ありがとう
 
 二月になったばかりのある日。
 水木英也は、珍しく一人、学校帰りの道を歩いていた。
 いつもは隣の家に住んでいる、友人で幼なじみの諏訪原藤緒と一緒に帰ることがほとんどなのだが、彼女は今受験のために遠くの街に行ってしまっている。英也達の通う高校は私立大学の附属高校なのでほとんどの生徒たちは受験をすることもなくのんびりとした三年生の一年間を過ごすのだが、彼女は遠くの女子大を受ける道を選んだのだ。
 受験に備えるために、他の生徒たちと違い、毎日遅くまで机に向かっていた藤緒は、年が明けた頃からかなりピリピリしており、一緒にいた英也までストレスを感じるほどだった。
 そのせいか、最近藤緒との関係は少しぎくしゃくしがちだった。関係、といっても別に英也と藤緒は付き合っているわけではないのだが、口の悪い友人などからは「倦怠期か?」などとからかわれたりもした。
 自分は藤緒のことが好きなのだろうか、と、からかわれた時には考えたりもした。もちろん嫌いでないことは間違いない。だが、藤緒に対して自分が抱いている感情が友情なのか愛情なのかはわからなかったし、そもそも友情と愛情のどこが違うのかもよくわからなかった。
 一人で歩いていると、そんな解決できなかった問題がまた頭の中にわき上がってくる。このまま静かな自分の部屋に帰っても状況は変わらない、そう思った英也は、とりあえず誰でも…知らない誰かでもいいから、人がいるところへ行こうと思った。
(そういえば、藤緒抜きで一人で街へ遊びに行くなんて、久しぶりだな)
 そんなことを考えながら、英也は、繁華街へ足を向けた。
 
 諏訪原藤緒は、ホテルの一室で、参考書やノート、文房具をバッグにしまい込みながら、深く息をついた。
 試験の出来は悪くなかった。今まで自分としては結構一生懸命やってきたつもりだったが、そのかいがあったのだろう。
 荷造りを終えた藤緒はホテルをチェックアウトし、駅へ向かった。試験は午後までだったので、早く列車に乗らないと家にたどり着くのが真夜中になってしまう。
 急ぎ足で歩きながら、見慣れぬ街の景色を見るともなしに眺めているうちに、なんとなく、英也のことが思い出された。
 いつも、テストが終わる度に、藤緒は英也と一緒に街へ憂さ晴らしに出るのが恒例になっていて、女友達からは「またデートぉ?」とかからかわれたりもした。別に英也と付き合っているつもりはないのだが、男とか女とかをぬきにして英也と親しいのは確かだし、家も隣なので遅くまで遊び回っていても送っていってもらえるから、一緒にいると便利なのだ。
 もちろんそうは言っても、一緒にいるときもずっと英也を異性として意識しなかったと言えばウソになる。それでも、自分が英也のことを好きなのかどうか自分自身でもよくわからなかったし、自信もないのに変なことを言って英也との今の関係を失うのも嫌だった。
 友だちだろうが恋人だろうが、ただの幼なじみだろうが、英也と一緒にいて楽しいんだし、はっきりさせる必要もないだろう。藤緒はそう思っていた。 駅前の大通りは賑やかで、恋人みたいな二人組もたくさん歩いている。もしかしたら自分と英也も周りからはあんな風に見えたのかな、などと思っていると、ふと、彼らの向こう側のお菓子屋さんの飾りが目に付いた。時節柄、バレンタインの大騒ぎの真っ最中で、店頭のワゴンには大勢の女の子が集まっていた。
 常々藤緒は、「あんなのお菓子屋さんの陰謀だよ」と公言してはばからず、一番親しい男の子である英也にも義理チョコ一つ贈ったことはない。
(今年くらい、お菓子屋さんの陰謀に乗ってあげてもいいかな)
 何となく、藤緒はそう思った。
 もし大学に受かったら、少なくとも四年間は、英也と離ればなれになるのだから。
(いままで十八年ありがとう、って渡したら、英也喜ぶかな? それとも、驚くかな?)
 少し悪戯っぽい考えを抱きながら、藤緒は、駅への道を急いだ。
 
