閲 覧 室

長野郷土史研究会の機関誌「長野」には、これまでたくさんの著名な方々が寄稿しています。その中から、作家の

田辺聖子、井出孫六、新田次郎(故人)の三氏のエッセイを紹介します。田辺氏は地震特集号に、阪神大震災で

「九死に一生を得た」体験をつづっています。また、一茶の伝記小説「ひねくれ一茶」を書いている最中に、「一茶の

魅力」という文章を寄せています。井出氏は「杏花爛漫(小説佐久間象山)」を書いた縁で、象山特集号に小文を書

きました。新田氏が同郷の考古学者藤森栄一を追悼した文章は貴重です。


目次

「 地 震 と 私 」

「 一 茶 の 魅 力 」

「 星 巌 と 象 山 」

「 考 古 学 者 文 学 者 藤 森 栄 一 」


地 震 と 私

田辺 聖子

  私は現在、「中央公論」に川柳作家岸本水府の評伝を書いている。(「道頓堀の雨に別れて以来なり」)
何回かまえに関東大震災のくだりを書いたばかりだ。このときは川柳作家も多く厄に遭った。辛うじて逃
れた人は<九死に一生を得て>という表現を、皆が使っていた。まさかそれを、私も使うようになろうと
は思いも染めなかった。
  今回の阪神大震災では多くの人がいうように、関西には大きい地震はこない、という盲目的な認識が、
みんなにあって、地震対策など個人で心がけている人はほとんどいなかった。震災が起きてから学者の一
部から、かねて警告していたのだがという声を聞いたが、庶民クラスにまでその警告はつたわらない。地
震国日本ではどんな地方でもいざというときの心構えをするべきだと痛感した。
  地震の前日、一月十六日の夜、私は九十四になる老母を囲んで一族で新年宴会をしていた。毎年のなら
わしで、この時ばかりは東京その他の赴任先にいる私の弟妹やその連れ合い、子供たちも集まってくる。
母がみんなの顔を見るのを楽しみにしているので、私も近来はどんなに仕事がたてこんでいても出席する
ようにしている。車で十五分ばかりのところにある料亭から戻ったのは、十時ぐらい、私と夫を送ってく
れた弟一家と、そのあとかるく飲んで、お開きにしたのが十一時を廻っていたろうか。この十六日夜、と
いうのは私は毎月徹夜になるのが慣例である。「中央公論」のしめきりなのだ。しかし飲んでしまったか
らもう仕方ない。明日のことにしようとベッドへもぐりこんで、熟睡してしまった。結果的にそれが<九
死に一生>を得ることになった。
  ただならぬ気配で目がさめた。寝呆けているから分らない。夫が「地震や!」と叫んだので、やっとこ
の状態が地震のせいだと私も納得できた。この時点で完全に目がさめた。たいていの地震はこのへんでも
う止んでいる。ところが更に激甚な揺れがきた。はじめ上下に揺れ、ついで横に揺れる。このときベッド
でもう起きあがることはできない。トランポリンのように抛り上げられる。二十秒ぐらいだとあとで知っ
たが、二十分ほどにも感じられた。寝室にはあまり家具はおいていないが、あとで見るとベッドはヘッド
ボードを壁際にくっつけていたのに二十センチも離され、重いテレビ二台を載せた低いたんすは、テレビ
ごと床を滑走してこれも二十センチばかり、あらぬところに持っていかれていた。
  幸い家は倒壊しなかったが真の闇で、私は懐中電灯をやっと捜し出したが、何ごとにも行き届かぬ私の
こと、みな電池切れ、やっと蝋燭をみつけてほかの部屋を点検してみた。
  仕事部屋を覗いて一驚する。私の背後の重い書棚が二つともうつぶせに倒れ、仕事机と座椅子はその下
敷になっている。全集の重いのがあちこちに飛散し、資料棚も前に倒れてあたり一面、ガラスと紙片の山
