憧憬
 
「・・・・・・」
 両手の間にあるささやかな花束を見おろして、梶浦秀樹は絶句した。
 心の底からお祝いしてあげたい。
 けれど、この花束を渡したくない。
 それは、先輩とお別れすることを意味しているから。
 結局何も言えなかった。
 そのままでお別れか…。
 
 先輩…近衛和歌子に初めて出会ったのは、秀樹が入学したとき。まだ高校の中で、右も左もわからなかった時分のことだ。
 秀樹や和歌子が通う私立輝ヶ丘高等学校は部活動が盛んなことで近隣に有名である。秀樹もそんな噂を充分知っており、高校に入ったら部活動に力を入れよう、と考えていた。
 ただ、部活動が盛んだということはそれだけ活動内容もハードだということだ。それだけに、入る部は慎重に決めなくてはならない。部活動が盛んな学校において、中途退部したら何となく肩身が狭くなりそうな気もしたから。
 とりあえず、活動をこの目で見て、ゆっくり考えて決めよう。
 そう考えていた秀樹を、入学式のその当日に襲ったのは、恐ろしいほどの勧誘だった。
 部活動が盛んであるため、各部間のライバル意識もかなり強く、新入部員は奪い合いになる。そのために年々激化していった勧誘活動の結果だった。
「君君、バネ強そうだね。陸上部に入らない?」
「いい体格してるよ君。柔道部入るしかないよ」
「華道部で雅やかな心を養いませんか。男性部員も大歓迎ですよ」
「野球部で一緒に甲子園を目指そう」
「ソフトボールやらない? 野球と違って坊主にしなくていいよ」
「文芸部に入りましょうよ」
「美術部ー、美術部ー。我々とアートしましょー」
 ・・・・・・
 秀樹はすっかり辟易してしまった。これではゆっくり慎重に考える隙などあったものではない。
 勧誘の人混みから何とか逃れ、遠くにその喧噪を聞きながら、秀樹はふう、とようやく一息ついた。
 しかしその時。
「なあ君、剣道やらないか?」
 またきた。
「あ、いえ、俺…」
「どこかもう入るとこ決めたの?」
「いえ、別に…」
「じゃあ剣道部おいでよ。大丈夫、楽しいとこだから」
「その…もうちょっと考えさせて下さい」
「まあまあそう言わずに、一度部室のぞいてみるだけでいいからさ」
「そ、そう言われても…」
 人混みから離れたため、標的として完全に狙いを定められてしまったらしく、剣道部員と思しきその男子生徒はなかなか秀樹を解放してくれなかった。
 困ったな。
 秀樹が心底困り果てていた、そのとき。
「こら竹中。しつこい勧誘はよせって言ったでしょ」
 ぽこ、というマヌケな音とともに、女性の声がした。
 どうやら竹中という名らしいその男子生徒は、頭を叩かれ驚いて振り向く。そこには、竹刀が入っているらしい袋を持った女子生徒が、怒ったようなあきれたような顔をして立っていた。
「で、でも部長」
 どうやら、この女子生徒が剣道部の部長らしい。
「でもじゃないの。まだ高校に慣れてもいない一年生を勢いだけでかき集めたってしょうがないじゃない。頭数そろえて住民投票か署名でもしようってわけじゃないんだから」
「でも、新入部員少ないと、次の予算…」
「竹中。お金のために新入部員集めるつもり? それじゃ入ってくれた一年生に失礼じゃない。本当にやりたい人が来てくれればいいの」
「はあ…」
 部長に説得され、竹中はしゅんとなって黙る。どうやら、この部長は三年生で、竹中は二年生らしい。
 その部長が秀樹の方を振り向いた。
「ごめんね、こんなごちゃごちゃしたのに巻き込んで。いまこいつもちょっと言ったけど、部費がからんでくるからみんな必死なの」
 部長が、苦笑いしながら秀樹の方を向いた。
 秀樹は一瞬息をのむ。
 深い栗色の長くやわらかな髪。
 つぶらで大きな瞳。
 少し丸めの輪郭。
 スポーツをやっている女性らしい、しなやかなスタイル。すらりとした長身。
 年上の女性に使っていい表現かどうか知らないが、秀樹は、
(かわいい…)
 と、思った。
「こいつがしつこく勧誘して、気分悪くしたんじゃなかったら、一度剣道部見に来てみない? 大丈夫、無理に入部させたりはしないから。
 場所はそこの廊下そっちに曲がったところにある格技室だから。よかったら見てみてよ。じゃね」
 その部長は、にっこり笑って手を振ると、竹中を引っ張って立ち去った。
 秀樹はしばらくそのまま、茫然と立ち尽くしていた。
 