 入試が終わって帰ってきてからというもの、藤緒は、どことなく英也の様子がおかしいような気がしてならなかった。
 どこがどう、というわけではないのだが、なんとなく避けられているように思えるのだ。
 別にあからさまに無視されているわけではない。登下校も相変わらず一緒だし、いつも通りおしゃべりにも気軽に応じてくれる。向こうからも話しかけてきてくれるし、周りの誰が見ても英也が藤緒を避けているようには見えないだろう。
 しかし、いつもずっと英也とべったりだった藤緒は、一緒に遊びに行ったりする回数が減っていることに気づいていた。
「英也、放課後ヒマ?」
「悪い、約束があるんだ」
 今までだって誘いを断られたことがなかったわけではない。けれど、この頃はそれが多くなっているのだ。
 それに…。
 藤緒と英也の家は隣同士で、二人の部屋は向かい合っているのだが、窓から見てみると、英也の部屋に遅くまで電気がともらないことが多い。自分を放っておいて遅くまで何をやっているのか…気になって気になって仕方ない。
 だんだん自分の機嫌が悪くなっていくのが、藤緒自身にもわかった。そのうち藤緒の方からも英也を避けるようになり、次第に何だか本当に二人は疎遠になってきてしまった。
 
 それからしばらくして。
 授業が終わるなり、英也はそそくさと教室を出ていった。今はもう何だか気まずくて声もかけにくくなっている藤緒だったが、この頃英也がどこに行っているのかが気になって、後をついていってみることにした。
 英也は腕時計をちらちら見ながら振り向きもせずに急ぎ足で繁華街に向かっている。
(冷たいなあ。遊びに行くなら誘ってくれたっていいじゃない)
 とか思いながら、妙に後ろめたい気がしてポストの後ろなんかにわざとらしく隠れつつ、藤緒は英也の後を追った。
 英也はやがて繁華街の中心にある広場につくと、また腕時計をちらちら見てそわそわしている。
(…待ち合わせかな?)
 植え込みに隠れてそんな英也を見ながら、なんとなく藤緒もそわそわし始める。
(何やってんだろ、あたし)
 藤緒がだんだん飽きてきた、その時だった。
 英也が時計を見るのを止め、顔を上げる。視線の先には、一人の女性がいた。
 藤緒は、自分の心臓が止まりかけたような気がした。何かの間違いかと思ったが、二人は明らかに待ち合わせをしていたようで、親しげに話を始めている。
 藤緒や英也よりすこし年上であろう、女子大生といった風情の女性だ。背が高くやせ形で、長い髪に白い肌の、女の藤緒から見てもかなりの美人だった。
(そっか…。あの英也が…ねえ…)
 なんだか急に寂しくなった。だが、別に藤緒は英也に好きだと言ったこともなければ言われたこともない。恋人同士でも何でもないのだ。
「…何…やってんだろ、あたし…」
 立ち去る二人の後ろ姿を見送りながら、寂しい気持ちのままで、藤緒はきびすを返した。
 