である。――私は徹夜の場合、早朝六時か七時まで仕事をつづけ、FAXに入れてから眠る習慣なので、
もし昨夜仕事をしていたら無事ではすまなかったろうと思った。家じゅうの戸棚はみな観音開きなので、
マグネットがついていようが、かっちり閉まっていようが、地震にゆさぶられると素直に開いてしまう。
コレクションのガラス器、日常食器、好きなグラスや茶碗、馴染んだ湯呑み、みな、なだれ落ちてきれい
に粉っぱみじんである。知人の話では引き戸の戸棚のものだけ助かったということであるが、うちには引
き戸はなく、冷蔵庫のドアさえ開いていた。――しかし、このとき活断層の上の激震区では十万戸の家が
崩壊し、高速道路は大音響たてて陥没していたのだ。もちろんそんなニュースがすぐ知れるわけはなく、
家中われものと本の氾濫、本といえばこれもあとで伺ったが、万葉学者の犬養先生は西宮市の自宅で腰か
ら下を本に埋められてしまわれたという。同じく西宮市の作家、藤本義一さんはベッドを直撃した洋だん
すがもう五センチ右だったら頭蓋骨が粉砕されていたといっていられる。(毎日新聞夕刊、95・2・9)同市
の小田実さんはやはり重い書棚がベッドに落ち、そばのコピー機が守ってくれなければ死んでいた、と。
(同1・24)箕面市の小松左京さんは仕事を終え眠りについたとたんだった。激しいゆれに枕元の眼鏡をと
って立ち上ろうとしたがだめだった、と。(同1・25)――それでもわが家は電気だけはすぐついた。テレ
ビを見てはじめて惨状を知った。
  水はチョロチョロぐらいだったが出た。電話は一週間も不通だった。携帯電話もかからない。それでも
姪が車で走り廻って一族の安否をたしかめてくれる。みな無事でほっとした。
  仕事場の書棚は、近くに住む友人(男性)がアシスタント嬢と共に引きおこしてくれた。散乱した本は、
若い姪が精力的に片付けてくれ、男手と若者のありがたみをこのときほど感じたことはない。
  若者といえばボランティアでみなよく働いた。若者たちも自分が必要とされる場では人が変ったように
働くのである。それに見ず知らずの人でも災害のときには救けあい、食料や水を分けあうシーンが見られ
た。
  私がもっとも感動したのはこんな災害に遭いながら神戸市民の九割が、神戸を離れたくない、と答えて
いること。わが住む町への愛着と誇りは、地震にも失われないのだ。私も十年、神戸に住んだことがある
ので、神戸市民の気持はよくわかる。神戸の復興は早いだろうと思う。住民からこんなに愛される町も珍
しい。
  ところで地震から約二か月たったが、私は、といえば、地震後遺症はかえって日を経るごとに強くなる。
夜ひとりで仕事場にいるのが怖いのである。すでに書棚も固定してもらって一応、そなえは万全なのだが、
なぜか背後から倒れかかって来そうで仕事に没頭できない。原稿遅延の弁解、と思われそうだが、昼間は
ともかく、夜の仕事はあれから出来ないでいる。しかし地震が及ぼす人生への影響は、これからだろうと
思う。所有欲がうすれ、人間の無力を思い知らされ、生と死について思いが深くなる。人生晩年にめぐり
あった思わぬ出来ごとをゆっくり考えてみたい。魯鈍愚昧の身ではなにほどの充実した悟りは得られない
であろうけれど。――ただ、五千余の死者を悼む思いは何かにつけ深くなり、ことに老いた人たちの波乱
の人生を思うと時折、涙が出てくる。
                                                                 (「長野」第181号 地震特集号)