 その日、家に帰って、部屋で一人きりになると、なぜだか急に秀樹は寂しさにも似た感覚をおぼえた。
「・・・・・?」
 自分の気持ちが自分で理解できず、戸惑いを感じる。どうしてこんな気持ちに…?
 考えてもわからないので、目を閉じて机に突っ伏すと、脳裏に昼間出会った剣道部の部長の姿がよぎった。
 初めて会ったときは可愛い、とか思ったけれど、よくよく思い出してみるとそういうタイプの女性ではなさそうだ。
 どちらかといえば、格好いいという感じ。
 凛々しい、と言った方がより近いか。
 考え始めると、あの寂しさに似た感覚が薄れる。
 もしかして…。
 突如、天啓のように、秀樹はこの感情の原因を悟った。
 一目…惚れ?
 
 次の日、秀樹は剣道部に赴いた。
 
 部長の名は近衛和歌子というらしい。
 ここの剣道部は男女合同らしく(もちろん更衣室とかは別だが)、彼女のほかにも女生徒は、先輩にも同じ新入生にも結構いた。しかし、秀樹は自分が和歌子しか見ていないことに自分ですぐに気づいた。
「えー、部長の近衛和歌子です。一年生のみんな、剣道部にようこそ。
 まだ入るかどうか決めてない人も多いと思うけど、ここは楽しいところだよ。それはあたしが保証する。
 先輩もみんなをいじめるような人はいないから安心していいからね。
 ま、練習は少ぉし厳しいけど、そのあたりはみんなに頑張ってもらうということで。
 じゃ、ゆっくり練習を見ていってね。で、できればあたしたちと一緒に剣道してくれると嬉しいな」
 挨拶を終え、和歌子は練習を始める号令をかけた。
 秀樹はそこで初めて、和歌子の腕前を知った。
 強い。
 おそらく一年生に見られていることを意識したのだろう、試合が多く行われたのだが、結局最後の試合まで、和歌子は一敗どころか一本も取られなかったのである。
(すごい…)
 感心すると同時に、秀樹は少しわからなくなった。
 俺が、和歌子先輩に対して抱いている感情は…。
 恋愛なのか、
 それとも、憧憬なのか?
 
 どちらでもいい。秀樹はそう思った。いずれにせよ、和歌子先輩を見ていると得も言われない、何とも心地よい気分になれる。
 和歌子先輩の近くにいられる。それだけで、剣道部に入る理由としては充分だった。
 入部届けを提出し、改めて部室へ挨拶しにいく。
「よろしくお願いします」
「こっちこそよろしく。一緒に頑張ろうね」
 和歌子先輩はにっこり笑った。それは、もしかしたら義理や社交辞令としての役割しかない微笑みだったのかもしれないが、それでも、それを見て秀樹は、剣道部に入ったのは間違いじゃなかった、と思った。
 
 和歌子先輩は、部長として、指導者として、腕前も人柄も申し分のない人物だった。
 先輩だからといって威張ったりもせず、公明にして正大。二年生にも慕われており、一年生もそうなるのに時間はかからなかった。
 三年生の間でも人気も人望も高い。聞くところによると、和歌子先輩が部長になったときには他の三年生全員に推されたのだそうだ。
 ただ、秀樹にとって心配だったのは。
 そんな和歌子先輩だから、他の男子生徒にももちろん好かれているということである。
 部活が終わった後、顔を赤らめた男子生徒に呼ばれ、どこかに出向いていく和歌子先輩を何回か見たことがある。
 その次の日、普通通りの和歌子先輩と、がっくりしているその男子生徒を見て、秀樹は安心すると同時に、自分がいつああなるかと不安になったりもした。
 だったら。
 いっそ、ずっと黙ったままで。
 和歌子先輩のそばにいて、見つめているだけで。
 それでいいじゃないか。
 秀樹は、そう思うようになった。
 
