あなたの願いは
 
 安西静恵はイライラしていた。
 理由は二つ。
 一つは、今目の前に書いてあるノートにいくら数字を並べてみても、問題の数式が解けないから。
 もう一つは、そんなに自分が苦しんでいるのに、周囲の級友達が大声で楽しそうにさわいでいるからである。
 静恵は高校三年生、すなわち受験生だ。
 他の科目は問題ないのだが、数学の成績だけはどうも伸び悩んでいた。
 静恵は生来生真面目な正確なので、一生懸命苦手科目の克服に励んでいる。今日の数学の授業の時にも、先生に聞きたい質問がいくつかあった。
 だが、先生の都合とかで授業は自習で、仕方なく静恵は自分でまたうんうん悩み始めたというわけだ。
 しかしいくら悩んでも解法はひらめかず、イライラだけがどんどんつのっていった。
 いつしか静恵の手は、彼女の意志を離れ、ノートにぐしゃぐしゃと適当な線を引き始めた。静恵の頭の中の混沌をそのまま図にしたような変な図形がノートの上に出来上がる。
 静恵はふと自分が訳の分からぬ落書きを始めたことに気づく。そして深くため息をつくと、頭を抱えて「あー」とも「うー」ともつかないうめき声を上げ、机の上に突っ伏した。
 その瞬間。
 一瞬にして太陽が厚い雲に隠れたかのように暗くなり、周囲の温度がすうっと下がった…ような気がした。
 びっくりして静恵が身を起こすと、目の前に何か黒い靄がわだかまっている。やがてその靄は徐々に形を取り始め、最後には自分と同じくらいの年頃の少女の姿になった。
 真っ白な肌の少女だ。唇までもが血の気もなく白い。髪と瞳はそれと対照的に漆黒。着ている服は純白のブラウスに漆黒のフレアスカート。黒い革手袋をはめた手を体の前にそろえ、すこし前屈みの姿勢で、不安そうな視線を静恵に向けている。
「あのう…お呼びですか?」
 その少女は、おどおどした様子でそう言った。
「う…うわあぁっ! な、何よあんた!」
 いきなり目の前にそんな少女に現れられれば、誰だって驚く。静恵も例外ではなく、大声で叫びながら立ち上がった。クラスの視線が静恵に集中する。
「あ…あの、あまり驚かれますと変に思われますよ。わたしの姿、貴女にしか見えませんから…」
 少女は心配そうに周囲を見回すと、伏し目がちに静恵を見ながら言った。
「だから! あんたは何なの!」
 静恵はそんな言葉も気にせず、大声で少女を怒鳴りつける。
「何…って、貴女がお呼びになったんじゃないんですか?
 わたし…悪魔なんですけど」
 少女は黒い瞳に不安の色をたたえながら、一歩踏み出して言った。
「あくまあ!?」
 素っ頓狂な声を上げ、静恵は一歩後ずさる。
「ねえ…どうしたの、安西さん?」
 友人の坂本和子が、心配そうに話しかけてきた。彼女はこの自習時間に、静恵同様一生懸命勉強していた珍しい生徒の一人だ。そして、静恵がこういうときに騒ぐ生徒ではないということもちゃんとわかっている。それだけに、突然大声を上げたり立ち上がったりした静恵が心配になったのだろう。
『あ、なんでもないよ』
 突如、静恵の口が本人の意思を無視し、そう言った。それに続き、体も本人の意思を無視し、教室を出ていく。
「申し訳有りませんが、落ちついて話せるところに参りましょう。
 悪魔への用事は、密かにするのが普通ですから」
 悪魔と名乗る少女がそう言う。静恵はまだ訳が分からなかったが、教室で騒ぐのは確かに御免だったので、大人しく外に出ることにした。
