2000年10月29日 姉がくも膜下出血で倒れてから、私の病院通い生活がはじまりました。



 手術も成功し姉が一命を取り留めて、あとは意識のもどるのを待って「 がんばってねぇ」で、私の任務は終わると思っていました。
 なんと甘い見通しだった事でしょう。姉は意識障害と全身麻痺の重症患者となったのです。
 意志の疎通ができないということの困難さに直面して、私のこの病気との闘いがはじまったのだと思います。
 救急で入院した病院ですべての外科的手術が終わっても、姉の様子は変わらず、食事は経管栄養、常に苦しそうにする痰ひきと排泄処理を繰り返し、回復には外部からの刺激が一番ということで、理学療法士のリハビリと私の話しかけとマッサージを続けましたが、大きな変化もなく、徐々にあせりを私は感じはじめたのでした。
 私の住居のある長野のリハビリ専門病院に転院できた時は、これからは専門家にまかせて、のんびりじっくり姉の回復を待てば良いと、横浜から長野に帰れた開放感で満たされていました。
 ところが、リハビリ専門といっても一日中手をかけてもらえるわけでないこと、悪く言えばほったらかしの時間も多く、私は期待が大きかっただけ、がっかりしました。
 姉ぐらい重症患者で自分からの行動ができないと、すべてが消極的で、「この状況を悪化させない」程度のリハビリ、姉が起きあがり、食事を摂り、話す、そんな可能性はほとんどない(ゼロではないと言ったけど)と、私からすればろくに試しもせずに、三ヶ月後には出ていくように(紹介された次の病院は慢性期の患者のはいるところ)言われたことに驚きました。
 これでは、のんびりじっくりどころではない。見通しには期間ということが必ずついてまわることも知らされました。少なくとも一年は回復する可能性を追求すると宣言した私は、意地になって、毎日の病院通いを続けることになりました。
 姉の友人・知人の年賀状が100通ほど届いていました。とりあえず姉の状況の知らせは私の責任と感じました。  

 

2001年3月

姉(渡辺恵理子)と交流のあった皆様へ

前略

 昨年の10月29日にくも膜下出血で倒れた姉は、生命の危機は脱しましたが、意識障害と身体マヒの重症患者であり、緊急入院した横浜の汐田病院において、快復にむけてリハビリを続けておりました。
 私(妹)の横浜での姉の看病のための病院通いの生活も4ヶ月が過ぎました。
 この度、長野のリハビリ専門病院に転院でき、私も自宅(長野)に帰ることができました。
高齢の母は、住み慣れた横浜の自宅で一人暮らしをすることになりました。
 とても厳しい姉の病状ですが、快復を信じて、私のできるかぎりのことをしていきたいと思っています。
 突然の姉の病に、打ちひしがれ、落ち込む日々もありましたが、いまは生活の一部として明るく、希望をもって姉との一日一日を大切にしていこうと思います。
 遠方の方々には、連絡が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。

 

 

2001年5月

前略

 姉の病気も鹿教湯病院に転院してから2ヶ月が過ぎ、発症からは6ヶ月が過ぎました。医者には、リハビリの効果があがるのはこの期間と言われておりました。
 生活の基本動作はすべて介助を要し、食事は径管食(鼻から管で胃に入れるもの)のまま、言語も唇は動かす動作が見られるものの、いまだ言葉を聞くことはできません。とても厳しい状況です。
 しかし、頻繁だった発熱もめっきりなくなり、痰の除去の回数なども減ってきています。
 少しずつですが、左手の上げ下げが活発になり、表情もしっかりしてきました。車椅子に2時間程度は座っていることもでき、いただいた手紙を読むような仕草や、テレビを見つめ、リモコンを押すこともあります。
 姉が病気になってみて、姉が多くの友人に恵まれ、様々な方々からはげましいただくことに、妹として改めて姉の人柄に敬意を感じる日々です。
 姉の様子を見ることは、切ない気持ちも強いですが、姉と深いところで心が通っている喜びのようなものを感じられる日々でもあります。
 そして、なによりも皆様のはげましがありがたく勇気づけられています。
 姉の近況をお知らせし、皆様のお見舞いにお礼を申しあげることなく失礼致しておりますことをお詫びします。皆様、ありがとうございます。

 

 