一 茶 の 魅 力

田辺 聖子

  一茶とは何と複雑な男だろう――というのが、ただいま一茶と格闘中の私の感慨である。
  片や、信濃の百姓という気分を濃密に持ち、骨太でしたたかな一茶に対するに、片や、関西商人の流れ
で軟弱軽佻な私が一茶を書くというのは、両極端の生い立ちと性格で、
  (大変な挑戦だ)
  と思い入らずにいられない。
  早い話が、暖国の大阪では雪も殆んど見られない。しかし信州は違う。骨に沁みるような酷烈な寒気と、
生活を圧迫するたけだけしい積雪を抜きにしては、一茶の芸術は考えられない。一茶は江戸在住当時は、
たのしい春の句夏の句をいっぱい作っているが、(たとえば<かすむ日や夕山かげの飴の笛><蝶とぶや
狐の穴も明るくて>のような)しかしそれは雪の中の暮しの辛さ、というものを知悉している人にして、
はじめて口をついて出る句なのではなかろうか。暖国生れの人にはもしかして<春の日のつるつる辷る樒
かな>などという句は、よめないかもしれない。雪国生れの一茶なればこそ、発見できた感興ではないか
と私は考えたりする。
  そういう奥深いものを湛えた一茶の句境を、私が十分汲み尽くせるとは思えないが、私は私なりの一茶
を書いてみたい――と思わせるような、手ごたえのある男なんである、一茶という御仁は。
  意欲をそそられるわけの一つに、一茶ほど世間のイメージと実体が違う人はいない、ということがある。
一茶はずっと昔、にこにこ顔のやさしいおじさん、<我ときて遊べや親のない雀>という句のように、ま
ま子育ちの淋しい生い立ち、それでいて童心を失わぬ人、というイメージであった。そのあと一転して、
不遇な生活のうちにつむじまがりなひねくれ、赤裸々な私生活もあけすけに書く野人である、と現代では
思われている。
  しかし仔細にみると一茶はずいぶん風交の友人が多い。つむじまがりな野人ではこんなに友人はできな
い。友情は(恋愛もそうかもしれないが)マメな人でないと長つづきしない。独り合点やエゴの人にも友
情は育てられない。職業俳人は人間関係に円滑を欠いてはやっていけるものではないだろう。一茶なりの
気くばりもあっただろうが、しかし長い年月つきあっていれば、人間の奥底はみえてくるもので、うまく
立ち廻って八方美人、というのは飽かれてしまうし、また人に見透かされてしまうものである。私は一茶
というのは、よっぽど人間的魅力のある人だったのだ、と考えている。童心を失わない人、野人だが卑し
くなく、好き嫌いはあるが厭人癖はない。――一茶が人なつこい性格だったのは、家庭を持たないため、
という気もする。
  もう一つ一茶に惹かれるのは、彼が動物や植物までも擬人化して話しかけるところである。(これは独
り者の放浪者の独語癖ともいえそうだ。独居していればひとりごとをいいやすい。)一茶から見れば人間
も雁・雀・蛙・蚊もひとしなみに、地球生物社会のメンバーである。<ぬかるみに尻餅つくなでかい蝶>
<産みさうな腹をかかへてなく蛙>もおかしいが、<うかれ猫意見を聞いて居たりけり>には笑ってしま
った。
  一茶はどこから、こんな感覚を養ったのであろう?  芭蕉も蕪村も俳諧芸術の中に自分を嵌めこむが、
一茶は自分の中へ俳諧をとりいれ、すっかり自分流に味付けしてしまう。草木虫魚禽獣、ことごとく一茶
にとっては個性をもって独立している存在で、一茶はそれらに話しかけ、彼らから声なき声の返事を聞き
とる。漂泊の旅の間じゅう、一茶は彼らとの交流交感にいそがしい。
  私はそれも一茶の独りぐらしのなせるところという気がする。家族を持つかわりに一茶はあらゆる生物
を家族にしたのだろう。一茶のうちには何であれ、愛したいという熱い血がたぎりたって、出口を求めて
奔騰している。一茶は人一倍、多情多感なのだ。妻子をいとしむ分、草木虫魚にまで情愛の飛沫がかかる
のであろう。
  してみると、一茶が放浪時代、長くさびしい独り身でいたのは、一茶の芸術を芳醇に醗酵させるにはち
ょうどよかったといえるかもしれぬ。
  ともあれ、一茶の生きものに対する特異な感覚は日本文学の中でも異色で、一茶の前にも後にも、いな
い。そして私は、蚊や猫や蛙に、まるで人語を解するものに向うかのように話しかける一茶が好きだ。句
作はおびただしく、すべてに目を通すことは容易ではないが、丹念に拾っていると、とても好きな句にゆ
きあたる。二度三度、よむうちにそれはふえてくる。一茶世界の展望がひらけ、地平がみえたせいである。
ふみこめばふみこむだけ、一茶の句境は深い。一茶ファン、一茶研究家が多いはずだと思われる。――当
分、私にとって一茶との格闘はつづくが、怖いようなたのしみなような気分である。この複雑な男の本質
には、あんがい単純な線の太いところもありそうで、私の手に負えるかどうか・・・・甚だ心もとない。