 もちろん、いくら和歌子先輩が気になっているからといって、他の部員をまるっきり無視していたわけではない。
 剣道部での友達もたくさんできた。そしてその中には、女子生徒ももちろんいた。
 地区大会の会場に輝ヶ丘が選ばれ、剣道部がその準備で大忙しだったとき。
 秀樹は、たまたま同じ一年生の岡村愛・谷村京子と一緒に、試合用の道具を運ぶ仕事をしていた。
 愛も京子も、実は結構見た目はいい。
 愛は髪を短く切りそろえ、元気の良さそうな印象を受ける。性格はその実意外と大人しいのだが。
 一方京子は、長い黒髪切れ長の目と、日本人形の輪郭を細くしたような感じの顔つきである。だからといって性格が大和撫子かといえばそんなことはなく、かなり乱暴な一面を持ち合わせていた。
「もたもたしてんじゃねえよ二人とも。特に梶浦、男だったらそんな机ぐらい一人で運べ一人で」
 愛と秀樹は試合記録用の長机を運ぼうとしているところ。京子は審判などが使うパイプ椅子を大量に担ぎ上げているところだった。
「ごめんね谷村ちゃん。梶浦くん、頑張ろう」
「あ、うん」
 秀樹は、女子生徒の中では子の二人と一番仲が良かった。とはいえ、この二人に恋愛感情のようなものを抱いたことはない。なぜか、と言われても、なぜだかわからなかったが。
 そういった道具を運び終えると、会場の掃除をし終わった和歌子先輩が、額の汗を拭いながら三人に近づいてきた。
「梶浦くん、愛ちゃん、京子ちゃん、ご苦労様。こっちは大体終わったから、今日はもうあがっていいよ。本当にありがとうね」
 和歌子はそういうと、雑巾の入ったバケツを持って手際よく後かたづけを始めた。
「明日は、試合も頑張ろうね」
 和歌子先輩に礼を言われ、さらに励ましてもらったりもして、秀樹は嬉しくなった。
 だが、ふと思う。
 和歌子先輩が自分に接する態度は、愛や京子に接する態度と全く変わらない。
 結局、和歌子にとって自分は後輩の一人でしかないのだろう。
 だが、それでもいい。
 この関係さえも失うよりは。
 短い間、和歌子先輩を見つめる。
 愛や京子の存在は、気にもならなかった。
 
 そんな風に、和歌子先輩に何も言えぬまま、それでも幸せを感じながら彼女を見つめ続けているうちに、時は流れた。
「なあ、梶浦」
 もうすぐ春かというころ。部活が終わって帰ろうとすると、京子が話しかけてきた。愛もいる。
「そろそろ卒業生を送ること考えないと。送る会とか、贈り物とか」
 愛は淡々と言ったが、その言葉で一気に秀樹の心は波立った。
 そうか。和歌子先輩は卒業してしまうんだ。
「すぐに決めねえといけねえ訳じゃねえが、ま、覚えておいてくれや」
 京子が言って、愛と立ち去ろうとする。
「それにしても、部長ってやっぱりすごいよね。東京の大学、推薦決まったんでしょう?」
 愛が、また何気なく言う。
(!)
 東京。
 それは、まるで外国の地名のように聞こえた。東京に行ったことがないわけではもちろんない。行こうと思って行けない場所でもない。だが、大学に行くために東京に住むとなれば話は別だ。東京ほど人が多いところで、特定の人物を見つけだすことはかなり困難である。
 遠くから見ていることも、できない。
「梶浦くん。
 何か言いたいことあったら…今のうちだと思うよ」
 振り向いて、愛が言う。
「・・・・・・」
 絶句する。
 言うべきなのだろうか。
 それとも…このまま、別れるべきなのだろうか?
 