2001年6月

前略

5月に皆様に姉の近況をお知らせしましたように、本当に微々たる進歩ではありますが、望みをもって、あせらず療養とリハビリを続けていくことだと思っておりました。
 しかし、現在の医療制度の中では同じ病院には3ヶ月という制約が強くあるようで、再三にわたり転院を提示されており、このまま鹿教湯病院にとどまることができない状況に苦慮してもおりました。
 そして、病院の勧めにより、6月6日鹿教湯病院の分院(介護保険)に転院しました。
 施設的には古く、広々とした最新設備の鹿教湯病院と比べて不満もありましたが、、鹿教湯病院と変わらずお風呂は温泉、病院の職員の方々も家庭的な雰囲気で、リハビリは作業療法も加わり、姉にとっては良かったと思えるこの頃です。
 新しく主治医となられた先生は、病気前の姉を、恥ずかしげもなくほめちぎった私達夫婦の気持ちを受け止めてくれて、姉の多彩な趣味などに関心を寄せて、クラシックのCDをプレゼントして下さいました。
 いままで、じゃまになってはと最小のカセットラジオで我慢していたのですが、お医者さんのお墨付きをいただいたので、CDラジカセを置かせてもらっています。
 姉が倒れてから、横浜で4ヶ月間暮らしておりましたので、姉とともに長野に私が帰ってしまった後、母のかなり淋しげで、憔悴した様子に心が痛みました。
 ご近所で親切に面倒を見て下さる方もおり、横浜市のサービスで週に一度ホームヘルパーさんが母のところに来て下さるようになってから、母は徐々に明るくなってきました。
 姉が元気な姿で横浜に帰れる目途はたたないものの、「私は大丈夫、エリコをよろしく」と、さすが様々な苦労を乗り越えてきた母らしく、一人暮らしに耐えています。
 子供を思う親の気持ちはいくつになっても変わらないものだとありがたく、母の気持ちに答えていきたいと、思いを新たにしております。
 更に良い方向にリハビリが進むことを願い、毎日病院通いを続けております。
突然決まった転院と、気ぜわしさに皆様へのお知らせが遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

 

2001年8月

前略

 6月6日に鹿教湯病院分院に転院して、3ヶ月が経とうとしています。
 学校は夏休みということもあり、生徒さんをつれてのお見舞いあり、高校の友達も遠方にもかかわらず来て下さり、明るい雰囲気の療養となっております。
 大きな変化のない姉の様子に、不安とあせりがひろがるたびに、皆にはげまされ、私も明るくやってこれました。
 私は姉が少しずつ表情をとりもどし、時にはうなづくようなしぐさをみせ、私のたわいない冗談に笑顔をみせる様子に、回復のきざしを実感してきました。
 何度も口からの食事の可能性を訴えてきた私でしたが、誤飲の危険を理由にいままで試すこともできずにきていました。幸いにも、分院の主治医の先生は管をはずすことに積極的な考えで、医者の許可をもらうことができました。まだ早いと看護婦さん達の抵抗はありましたが、管をつけたままで、はじめた日から一日もかかさずゼリーやヨーグルトをどんなに少しでも姉に食べさせ続けること(心配した誤飲もなく)が出来ました。
 その成果?ついに姉の声を聞くことができました。
 私が「お茶飲む?」と聞くと、はっきり「お茶」と姉は返事をしたのです。
 看護婦さんもヘルパーさん達も、「おはよう」と言ったよとか「はい」と返事をしたよと、皆が積極的に姉に声をかけてくれるようになり、私に教えてくれることが多くなりました。
 姉が昨年の10月29日に倒れて、長いようであっという間の10ヶ月だったような気がします。
 あきらめないで良かった!半ば意地のように通い続けた甲斐があった!
 まだまだ先は長いだろうけれど、私の病院通いは、本当に楽しみな喜びを実感できる毎日であることをお知らせします。

   

 