                                                                (「長野」第154号 一茶特集号)

星 巌 と 象 山

井出 孫六

  安政の大獄の犠牲者たち、梅田雲浜、吉田松陰、橋本左内らの名が広く知られているのにひきかえ、大
獄の前夜、京都の寓居で亡くなった梁川星巌については、あまり多く語られてきていない。星巌が美濃の
豪農の出身で確たる士族の出身でなかったからかもしれない。
  象山を語るとき、星巌の存在は無視しえない。とくに、象山が上洛する前後の事情は、星巌の存在をの
ぞいて語ることはできないのだが、幕末の京都政局にあって素浪人梁川星巌がどのような力をもっていた
ものかを解き明かした史書を、わたしはまだ目にしていない。
  象山浄稿のなかに、「別梁公図序」の一文があって、それはわたしの目をひきつける。この文章は、梁
川星巌が神田お玉ケ池の私塾をたたんで西帰するに際して、象山が贈った送別の辞だ。江戸における詩人
梁川星巌の文名はとどろき、私塾に出入する門人はひきもきらなかった。その妻紅蘭もまた、閨秀詩人と
して、広く知られていた。星巌はやがて還暦を迎える老境になって、なぜ倉皇としてその私塾をたたんで
西帰を思いたったのか、真の理由はよくわからないが、幕末の政局に深くかかわる事情が伏在していたに
ちがいなく、それを明かにしてみることは、幕末の諸士横議の秘密を解き明かす上で必要なことにちがい
ない。
  むろん、「別梁公図序」にその理由は明らかにされてはいないが、象山の語っている言葉が興味深い。
梁川星巌は当時の江戸の人口を五百万人と見、一日一人五合として、月に七十万石の米を必要としている
が、その多くは大坂からの廻船で運ばれてきている。嘉永年間、下田にペルリが現われる以前のことだが、
近々夷狄の黒船が近海に出現するにちがいなく、そのとき、大坂からの廻船は大きく脅かされることにな
るにちがいない。西からの米が江戸に廻送されぬ事態になったとき、江戸に大きな食糧危機がくるかもし
れない。
  「小生はそれ故、早々と疎開することにしたのだ」
  と星巌は周囲に語って、江戸を去っていったことが、象山の送別の辞から読みとれる。弘化二年六月の
こと、まだ黒船出現の数年前のこと、さすがの象山も、星巌のこの奇行にあきれてはいるが、一方その奇
抜な発想に衝撃をうけていることが読みとれる。
  疎開して美濃の田舎に引き籠ると見せかけて、星巌はいつの間にか京都丸太町に居を構え、そこがまた
たくまに志士たちの巣窟となり、星巌は深く宮廷に入りこんで、公卿たちの政治指南番になっているあた
り、たんなる詩人ではなく、端倪すべからざる政治的人間としてその晩年をつらぬいている。
  むろん、佐久間象山の上洛の道筋をひらいたのも星巌であった。惜しむらくは、安政の大獄の前夜、星
巌はコレラで死んだ。その死の直後、妻紅蘭が逮捕されたが、彼女は終始黙秘をつらぬいて、星巌の政治
活動については、片言も外に洩らすことはなかったと伝えられている。
                                                                 (「長野」第92号 象山特集号)