 後ろでは和子が心配そうに見ている。どうやら受験勉強の疲れか何かと思って心配してくれているようだ。静恵は少し申し訳なく思い、そして、この悪魔と名乗る少女をきちんと問いたださなくては気が済まなくなった。
 
「説明してもらいましょうか」
 人気のない学校の屋上で、静恵は悪魔と向き合った。悪魔はそんな静恵の態度におどおどしており、どうも悪魔らしく見えない。
「説明…って…」
 驚いたような困ったような顔で、悪魔は静恵から視線を背ける。そんな悪魔を見て、静恵は一気にまくしたてた。
「なんで悪魔なんかがあたしに話しかけてこなけりゃならないの? あたしは悪魔にお願いしたいことなんてないし、ましてや悪魔に魂売るつもりなんてこれっぽっちもないんだからね!」
「そんな…。だって、だって貴女、ちゃんとお呼びになったじゃないですか…。秘法の印を描いて、呪言を唱えて…」
「秘法の印? 呪言?」
「これですよ」
 悪魔はいつの間に持ってきたのか、静恵のノートを広げてみせる。そこには静恵の落書きがまだ残っていた。
 そして、それと同時に「あー」とも「うー」ともつかない声を発した。それは、さっきの静恵のうめきにそっくりだった。
「じゃあ…その落書きとその声が、悪魔呼ぶ儀式ってわけ?」
 きょとんとしながら悪魔を指さし、尋ねる静恵。
「ご存じ…なかったんですか?」
 悲しそうな顔で、軽く握った手を口元に当てながら、一歩後ずさる悪魔。
「知る訳ないでしょう。とにかく、悪魔なんかに用はないわ、とっとと帰って」
 静恵は何となく腹が立ってきた。先ほどまでの数式のストレスのはけ口が欲しかったのかも知れない。加えて、悪魔といってもこの少女は少しも悪魔らしくないのだ。実感がわかない。
「そんな…。帰れだなんて、ひどいです…」
 冷たい静恵の言葉を聞いて、悪魔の少女の瞳がうるんだ。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「この頃は呼んでくれる人もぜんぜんいなくて、とっても寂しくて…本当に久しぶりの呼び出しで、楽しみにして来たのに…それなのに…何もしないで帰れなんて、あんまりです…」
 悪魔の少女はその場に座り込み、うずくまると、顔を覆ってしくしく泣き始めてしまった。
「ああ…ちょっと」
 静恵は困ってしまった。相手がちっとも悪魔らしくないせいで、泣かせてしまうと罪悪感がある。
「でも…。どうでもいいようなお願いで魂持って行かれるのも困るし…」
 悪魔の少女はイヤイヤをするように全身を揺すると、涙声で言った。
「魂なんていつでもいいです…それこそ、寿命がつきて亡くなる直前だってかまいません…。ただ、ただわたし、呼ばれて、自分の力を使えるのが嬉しいだけなんです…」
「それ、ほんと?」
 静恵が訝しげに尋ねると、悪魔の少女は無言で頷いた。
「…やっぱり、三つだけ?」
「いえ…幾つでもかまいません」
 静恵の頭の中で打算が働いた。この悪魔を近くにおいておいてもかまうまい。悪魔とはいえ、ひどく悪いことができる奴でもなさそうだ。何か本当に願い事ができたとき、利用できるだろう。
「…いいわ、帰らなくても」
「本当ですか!」
 がばっ、と悪魔の少女は顔を上げる。涙でぐしょぐしょになった顔には、驚きと少しの希望があった。
「でも、あたし今別に願い事らしい願い事ないからさ。お願いは保留にしておくわ。待てないなら帰るのね」
 腕を組み、横目で悪魔の少女を見ながら、静恵は言った。
「ま…待ちます! いつまでだって!