「どうしたの?」
 いきなり後ろを振り向いた英也に気づき、女性が声をかけてくる。
「…今…藤緒がいたような…」
「藤緒って?」
「あ、俺の幼なじみです」
「女の子?」
「はい」
「じゃあ、彼女か何かなのかな?」
「ちょっ…や、やめてくださいよ…あいつとは…藤緒とは、そんなんじゃ…たぶん」
「ふふ。顔を赤くしながら『たぶん』だなんて。妬けちゃうな」
「かっ…からかわないでください、二宮さん…」
 女性の名は二宮綾子という。
 英也と綾子が出会ったのは数日前、藤緒が受験でいなかった日のことだ。
 なんとなく繁華街にでた英也は、道端で、誰かの財布を拾った。
 届けようと思って歩いていると、一人の女性が、下を見ながら困った顔でうろうろしていた。
 もしかしてと思い声をかけてみると、案の定で…それが、綾子だった。
 しばらくそれがきっかけで話していると、綾子が、英也達の通う高校のOGで、しかも英也の行く大学に通っているということがわかった。
「お礼もしたいし、今の学校のこともいろいろ聞きたいし…大学のことも話せると思うから」
 という綾子の言葉に応じ、英也は綾子と度々会って…今もこうして二人で街を歩いているというわけだ。
「ねえ、英也君」
「えっ? あ…はい」
「やだなあ、そんなに緊張しないでよ」
「はあ…。す、すいません」
 緊張するな、と言われても、今までで学校の話だとかは皆しつくしてしまい、何を話したらいいのかもわからない。それに、こうして二人だけで歩くのも何度か繰り返したがどうしても慣れない。どんな態度でいたらいいかにも戸惑った。
 そういえば、藤緒とだったら二人きりで街を歩くなど珍しくもない。藤緒と何を話したらいいかなんて考えたこともなかったし、藤緒と一緒にいるときにどんな態度でいたらいいかなんて気にもしなかった。
「私と一緒じゃ、つまんないかな?」
「いっいえっ…! そんな…」
 つまんないわけではない。ないのだが…。
 藤緒と一緒の時ほど楽しくもない。それも確かだ。
 結局その日、英也はずっとうかない顔のままだった。綾子ももちろんそんな英也の様子にはすぐ気づいたが、悪戯っぽく笑ったまま、別に責めたりはしなかった。
 
「ごめんね、今日も無理に付き合わせちゃって」
「いいえ、ご馳走様でした」
 結局食事まで一緒に済ませ、結構夜遅くになってから、英也は綾子とわかれることになった。
「英也君って、ひょっとして…女の人一緒に街を歩いたりは、いつもしないの?」
「い…いいえ、別に…そういうわけじゃないですけど…」
「でも、いつも一緒にいる間じゅうずっとものすごく緊張してるから」
「はあ…すいません」
「謝らなくてもいいけど。じゃあ、女の子と一緒に街に遊びに来たりもするんだ?」
「ええ、まあ」
「そういう子と一緒にいるときは、あんなに緊張しないのね?」
「はあ…」
「それって、さっき話してた藤緒ちゃんって子?」
 突然藤緒の名前を出され、英也は少し面食らう。でも、冷静に考えてみると、藤緒以外の女の子と一緒に街に遊びに来たことなどなかったので、戸惑いながらも英也はうなづいた。
「そっか。英也君は、藤緒ちゃんのことどう思ってるの?」
「…わかんないです…。男と女だとか、そういうふうに藤緒のこと見たことなかったから…」
「そっか」
 ふう、と息をついて、綾子は英也に背を向ける。
「何回も何回も付き合ってくれてありがとね。英也君さえよかったら、また誘ってくれると嬉しいな。
 私だってダテに歳くってるわけじゃないから、いろいろ相談に乗れることもあると思うし。
 …じゃ、がんばってね」
 手を振って立ち去る綾子の背を見送りながら、英也は、
「…何をがんばれっていうんだろう…?」
 と、首を傾げていた。
 
 向かいの部屋に明かりがつく。自分は部屋を真っ暗にしたまま、藤緒は横目でそれを見ていた。
(こんなに遅くまで、あの人と一緒にいたんだ)
 胸の中に渦巻く気持ちが何なのか、気づかないほど藤緒は子供ではなかったが、だからといってどうしたらいいかがわかるほど大人でもなかった。
 気づくのが遅れたのが返す返すも悔やまれた。英也がいつも自分の近くにいてくれたから、どれだけ自分にとって彼が大切だったのか気づかなかった。 気づいたときには、手遅れだったなんて。
 それに…。
 考えてみれば、もうすぐ英也とは離ればなれになるかもしれないのだ。
 そうなれば、遅かれ早かれ英也とは疎遠になってしまうだろう。
 どちらにしろ、叶わぬ想いだったのかもしれない。
 …いや、もしも早いうちに自分の気持ちに気づき、それを英也に伝え、受け入れてもらえていたなら…四年くらいは待っていてもらえたかもしれない。
 結局全部、自分の気持ちに鈍感だった自分自身が悪かったのだ。
 さもなくば…。
 ずっとずっと最後まで、気づかずにいた方が、幸せだったのかもしれない。
「ヘンな気おこすんじゃ、なかったな…」
 真っ暗な机の上に置かれた、飾りっ気のない包みを、指でつついてみる。
 今日は、お菓子屋さんの陰謀の日。
 ずっとそう思い続けていられたら、よかったのに。
 