 悩みは解決せぬまま、あっというまに卒業式の日はやってきた。
 そして今、秀樹は花束を見おろしている。
「先輩、卒業おめでとうございます」
 竹中が、二年生からの花束を和歌子先輩に渡す。
「おめでとう…ございます」
 秀樹もそれに倣う。
 俺の声は震えていないか?
 俺の態度は不自然じゃないか?
 心配していたが、和歌子先輩は何も気づかないようだった。
 一年間、秀樹の想いに、気づかなかったように。
 
 剣道部の三年生を送る会も終わり、夜。
 愛と、京子と、和歌子先輩、そして秀樹は、夜の道を歩いていた。
 愛と京子と和歌子先輩は、もともと帰る方向が同じなのだが、秀樹は、会が終わった後、
「暗くなっちゃったね。ねえ梶浦くん、よかったら送ってくれないかなあ?」
 と愛に言われ、どきどきしながらついてきたのだ。
「これで先輩ともしばらく会えませんね。寂しいな」
 愛は珍しく雄弁になっている。
 和歌子も感じるものがあるらしく、黙ったまま微笑んで三人の後輩を眺めた。
「私も寂しいけど…梶浦くんはもっと、だよね」
「えっ…!」
 突如話を振られ、秀樹はてきめんにうろたえた。愛は…まさか、気づいていたのか?
 自分なんかよりよっぽど頼りがいがある和歌子先輩が一緒だったにも関わらず、「送って」などと頼んだのは、まさか…。
「先輩。
 梶浦くんはね。
 先輩のこと、ずっと好きだったんですよ」
 愛は、冗談めかしてさらりと言った。
「!」
 和歌子と秀樹はもちろんのこと、なぜか京子までもが動揺した。
「梶浦くん…本当…?」
 和歌子がそれでもすぐに平静を取り戻し、尋ねる。
「・・・・・・」
「言いたいことがあったら、言っておいたほうがいいと思うよ」
 愛が言う。愛の本性を、秀樹は初めて知った気がした。
「愛…君、どうして…」
「見てればわかる。まあ、岡目八目…っていうのに近いかな」
 にっこり笑う。
「あの…その、先輩…」
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」
「え?」
「今じゃ、どんな返事したってしょうがないじゃない」
「・・・・・・」
「気持ちは分からなくもないけど、言いたいことははっきり言って欲しかった」
「・・・・・・」
「偉そうなこと言っておいてはぐらかすんじゃ卑怯だから、あたしははっきり言うね。
 君のことは、好きだよ。いい後輩としてだけど。
 愛ちゃんや、京子ちゃんと同じように、好きだよ」
「…はい」
「あたしはもういなくなるから、君はそのうちあたしのこと忘れると思う。忘れなくても、あたしのことは思い出になると思う。
 そうしたら、そのうち、君は誰か別の女の子を好きになるだろうけど、その子にははっきり言わなくちゃだめだよ。
 好きだ…って。たったそれだけの、短い言葉なんだから」
 諭すように言う和歌子の言葉に、秀樹は、ただ黙って頷くことしかできなかった。
 愛も、京子も、黙ってそれを見ていた。
 愛は、少し微笑んだような表情で。
 京子は、下唇をぎゅっとかみしめて。
 
 桜の花びらが風に乗って舞い踊る。
 和歌子と初めて出会った頃も、こんな風に桜がきれいだった。
 あのときの自分と同じような新入生が何人も入ってきている。
 自分も「先輩」になったのだ。
 初めて和歌子先輩に会ったときから、この間のお別れまで、自分が抱いていた感情が、本当に恋愛感情だったのか、それとも憧憬だったのかは今でもわからない。
 先輩という立場に立って、後輩と接して、いろんな人間関係がわかるようになれば。
 そして、時が心の傷を癒してくれて、冷静にあのときの自分を見られるようになれば。
 もしかしたらわかるかもしれない。
 愛や京子と一緒に後輩を勧誘しながら…和歌子先輩がそうだったように、無理には誘わない…、秀樹は、ぼんやりとそう思った。
 
                           <おしまい>
 
BACK
HOME