 ああ…ありがとうございます!いい人に呼んでもらえて、わたし、幸せです」
 悪魔の少女は涙を拭き、微笑みを浮かべて静恵の正面に立つ。
「いい人、って…。悪魔にいい人っていわれて、喜んでいいのやら…」
「…気になさらないで下さい。
 あ、そうだ。自己紹介が遅れてしまいましたね。
 わたし、ルアエルと申します。よろしくお願いしますね」
 少し照れたように差し出されたルアエルの右手を握って、静恵は無愛想に答えた。
「安西静恵よ」
「静恵さまとお呼びしていいですか?」
「照れくさいけど…別にいいわよ」
「じゃあ、静恵さま。何でもお言い付け下さいね。一生懸命頑張りますから」
 ルアエルは静恵の右手を取ったままその場にひざまづくと、静恵の手の甲にそっと口づけた。
 この仰々しさはさすがに悪魔だな、と、静恵は何となく思っていた。
 
 それから、ルアエルは静恵にいつもつきまとうようになった。とはいえ、側にいて欲しくないときは来るなと言えば来ないし、側にいても静恵の迷惑になることは何一つしない。仰々しい羽だの角だのがあるわけでもなく、服装だって怪しい衣装を着ているわけでもない。静恵はルアエルが本当に悪魔なのかと疑いを持ち始めていた。
 しかし、あの現れ方は普通ではなかったし、それに、静恵以外には見えないというのも本当のようだ。悪魔かどうかはともかくとして、一般人でないことだけは確かである。
 だが、今までに静恵が「悪魔」という物に対して抱いていたイメージにルアエルがまったく当てはまらないと言うこともまた確かだ。物静かで、引っ込み思案で、大人しくて、いつも相手を気遣っているような態度など、悪魔が取るとも思えない。
 いずれにせよ、ルアエルがいてもいなくても、自分のおかれた状況が変わるわけでもない。静恵は受験生で、そして近々定期テストがあるのだ。推薦も考えている静恵にとって、定期テストはかなりの重要性を持つものである。
 毒にも薬にもならない悪魔になど、かまっている暇はなかった。
 そんなわけで、今日も静恵は自室で机に向かっていた。相変わらず数学がわからない。気が散るのでルアエルも追い出して、また一人で頭を抱えていた。
 やがて頭の疲れが限界に達した静恵は、気分転換にコーヒーでも飲むことにして机を離れた。ドアを開けると、真っ正面にルアエルが立っている。
「休憩ですか? ご苦労様です」
「あんた、ずっとそこに突っ立って待ってたの?」
 尋ねる静恵に向かって、ルアエルは微笑んで見せた。
「そうですけど、お気になさらないで下さい。わたし、悪魔ですから、これくらいでは疲れません」
 静恵はそう言うルアエルに気のない返事を返すと、階下に行こうとした。
「お茶ですか? よろしければわたしがご用意いたしましょうか?」
「いいわよ、そんなの。それに、ずっと座ってるのにも飽きたから自分で動きたいの。部屋の中にいていいわよ」
 ルアエルはそう言われると、一礼して部屋に入った。静恵はそれを後目に台所へ向かう。
 部屋に戻ると、ルアエルは行儀よく正座して待っていた。静恵はテーブルにコーヒーカップとポット、そしてお菓子を置き、自分は足を伸ばして座る。
 しばらく黙っていると、ルアエルが遠慮がちに口を開いた。
「あのう…。ひとつ、うかがってもよろしいでしょうか」
「何?」
「いつも、机に向かって何をなさっているのですか?」
「勉強」
 静恵は無愛想に即答した。ルアエルはまだ今一つ理解しきっていないようだった。そんなルアエルを見て、静恵は気分転換とばかりに、受験や大学のことなどをルアエルに説明した。
「そうなんですか…ご立派ですね」
 心底感心したように、ルアエルが言う。
「立派だなんて、そんなことないよ。みんなやってるわ、大学に入りたい奴はね」
 静恵は少し照れてしまった。今まで受験勉強をすることなど当たり前だと思っていたので、立派だなんて誰からも言われたことがなかったから。 
 その実、静恵の努力は人並み外れているのだ。定期テストはいつもトップだし、数学も苦手とはいえ人並み以上ではある。それでも彼女は油断大敵とばかり、努力し続けている。立派なことは間違いないのだが、受験期は勉強して当然、と思われているせいか、特別ほめられたりはしない。彼女自身もそういうものだと思って、そのことに不満はない。
 だが、受験という物がどういうものか全く知らないルアエルにとって、その努力は称賛に値するものだったらしい。ひたすら感心している。