2001年11月

前略

 姉が昨年の10月29日に倒れて、1年が経ちました。
 口からの食事をはじめて3ヶ月、この期間の姉の変化にはめざましいものがあります。
 簡単な言葉(呼びかけへの繰り返し)ではありますが、「おはよう」と「はい」という返事は、ほぼ毎日聞くことができるようになりました。
 食事もゼリー食からおかゆとおかず(少し形のあるものもOK)を昼には食べています。
 姉の意識が一日通してはっきりしている状況ではないこと、私も3食責任を持つことはできないことなどで、まだ管をはずすことはできませんが、確実に管がはずされる見通しはでてきています。
 左手はスプーンを口に運ぶこともできるし、足も少しふんばるような様子がみられ、姉が自ら行動しようとする意欲が伝わってきます。
 また、次の転院先として提示されていた(分院も6ヶ月間の予定で入院許可)病院は、慢性期の患者の受け入れ先、私も転院先としてはおおいに不満のあるところでしたが、主治医の「診療を継続する」という判断で、当面入院延長が許可され、ホッとしています。
 長期に療養、リハビリを必要とする患者の受け入れをしてもらうのはとても困難のようで、私の身近な病院で療養、リハビリが続けられることを幸いに思います。
 姉の手術を担当したお医者さんが、外科的手術が終わって「あとは恵理子さん次第」と力強く姉をはげました言葉が忘れられません。
 とても、ねばり強くなにごとにもむかっていく姉です。きっとくじけずがんばりぬいてくれることと信じます。

 

2002年2月10日

 皆様へのご連絡遅くなりました。

 姉の表現は日々進歩しています。ご安心下さい。
 たとえば、呼びかけに対して「はい」という肯定はかなりはっきり答えます。そして、否定はちよっと考え込むような、首を傾げる仕草をします。
 左手は、たどたどしさの中にも目的のある動き、意味のある動きがかなりできるようになってきました。
 最近は右手もかなり動かすようになって、食事前に手を洗う練習を続けていたのですが、手を拭く時両手でタオルを持つ、蛇口からの水を確認するなどできるようになってきています。強制的に手をひっぱったり、身体を押してこごませていたのが、自分から手を洗う行動に向かう様子がでてきて、うまくなったねと私が誉めるとニッコリします。本当にこの姉のニッコリの表情が良くて、思わず「かわいい!」と頬ずりしたくなり、実際してしまう私です。
 11月頃は、次の連絡の時は、「鼻の管がとれました」とお知らせできるだろうと思っていましたが、なかなかそういう体制にはならず残念です。
 いまだ、朝と夕は鼻からの食事ですが、昼には病院からのキザミ食と私の持ち込む煮物や、クリスマスにはケーキ、お正月にはおせち料理も一緒に食べることができるまでになりました。
 私が、おいしそうと思うデザートなどを持ち込んで食べさせているせいか、かなりふっくらしてきています。この頃は実だくさんのゼリー(ぶどうやびわのはいっている)がお気に入りです。
 母の元気な声を姉に聞かせるため、時々屋上に出て携帯電話(夫の)を使っていたのですが、真冬の寒さと雪のため屋上に出ることもままならなかったので、試しに公衆電話を使ってみました。これが驚きの効果があり、使いなじんだ電話機の形に姉の身体が反応して、受話器をしっかり耳にあて、母の声を聞き、自分の声も母に届けることができました。
 土曜か日曜の二時頃、電話の都合の良いという方、お知らせ下さい。こちらから電話したいと思います。姉もはげまされるだろうし、調子が良ければ姉の声をお聞かせできるかもしれません。
 また、上田の母もかねてから考えていた治療のため、鹿教湯病院(本院)に入院しました。姉のとなりの病院ですので、私としては、世話をするにも都合良く、毎日二人の間をいったりきたりしています。                 

 

2002年4月17日

 