 その日から、藤緒はかなりあからさまに英也を避けるようになった。
「藤緒、帰りに何か食べてかないか?」
「ごめん。いろいろ、やることがあって」
「引っ越しの準備か何か?」
「…まあ、ね」
「そっか…。もうすぐ遠くに行っちゃうんだよな」
「まだわかんないけどね」
「大丈夫だよ。出来、悪くなかったんだろ?」
 笑って言う英也の表情に、底意があるような気がしてならない。
「ねえ?」
「ん?」
「あたしがいなくなっても…平気?」
「え? まあ、そりゃあ少しは寂しいけど…二度と会えなくなるわけじゃないし」
「少しは…か。少しだけ、なんだね」
 言われた意味がよくわからずに戸惑う英也を後目に、藤緒は身を翻した。
「じゃね」
「引っ越しの準備なら、手伝おうか?」
「いいよ」
 振り返りもせず、言い捨てるように言う藤緒。
「英也も、いろいろ忙しいでしょう?」
「えっ?」
 問いただそうと思ったときには、もう藤緒の姿はなかった。
「別に…すげえヒマなんだけどな…」
 
 結局、そのまま藤緒と一緒に帰る気にもならず、一人でしばらくフラフラして、暗くなってから英也は家に戻った。
 暗い部屋に入って、様子がおかしいことに気づく。向かいの部屋、つまり、引っ越しの準備をしているはずの藤緒の部屋に、明かりがついてないのだ。藤緒の部屋のカーテンは遮光カーテンではないからきっちり閉めても光が漏れるし、ましてや今はカーテンも引かれていない。
(忙しいんじゃなかったのか?)
 食事か何かで外しているだけかとも思ったが、よく目を凝らしてみてみると、部屋の中央に、ベッドに寄り掛かって座っている藤緒がいた。明るいうちからそうしていてカーテンも引き忘れた、そんな風情だ。
(環境も変わるしな。合格発表ももうすぐだから、ちょっとナーバスになってんだろう)
 そう思って、英也は、その時は藤緒を放っておくことにした。
(明日の朝、学校に行くときにでも話してみよう)
 
 ところが次の朝、いつも申し合わせたように英也と一緒にでてくる藤緒が一向に姿を現さない。起きたとき向かいの部屋にはもう藤緒の姿はなかったから、寝坊しているわけではないようだし、部屋にいないのなら親に遅刻しない時間に送り出されているだろうから、家にもいないのだろう。
 訝しがりながらも登校すると、藤緒はもうとっくに来ていて、一人で自分の席に突っ伏していた。
「お早う」
「あ…。おはよ」
「どうしたんだよ? 一人でこんな早くに?」
「別に」
 こっちを向きもせずにそっけなく答える藤緒にそれ以上かける言葉もなく、英也はそのまま黙って自分の席に着いた。
 
 藤緒はそれからも、英也を避け続けた。英也の方も、避けられていることにはすぐに気づいたが、どうしてなのか尋ねようにも当の藤緒が自分を避けているのだからどうしようもない。
 そんなある日、夕食の席で母親が、隣の家の娘さん…つまりは藤緒のことだ…が、遠くの大学に受かった、と言い出した。どうやら親同士のおしゃべりで知ったらしい。
 英也は、少なからぬショックを受けた。
 藤緒が、そのことを自分に教えてくれなかったこと、そして、
 藤緒が、遠くに行ってしまうことに。
 