「よしてよ。立派なんて言われたって数学の問題ひとつまともに解けないんだから」
「数学? どういうものですか?」
 尋ねるルアエルに、静恵は問題集を放ってよこした。ルアエルはそれを眺めると、二三度小さく頷いた。
「あの…。ここ、こうなんじゃないかと思います」
 ルアエルは机の上の鉛筆で、静恵の計算用紙にいくつか書き込みをして渡した。
「あ…あんた、数学わかるの?」
 驚いて静恵が尋ねると、ルアエルは恥ずかしそうにうつむいて、小さくうなづいた。静恵はあわてて問題集の解答のページをめくる。あっている。
 絶句してルアエルを見つめると、彼女はますます恥ずかしそうに顔を伏せた。
 考えてみればルアエルは悪魔だ。人間の考えるようなことくらい簡単なのかも知れない。
 ふと、彼女に教えてもらえば捗るだろうな、と思った。しかし、そんなつまらないことを頼むわけにはいかない。曲がりなりにも相手は悪魔だ。悪魔への願いなど気軽にするものではない。魂などいつでもいいとルアエルは言ったが、願いを叶えたら態度が一変、ということだってあり得るのだ。
「あの…。よろしければ、お教えしましょうか?」
 そんな静恵の心の中を見抜いたかのようにルアエルが申し出てくる。
「いいわよ別に。悪魔に頼むようなことじゃないわ」
「もしかして、魂のことをご心配なさっているのですか? いつでもかまわないんですけど…」
「信用できるわけないでしょう、悪魔の言うことなんて」
 静恵が言うと、いきなりルアエルは泣きそうな顔になった。瞳に大粒の涙がにじんでくる。
「そう…ですよね。わたし…悪魔、ですものね。
 わかりました…」
 ルアエルは手袋を外すと、右手の爪で左手の親指の腹を小さく切り裂いた。異様なほど鮮やかな赤い血がそこからあふれる。そしてどこからか羽ペンと羊皮紙を取り出すと、血文字で何か書き始めた。
 静恵がいぶかしんで覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
『私、悪魔ルアエルは、
 召喚者安西静恵の許しがない限り
 その魂を取らぬことを
 自らの名と存在とにかけて
 ここに誓います。
             −Lurel』
 最後のサインのところ以外は、ご丁寧にも日本語で書いてある。
 ルアエルは、くすん、と小さく声を上げると、その羊皮紙を静恵に渡した。
「このような誓いや契約を破ると、わたしたち悪魔は消滅してしまいます。
 これで…信用して、もらえませんか」
 座り込んだまま、上目遣いの潤んだ瞳で、ルアエルはすがるように静恵を見つめた。
 また泣かせちゃった、と、静恵は気まずい気持ちでいっぱいになった。ここまでやるからには、信用してもいいのかも知れない。
「…わかったわ。信用してあげる」
 静恵が言うと、やっとルアエルの顔に笑みが戻った。そしてまた静恵の手を取り、そこに口づけた。
 そして結局、静恵はルアエルに数学を教えてもらうことになった。教えてもらってわかったのだが、ルアエルの知識は人間のレベルを遥かに超えている。悪魔なのだから対抗意識を燃やしても仕方がないのだが、むきになった静恵はあれもこれもとルアエルに尋ね、その結果テスト範囲からは逸脱した問題まで容易く解けるようになっていた。
 
 そして、テスト当日。
「安西さん、どう?」
 和子が不安そうに尋ねてきた。
 彼女は静恵に匹敵する努力家である。現にいくつかの教科…特に数学…では、静恵の点数を超えている。合計点ではわずかに静恵に及ばないことがほとんどだが、いつ彼女がトップになってもおかしくないし、彼女にだったらトップの座を奪われても仕方がないと静恵も思っていた。それは、彼女とは高校に入った頃からの友達だからということもあるのかもしれない。
「今回は頑張ったから、結構自信あるんだ」
 微笑んで静恵は答える。数学が一通り片づいてからわかったのだが、ルアエルは全教科見事にこなすのだ。おそらく、先生よりもその能力は上だろう。英語などはイギリスやアメリカの人並み…いや、翻訳も完璧なだけにそれ以上で、解説書の不備まで指摘した。外国の人に召喚されることもあるのだろうから、当然といえば当然だが。そう言えば、あの血文字の契約もかなりの達筆だった。
 つまり、静恵にはとてつもなく優秀な家庭教師がついたということだ。自信がつくのも当然だ。だが、そう答えると、和子はますます不安そうな顔になった。