考 古 学 者 文 学 者 藤 森 栄 一

新田 次郎

  藤森栄一さんは諏訪中学校(現在の諏訪清陵高校)の一年先輩でした。中学生ごろから考古学に興味を
持ち、当時諏訪中学校内に科学会を創設し、自ら歴史部部長となって、下級生に部活動としての考古学を
呼掛けました。私は彼に共鳴してこれに参加し、日曜日には、彼の後をついて廻りました。彼が卒業した
後は、私が二代目歴史部長となりましたが、彼のように活発な仕事はせず、なんとなく一年務めて、後輩
に譲りました。
  藤森さんは中学生のころから、想像力がすばらしく卓越した人で、一個の土器のかけら、一個の石器を
拾い上げても、一つ一つに、彼一流の説明をつけていました。それも単なる考古学的な説明ではなく、
  「原始人はこの石器をこのように持ち、こんな恰好で、相手をぐっと睨んで・・・・」
  などと云った具合のものでした。彼の考古学者としての特異性は少年時代からあったようです。中学校
を卒業した後も、彼はずっと考古学をやっておりましたが、私は中学卒業と同時に、無線電信講習所(現
在の国立電気通信大学前身)へ進学し、やがて気象庁へ勤務するような方向へそれてしまい、再び彼と私
とが親交を恢復したのは、私が直木賞を受賞し、作家としてのスタートを切ってからでした。
  昭和三十三年だったと思います。彼は部厚い原稿を持って、上京して来ました。
  「おれも小説を書いたから読んでくれやあ」
  と云って置いて行ったのが「宗門帳」でした。拝見しましたが、欠点が多く、感動を呼ぶというもので
はありませんでした。私は正直にその欠点を挙げ、
  「どうぞ、あなたは小説を書くよりも、もともと筆の力があるのだから、それを生かすような方向へ行
ったほうがいいでしょう」
  と云ってやりました。彼はそれでも、あきらめきれず、その後も、二、三短編を持って来ました。私が
すすめて、懸賞小説に応募しましたが当選しませんでした。彼はねばり強い人でした。次には「湖底」と
いう長編を書きました。どうしても小説を書きたいというのが、彼の念願でした。
  「銅鐸」も最初は小説に仕上げるつもりだったのですが、私は懸命に止めました。その構想に歴史的な
裏付けそして文章にしたらよいでしょうと繰返えし提言しました。
  そのとき彼は、面白くないような顔をしていました。「銅鐸」は原稿は見ませんでした。彼の構想を聞
いただけでした。その「銅鐸」が毎日出版文化賞を受けたのです。すると彼は、又々小説を書くのだと云
い出しました。「宗門帳」と「湖底」が相次いで学生社から出版されたのはこの頃でした。
  活字になったのを見ると、以前に読んだものより数段とよくなっておりました。書評も悪くありません
でした。小説を書きたいという彼の念願はこれだけで止むものではありませんでした。私の顔を見ると小
説を書きたいと云い、あれこれとテーマを持ち出すのです。どれも、飛びつきたいようなものばかりでし
た。
  彼は随分仕事をしました。歴史学者としても考古学者としても、エッセイストとしても、また自然愛護
運動にも、力を入れました。しかし、彼がほんとうにやりたかったことは小説を書くことではなかったか
と思います。
  「考古学は点を集める学問だ。点を接続して体形作りをするのはフィクションでしかあり得ない」
  という彼一流の持論の中にも、小説家らしい雰囲気が感じ取られました。
  彼はとてもいい人間でした。小説家になりたいと云っても、私に対してライバル意識を持つようなこと
はありませんでした。小説の書き方、テーマの扱い方なんかについては、
  「おい、先生、ここんところはどうしたらいいずらか」
  なんて、夜遅く電話を掛けて来たこともあります。ここ二・三年前から、小説のことはあきらめたのか
あまり口に出さないようになったので、へんだなと思っていました。やはり彼には、書きたい、やりたい
と思う仕事をさせて置いた方が長生きできたのではないかなどと悔いてみても、もう取返しのつかないこ
とになりました。
  藤森栄一さんの葬儀の日には、友人総代として弔詞を読みました。その時私は、考古学者、文学者藤森
栄一様霊前と読み上げました。考古学者というところよりも文学者というところへ力を入れました。今は
亡き友にそう云ってやるのが、私のせつない気持のせめてもの表現だったのです。
                                                                            (「長野」第54号)

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