「藤緒っ!」
 いくら藤緒に避けられているとはいえ、もう藤緒を放っておくわけにもいかず、英也はある日の放課後、下校途中の藤緒を捕まえた。
「何よ」
「聞いたよ。受かったんだって」
「まあ、ね」
「おめでとう。なんで知らせてくれなかったんだ?」
「…英也には…関係ないでしょう」
「関係ないことないだろ? だって…」
「だって、何?」
 そこで初めて、藤緒は振り向く。
「だって何よ? 英也とあたしと、どういう関係があるって言うの? あんたはあたしの何なのよ?」
「何…って」
「そりゃ、幼なじみかもしれないよ? けどそれって、長い間一緒にいたって、ただそれだけじゃない!」
 ひとしきり怒鳴ると、藤緒はうつむく。何かをこらえているように。
「それに…。大学に受かったってことは、あたし遠くへ引っ越すって事なんだよ? 英也と…お別れだって事なんだよ? そんなの…英也にそんな簡単に言えるわけないじゃない…」
 小刻みに身を震わせる藤緒にかける言葉も見つからず、ただ立ちつくす英也を、藤緒は涙をいっぱいにためた目でにらみつける。
「あんたは全然気づいてなかったけど! あんたはあたしのこと何とも思ってなかったけど! あたしはずっとあんたのこと好きだったんだよ! 好きな人に…嫌いでも何でもない人に…お別れだなんて言える訳ないでしょう!?」
「ちょっ…待てよっ! お前、俺のこと…」
「好き…だったんだよ。英也が、他の人のこと好きでも…」
「だから、待てって! 俺が誰のこと好きだって!?」
「隠さなくたって…いいよ。あたし、この前見ちゃったの。英也が、女子大生みたいな人と一緒にいるところ」
 こぼれ落ちる涙を見せたくなかったのか、藤緒は再び英也に背を向ける。
「女子大生…って、二宮さんか? だったら…」
「聞きたくない!」
 事情を説明しようとする英也の言葉を遮り、藤緒が怒鳴る。そして、もう一度だけ、英也を振り返った。
「心配しなくても…邪魔したりしない。あんたのこと好きだ、って言えば、あんたもあたしを好きになってくれるなんて都合のいいことは…考えてないから。どうせあたしはいなくなるんだし…すぐに、忘れられると思うから…だから、気にしないで」
「ちょっと待てって!」
 引き留める英也の声に、藤緒はまるで聞く耳を持たなかった。
「今まで…ずっと、ありがとう」
 藤緒の無理な微笑みは、長くは続かなかった。
「でも…さよなら…っ!」
 英也には、泣きながら走り去る藤緒を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
 
「藤緒! 藤緒っ!」
 向かいの部屋に向かって叫んでも、藤緒は返事一つしなかった。
 しかたなく、ため息をついて英也は机に突っ伏す。
(藤緒が…俺のことを…?)
 先程のことを思い出してみる。よく考えるまでもなかった。
(俺も…やっぱり、あいつのこと…好きだったんだな)
 そのことに気づいたのはいいのだが、藤緒はとんでもない誤解をしている。
(どうすりゃいいんだよ)
 今まで、藤緒とは何でも言い合えた仲だ。それだけに、二人の間に誤解があったことなどはほとんどなかった。たとえあったとしてもそれはすぐに解けていた。
 だが、今回はどうも厄介なようだ。誤解を解く機会もなかなか与えてもらえそうにない。
 考えあぐねた英也は、受話器を手に取った。番号を何ケタかおして、思いとどまり受話器を置く。
『いろいろ相談に乗れることもあるだろうし』
 綾子はそう言っていたけれど。
 これは、自分自身で考えなければならないことだ。
「また二宮さんに会って、よけい話をややこしくしてもなんだしな」
 苦笑して、英也はもう一度、藤緒の部屋を見据えた。
 