「そう…なんだ」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。頑張ろうね」
 和子はそう言って自分の席に着いた。
 そんな和子を、静恵は不安そうに見る。
 最近和子は元気がないのだ。顔色もよくないし、話しかけても上の空でいることが多い。そればかりか、一人で何かあらぬ事をぶつぶつ言っていることもたまにある。
 ひどく疲れている様子にも見えるし、根を詰めすぎているのではないかと思うと、心配で仕方がない。
 和子はそんな静恵の気持ちを知ってか知らずか、教科書を出して何かつぶやいている。
 だが、ここでいくら静恵が気を揉んでみてもどうにかすることができるわけでもない。とりあえず今は、テストに集中しよう。
 静恵は、そう割り切った。
 
「どうでした?」
 テストが終わって教室から出ると、廊下で不安な顔のルアエルが待っていた。そんなルアエルに静恵は笑顔とVサインで答える。とたんにルアエルの顔にも笑みがあふれた。静恵が成功したのがよほど嬉しいようだ。
「あんたのおかげよ。ヤマもだいぶあたったし、外れてたのも問題なく解けたわ。ありがとう」
 礼を述べると、ルアエルは思いきり照れた。そんなルアエルの様子が楽しくて、静恵は笑う。つられて、ルアエルも照れながら小さく笑った。
 ルアエルは静恵にしか見えないので、端から見ていると静恵が一人でさも楽しそうに笑っているように見える。テスト後だし、静恵が学年トップということは誰でも知っているので、今回もよほど出来がよかったのだろうと皆が思い、うらやむような目で見ながら苦笑したりしていた。
 そんな中、教室のドアのところで、和子が静恵を見つめていた。…羨望と、嫉妬と、悔しさと、そして少しの憎悪の入り交じったような表情で。思い詰めた様子で。
 ルアエルと話し込んでいた静恵は、そんな和子に気づかなかった。
 
 それから一週間後。テストの結果が発表された。
 静恵は掲示板の前で、思わず小さくガッツポーズを作ってしまった。今回もトップだ。しかも、苦手科目の数学で今までにない高得点を取ったため、二位以下に大差をつけている。
「おめでとうございます」
 ルアエルが自分のことのように喜んで、お祝いを述べる。
「あんたが教えてくれたからよ。感謝するわ」
「そんな…」
 相変わらず、ほめてやるとルアエルは面白いように照れる。こうしてルアエルをからかうのは、すっかり静恵の楽しみになっていた。
「これで楽になった!」
 静恵は大きく伸びをして、嬉しそうに言う。ルアエルがきょとんとしているのを見て、静恵は訳を話し始めた。
 この高校にはある有名大学の指定校推薦の枠が一つだけある。大学が有名なだけに当然多くの生徒がそれを希望するのだが、学校が推薦するのは無論一番成績の良い生徒だ。そのための資料となるのは定期テストである。静恵は今までずっとトップだったので、その推薦が九分通り決まっていたのだが、今回のトップ…それも苦手科目の克服というおまけつき…で、推薦はほぼ間違いなくなった。
 静恵は努力家ではあるが、決して勉強大好きのガリ勉女ではない。十八歳の少女らしく、遊びたいことややりたいことは他にいくらでもある。だから、早くに進学を決め、心置きなくいろんなことをゆっくりとやろうと思い、今まで勉強に明け暮れてきたのだ。
 早速今日の放課後には買い物にでも行こうか、と静恵が思っていたときだった。
「ねえ…安西さん。ちょっと」
 声をかけてくる者がいた。振り向くと、和子がにっこり笑って立っている。だが何となく、その笑みはぎこちないような気もした。
「お話があるんだけど…付き合ってくれない?」
 
 人気のない屋上で、手すりに身を預け、静恵に背を向けたまま、和子は話し始めた。
「おめでとう、安西さん…」
 その声にまるで生気がなかったため、静恵は寒気すら感じた。
「これで、指定校推薦本決まりね。数学まで満点近くなんてすごいじゃない、安西さん」
 静恵は動くことはおろか、声を出すこともできなかった。不安とも恐怖とも知れない感情が、心の中に満ちて行く。
「どうしてなの、安西さん」
 和子が振り返る。その形相を見て、静恵はビクッと体が震えた。蒼白な顔面には表情が全くなかったのだ。普通じゃない、と思った。
「安西さん」
 友達になってもずっと、和子は静恵のことを「安西さん」と呼んでいる。誰に対してもそんな風なので、別に今までは何とも思わなかったが、今はその呼び方がなぜか恐ろしかった。
