた少しした、別の日の夕方。
「…凪、凪」
 真剣な顔で、鮎が凪の所に来た。
「どうしたの、そんなに真剣な顔して…」
「ちょっと来て」
 鮎が凪を連れてきたのは、少し遠くの、岩がごろごろ転がっている海岸だった。
「こんな所につれてきて、何をするつもりなの?」
「見てよ、この岩」
 鮎は、一つの岩を指し示した。かなり大きめの岩だ。
「この岩が、なにか?面白い形してるけど…」
「人に見えない?」
「ええ、見えるわ。あつらえたみたいに人の形してるけど…。
 まさか、鮎!」
「そう、これと浦治をすりかえるんだ」
「そんな…」
「凪だってわかってるでしょう? 浦治はただの人間なんだ、夷様じゃない。あんなところに閉じこめておいていいわけがないんだ。
 でも、村の人の心はかなり夷様に集まってる。浦治がいなくなるわけにはいかないんだ。
 だから…浦治の、代わりがあればいい」
「・・・・・・」
「手伝って…くれるよね、凪…」
「・・・・・・」
 黙って、複雑な表情をして…それでも、凪はうなづいた。
 
 どかッ。
 いきなり、社の中に大きな岩が運び込まれ、浦治は困惑した。
「これは…一体…」
「ここから出してあげるよ」
 鮎が言った。
「えっ…」
「それとも…ここが、気に入られましたか?」
 凪が続ける。
「ここは…嫌いじゃないが…。神様扱いは…もう、御免だ」
「ですが…ここにいる限り、あなたは…いつまでも、夷様ですわ…」
「だが…俺が逃げたら、村の人が気を落とすんだろう? それに、誰にも見つからずに村から逃げられるほど、俺には土地勘もない」
「大丈夫ですわ」「大丈夫だよ」
 凪と鮎が同時に言った。
「村の人は、この岩でわたしが何とかごまかします」
「逃げるときは、あたしが案内してあげる」
「凪…鮎…」
 
「それでは、あとはわたしにおまかせ下さい」
「大丈夫、凪…?」
「信用しなさい」
 心配そうに言う鮎に、凪は微笑んで答えた。
「じゃあ…。浦治、夜が明けないうちに」
「あ…ああ」
 浦治は、凪の手を取り、深々と頭を下げた。
「ありがとう」
「最初わたしは…あなたを人とも思わないで、この社に閉じこめておこうとしていました。その、せめてものお詫びです」
「詫びだなんて…。君と鮎にはこっちが感謝しているくらいだ…。大丈夫なのかい、俺がいなくなっても」
「大丈夫、何とかしてみせます」
「夜が…あけちゃう。浦治。…それに…凪。そろそろ…」
「うん。行って、二人とも。後は私に任せて」
「ごめん。ありがとう、凪!」
「見つからないようにうまく逃げてね、鮎」
「本当に…ありがとう」
 名残は尽きなかったが、日はどんどん昇ってくる。水平線がもうかなり明るくなっていた。もう、行かなければならない。
 二人は歩き出すと、一度だけ振り返り、そして、だっ、と駆け出した。
 
 鮎には確かに土地勘があったようだ。誰にも見つからず、無事村を出た。
「いいのか、君は。俺と一緒に村を出たりして」
「んー。本当は少し困るんだけど、いまさらここまで来て帰れないよ」
「ごめん」
「いいっていいって。あんなところにずっと浦治を閉じこめておくよりはずっと」
「本当に、ありがとう」
「もういいよ。そんなことより先のことを考えよう。これからどこか、行きたいところある?」
「帰りたい…っていうのは、無理だろうな」
 結局死ぬまで故郷には帰れなかった自分の祖父のことを思い出しながら、浦治は言った。
「別に行きたいあてはないよ。どこに行ったらいいかもわからないし」
「そう。それじゃあ、山に行こう!」
「え?」
「山だよ、山。行ってみたかったんだ一度。あたしが生まれた山国に」
「君がいいんなら、いいよ」
「ふふ、鮎は川へ帰るんだよ」
 そう言って笑うと、鮎は先に立って歩き始めた。
 
「皆さん、聞いて下さい」
 凪は村の人に話を始めた。
「夷様はこの村をとても気に入って下さったそうです。いつまでもこの村にいらっしゃって下さるそうです。夷様はおっしゃいました、『そのためにはこの体では不便だ、朽ちぬ巌となって、永久(とこしえ)に村を見守ろう』と。ですから、夷様は岩のお姿になってしまわれましたが、いつまでもここにいらっしゃるのです」
 一瞬、村の人々の間に戸惑いが見えた。しかし、やがて納得すると、また漁へ出ていった。
「これで、よし」
 凪は空を見上げた。
「どのあたりまで行ったかな…」
 見上げる空は、抜けるような青空だった。
 
 その後、凪は浦治と鮎のことは聞かなかった。
 村の豊漁は、浦治がいなくなってからも続き、村人は、夷様が岩になって村を見守ってくれているということに疑問を抱きはしなかった。
 凪はその後も社の世話を続けた。
 そして、自分たちで運び込んだご神体の岩を見ながら、海の向こうから突然やってきて夷様に祭り上げられた青年と、川の上流から流れてきて小さい頃から一緒に育った親友のことを、毎日思い出すのだった。
 
                           <おしまい>
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