 しばらくは英也もどうしたらいいかわからず、藤緒もあいかわらず英也を避け続け、二人とも一言も口をきかないままだった。
 そして、三月の半ば。藤緒が引っ越す前日の夕方。
 藤緒は、これでしばらくは自分の育ったこの街ともお別れ、と思い、あてもなくふらふらしていた。
 相変わらず、気分は晴れぬままだ。数日前、英也とあんな別れ方をしたままだったせいだ。
(まあ…新しい街に行けば、もっといい男もいるでしょう…)
 とか思ってみるのだが、もやもやしたものが消えるわけもない。溜息ばかりがあふれてきた。
「何…うかない顔してんだよ」
 そこに、何だか妙にわざとらしい声がかけられた。
「英也…?」
 反射的に駆け出してしまう藤緒を、英也はあわてて追う。しばらく走って、藤緒の手首を捕らえた。
「は…放してよ! 痛いっ!」
「俺の話を聞いてくれ! そしたら、放してやる」
「わかったから、放して! 痛いってば!」
 しばらく藤緒はじたばた暴れていたが、観念したのか振り向いて、むくれた顔で英也を見る。
「で? 話って何?」
「俺の言うこと、信じてくれるか?」
「うん…。まあ、ね」
「そっか…」
 英也は突然赤くなって黙り込む。そんな英也を見て、なんとなく気まずくなり、藤緒も自分の頬が赤らむのを感じた。
「何よ?」
「だから…あの、な?」
「なんなの?」
「…言いたいことだけ、はっきり言うぞ。
 俺も、お前が好きだったんだ」
 一瞬、二人とも何も言えなくなる。先に金縛りが解けたのは藤緒の方だった。
「…はあ?」
「はあ?って何だよ…。結構、勇気を振り絞ったんだぞ」
「よしてよ…。あたしが明日いなくなるからって、いい加減な事言うの」
「いい加減なことなんかじゃない。本気だよ」
「…じゃあ何? あんた、二股かけようってわけ?」
「違うって! いいか、よく聞けよ! 二宮さんはなあ…」
 英也は早口で、綾子のことを説明した。猜疑心でいっぱいだった藤緒の表情が、だんだんと半信半疑にかわっていく。
「本当…なの?」
「本当だよ。
 信じて…もらえないか?」
 不安そうな顔の英也に、藤緒は…しばらくためらってから、首を横に振って見せた。
「信じる」
 一言言って、にっこり微笑んでから、藤緒は急に悲しそうな顔になった。
「信じる…けど。言ってくれるのが遅すぎたよ。
 あたし…明日から…いなくなっちゃうんだよ?」
「わかってる。けど、もう二度と会えなくなるわけじゃないだろう?」
「でも…あたしだって英也だって、新しいいろんな人に会うし…それでもずっと同じ気持ちでいられるか…」
「なら、夏休みとか、正月とか…お前に会う度に、俺はお前に惚れ直す」
 言った英也も言われた藤緒も、一気に顔が真っ赤になる。
「…は…恥ずかしいこと…言わないでよ…バカ…」
「ダメか?」
「…いい…よ。…意地悪だなあ…。あたしがどういう気持ちか、知ってるでしょう…?」
「そっか…よかった」
 ほっ、と息をついた英也は、上着のポケットをごそごそ探る。
「はい、これ」
「何?」
「今日はさ…ほら。お前は…お菓子屋さんの陰謀って…笑うかも、しれないけど…」
 今日が何の日か、しばらく考えていた藤緒は、納得顔になった直後に呆れ顔になった。
「あのね、英也。ホワイトデーってのは、バレンタインのお返しをする日だと思うんだけど? あたし、あんたにチョコあげた覚えなんてないよ」
 用意だけはしたけど。藤緒は心の中で舌を出す。
「…いいじゃないか…男から贈ったって」
 赤くなって小さな声で言う英也を見て、藤緒はぷっ、と吹き出した。
「…英也らしいよ。すごく…」
 そして、差し出された包みを受け取り、そのまま英也の手を握る。
「よかった。あたしの知ってる英也のままだ…」
「え?」
「二宮さん、って人と一緒にいるの見て、すごく不安だったんだよ。なんだか、英也が遠くに行っちゃったみたいで…。あたしの知らない英也になっちゃったみたいで…」
 英也の手を握る手に力を込めながら、つぶやくように言う藤緒。そんな彼女の肩に手を置いて、英也はできる限り優しい声で言った。
「そんなことない。俺、ずっといままで十八年、お前に見られ続けてたんだから、今更お前の知らない俺になんてなれないよ」
「そっか…そっか…」
 あふれそうになる涙をこらえ、藤緒は、まっすぐに英也を見つめた。
「このプレゼントも…今言ってくれたことも…すごく、すごく嬉しい」
 そして、にっこり微笑む。その拍子に涙がひとしずくだけ、頬を伝った。
「ありがとう」
 頬を染めて、言葉を続ける。
 この前とは、違う言葉を。
「そして、これからも…よろしく」
 
                           <おしまい>
 
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