「私も、指定校狙ってたのよ。でも、いくら頑張っても安西さんにはかなわなかった。ずっとずっと二番で、すっごく悔しかった。だから今回は死ぬ気で頑張ったわ。寝る間も惜しんで必死に勉強した。なのに、どうしてなの? どうして得意科目の数学でまで、安西さんに負けなきゃいけないの?」
 静恵は絶句した。何と言っても和子を傷つけそうな気がしたからだ。ましてや、悪魔に教えてもらったからだなどと言ったら、からかっているとしか思われないだろう。
「そ…そんな…。でも、和子だったら大丈夫よ、指定校推薦じゃなくたって普通の推薦だって、本試験だって好きな大学行けるわ」
「下手な慰めはやめて!」
 やっとのことで静恵がなんとか紡ぎだした言葉に、和子の叫びが即答する。
「私がどんなに頑張ったって駄目なのよ! 全教科安西さんに負けたのよ! 駄目なのよ、私は駄目なの!」
 和子は頭を抱えて、聞きたくないと言うように首を振る。
「駄目だなんて…そんなことないよ、絶対。和子、今までだって頑張ってきたじゃない、きっと…」
「駄目なのよ!」
 静恵の言葉を、和子はにべもなくはねつける。
「そうよ…私は頑張ってきたわ、ずっと、ずっと。安西さんにいつも負けてて、次こそ絶対って思って前より頑張っても、それでも駄目で…今回なんて、得意な数学でまで…。
 もう駄目よ! 私もう頑張れない!」
 髪を振り乱し身を翻すと、和子は手すりを乗り越えようとした。慌てて静恵が駆け寄ろうとする。
「来ないで! 来たら飛び降りる!」
 しかし、和子にそう言われ、静恵は動けなくなる。
「安西さん…。貴女がいなければ、って思ったことも何度もあった。でも、そんな風に考える自分がとっても嫌だった。そんなのじゃなくて、実力で安西さんに勝ちたかった。だけど駄目だった。
 …あなたの勝ちよ」
「勝ちとか負けとかそんなの…」
 続きは悲鳴にかき消された。和子が宙に身を躍らせたから。
「ルアエル! 和子を助けて!」
 必死に叫ぶ。今までずっと黙って見ていたルアエルは、言葉に応じ自分も飛び降りた。
 恐怖と驚愕に硬直していた静恵がようやく動けるようになって、手すりに駆け寄り下を見ると、和子は植え込みの中に突っ込んで倒れている。真っ直ぐ落ちていれば、下はコンクリートだったはずだ。ルアエルが体当たりしたか何かで、何とか植え込みに落とすことができたのだろう。
 飛び降りに気づいた周囲の人々が集まってきて、にわかに騒がしくなってきた。
 
 和子の怪我は幸いにも大したことはなかった。医者によると、受験勉強によるノイローゼが原因の発作的な飛び降りだったということだ。
 気に病むな、とその時に言われたが、そんなのは到底無理だった。警察だの学校だのに散々事情を尋ねられ、遅くに帰ってきてから、静恵はずっと机に突っ伏してため息をついていた。
「ルアエル」
 さっきからずっと部屋の隅で泣いている悪魔に声をかける。返事はない。
 ルアエルはただ泣きながら謝るだけだ。わたしがもっとしっかりしていれば、和子を飛び降りさせることも、軽いとはいえ怪我をさせることもなかったと。
「ねえ、ルアエル」
 だが、ルアエルを思いやるだけの心の余裕は静恵にもありはしない。何度も呼び続けて、ようやくルアエルが振り向いた。
「あたし…頑張っちゃいけなかったのかな」
 ルアエルが驚いたような顔をして静恵を見る。呼んだ静恵の方はルアエルの方を見もせず、また深いため息をついて、ぽつりぽつりと話し続ける。
「あんたがいろいろ教えてくれて、あたし前よりずっと頑張ったんだ。頑張れば頑張っただけ進んだから、面白くてさ…。そうやって頑張ったから、テストの点は良くなったわ。だけど…、あたし、調子に乗ってて和子があんなに思い詰めてるなんて全然気づかなかった」
 何か、ルアエルが言おうとする。だがそれを遮って、静恵は続けた。
「あたしも、周りを気遣う余裕、無くしてたんだね。こんなことならあんなに頑張ったりしなければよかった。
 あたしがもっとちゃんと、人の気持ちを考えてあげられてたら…」
「やめてください!」
 ルアエルが怒鳴った。ルアエルがこんなに大声を出すのを、静恵は初めて聞いた。
「自分を…自分をそんなに責めないで下さい。悪いのはわたしです、わたしが悪いんです。わたしが来たりしたから、わたしが無理に静恵さまの願いを叶えようとしたりしたから!
 やっぱり…やっぱりわたし、悪魔だから…」
 そう言って再び泣き出すルアエルを見て、静恵は、自分はたった今自分で言ったことが、まだわかっていなかったということに気づいた。
 つらいのは自分だけだと思っていた。ルアエルがどんな気持ちでいるかということなど、これっぽっちも考えていなかった。
 ルアエルも自分同様、責任を感じていたのだ。和子があんなことになったのは、静恵に負けたから。静恵が和子に勝ったのは、自分がいろいろ教えたから。…ルアエルはそんな風に思っていたに違いない。
 そして、悪魔のくせに心優しいルアエルは、自分のせいで起こったはずのことで、静恵が心を痛めるのが耐えられなかったのだろう。
「ごめんね…ルアエル」
「謝ったりなさらないで…悪いのはわたしです…」
 そうつぶやくと、取り乱して泣きじゃくっていたルアエルは、きちんと居住まいを正した。
「わたし…帰ります」
 静恵はその言葉を聞いて驚いた。ルアエルは、あんなに自分の力で願いを叶えたがっていたではないか。それなのにどうして? 魂だって取っていないのに。
「わたし…これからもきっと、こんな失敗してしまうと思うんです。ううん、失敗なんかじゃなくて、わたしが何かすると必ずこうなるんだわ…。
 だってわたし、悪魔なんですもの」
 いうと、ルアエルは正座して、礼儀正しく頭を下げた。
「短い間でしたけど、本当にお世話になりました。…静恵さまのこと、忘れません」
 そして、立ち上がろうとする。その肩に、静恵はそっと手をおいた。
「行かないで」
 自分を引き留める言葉を聞いて、ルアエルの顔が驚きでいっぱいになる。
「ルアエル。今いなくなるなんてひどいわ。あんたがいくら自分が悪いって言ったって、あたしが責任感じずにいられるわけないじゃない。
 あんたがつらいのはよくわかるわ。けど、あたしだってつらいのよ。すごく、すごくつらいの。和子は高校入ったときからの友達だったんだから。
 きっと和子は退院しても、もう前の通りの友達でいてはくれないと思う。
 …すごく寂しくて、悲しいのよ? それなのに、あんたあたしを放って帰っちゃうって言うの?」
「…わたし…こんな…こんなわたしが…ここにまだいていいんですか?
 静恵さまと、一緒にいていいんですか…」
 涙目の静恵がうなづく。それを見たルアエルの瞳から涙があふれた。ルアエルはその涙を拭おうともせず、静恵に飛びかかるように抱きつくと、童女のように大声を上げて泣き出した。
「今度のことはお互いつらいけど、でも、これからもずっとこんなことになるなんてことはないと思う。
 だから、ルアエル。一緒にいて、あたしの願いを叶えて。ね?」
 優しく言う静恵の胸の中で、泣きじゃくりながらもルアエルは何度もうなづいた。静恵は、後は黙ったままで、そんなルアエルの髪を優しくなでていた。
 
 指定校推薦が決まった静恵には、大学入学まで特にやらなければならないことはない。
 あの事件のせいでしばらく学校に行く気にならず、一週間ほど休んだが、それでも別に困ることはなかった。学校側もショックを受けたであろう静恵を気遣ってか別に何も言ってこなかった。
 学校を休んだからといって遊びに行く気にもならず、部屋でただルアエルとしゃべったりしているのにも飽きた静恵は、気持ちの整理がついたこともあり、久しぶりに学校へ行ってみた。
 ちょうどその日、退院して自宅で休んでいた和子も久しぶりに出席してきた。だが、彼女と顔を合わせた静恵は、彼女との間に見えない、だが分厚い壁があることを感じずにはいられなかった。結局、その日一日和子とは一言も口をきかなかった。
 その次の日から、和子はまた学校に出てこなくなった。気になった静恵は電話をかけてみたり、家を訪ねたりしたが、結局取り次いでもらえず、和子とは話せずじまいだった。
 最後には、静恵も諦めた。こうなることは半ば覚悟していたことだ。とても、とても残念なことだが、もうどうしようもないだろう。
 出席日数が足りなくなって推薦を取り消されるのも馬鹿馬鹿しいので、静恵はそれからも毎日きちんと学校に通ったのだが、和子はもう二度と…卒業式の日にさえ…、学校に来ることはなかった。
 
 そして時は過ぎ、静恵は高校を卒業して、大学に入学し、一人暮らしを始めた。
                           <つづく>
 
 まだここで話は半分くらいですが、この続きは、ほしみそうが復刊したその号に書こうと思います。新入生がいっぱい入って、ほしみそうがまた発行されることを願ってますので。
 
 
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