 皆様こんにちわ。

 うれしいお知らせ盛りだくさんです。
 昼の口からの食事が安定しているので、いつになったら三食口からにしてもらえるのかな?と不満の私でしたが、2月のお知らせを出してまもなくに、鼻の管がとれました。それから、特に問題なくお食事しています。
 水分は主にストローでとっていますが、だんだんカップでもうまく飲めるようになってきて、今度お友達のお見舞いがあったら、コーヒーを一緒にと楽しみにしています。
 一日中パジャマ暮らしだったのが、昼はトレーニングウェアに着替えて、リハビリ訓練もさまになってきました。
 言葉も会話らしくなり、歌は自然と出てくるのか「荒城の月」を歌ったとか、患者さん達からも驚かれるほどの回復ぶりです。
 私も、先日「フーテンの寅さん」の昔の映画をテレビでやっていたら、テーマソングを歌い出した姉にびっくりさせられました。
 リハビリの林先生にお願いして、鹿教湯の桜を見に行った時も、道の向こうから「私が見えたら手を振って〜」と声をかけたら、右手を振ってくれました。
 感激!
 上田のおばあちゃんも車椅子での移動ができるようになって、ひさびさのご対面をしました。
 おばあちゃんも入院してからはじめて姉に会って、しっかりした姉の様子にびっくりしていました。以前分院にいた看護婦さんも会いにきてくれて、こんなに良くなるなんてと驚かれていました。
 立てば歩めの親心(妹心?)というか、もっともっと良くなると期待はとめどなく広がっています。そして、ついに歩く練習をはじめました。
 母への電話は毎週していますが、前回のお知らせでお願いし、お友達ともうれしそうにお話できました。
 誰とどんな話しをしているのかということは、姉にはしっかり解るようなので、ぜひ都合のつく方お願いしたいです。    

 

2002年7月

お知らせ

 鼻の管が取れてから、姉の様子がぐっと良くなりました。
 まず表情が豊かになったこと、言葉が増えたこと、歩行訓練もはじめました。
 しかし、鹿教湯病院分院も一年を越え、転院の要請をされていました。
 いろいろ今後の姉の生活の方向付けに悩みましたが、できるかぎりリハビリのある自宅に近い介護保健施設に転院を決めました。
 退院の話しを聞いて、鹿教湯病院で最初のリハビリの先生(3ヶ月担当)が会いにきてくれました。この一年間に姉がここまで良くなったことをとても喜んで、私のねばりを誉められました。
 リハビリを続ける効果も、口からの食事の可能性も極めて低いと診断されていた姉の可能性をあきらめなかった自分を誉めてあげたい、苦しいこともあったけど、うれしいこともたくさんあった一年でした。
 これからも姉の回復は少しずつでも、後退することのないように見守りたいと思います。

   

 

 

 

2003年7月

 

 皆様ごぶさたしております。

 昨年7月に「チェリーガーデン」に転院してから、一年近くが経ちました。できるだけ早い時期に鹿教湯病院に戻り訓練を受けさせたいと思っておりましたが、ようやく7月3日に入院許可がおりました。
 主治医の先生と担当リハの先生は変わられましたが、同じ分院の2階にはいり、以前にお世話になった看護士さん、ヘルパーさんの見知った顔に出会い、皆、姉の回復ぶりにおどろき、大変喜んでくださいました。
 「チェリーガーデン」は介護老人保健施設のため、リハビリの内容にはかなり不満がありましたが、良かったこともたくさんありました。なによりは、思い切って上田の市民劇場に入会し、姉に大好きな芝居を見せることができたことでした。
 わらび座のミュージカル「山神様のおくりもの」にはじまり、平幹二郎の「リア王」、井上ひさしの「人間合格」、黒柳徹子の「幸せの背くらべ」、劇団民芸の「アンネの日記」と、入会してから一回も休むことなく観劇できました。
 今後も鹿教湯で、姉の底力がさらに発揮されることをご期待下さい。

 

 

 

2004年1月

 

あけましておめでとうございます

 姉の介護も4年目に入りましたが、鹿教湯病院に移ってからの姉のますますの回復に、おおいに希望のもてる日々を送っています。
 姉と過ごす時間は、私にとっても楽しい時間ととらえられるようになってきました。
 いまはやりの「じゅげむ」や、百人一首など、姉の記憶の中に残っていることで、暗唱して楽しんでいます。
 私なりきにいろいろ持ち込んでは、グルメ体験を姉としています。
 お店に出かけて行って、ケーキセットをいただいたりもします。
 そのせいでしょうか、姉も私も太りました。
 いつまで鹿教湯病院にお世話になれるか解りませんが、できるだけリハビリを受けさせたいと思っています。
今年もよろしくお願いします。  

  

2004年3月

 

 皆様 こんにちわ。

 姉は休職期間が満了し、今年の2月10日付をもって、大師小学校を退職致しました。
 学校に復職することは、すでにあきらめてはおりましたが、姉が、自分の進路を自分の意志で決められなかったことは残念に思っています。
 しかし、学校において障害者教育に熱心に取り組んでいた姉の中には、自分の障害にもまっすぐに向き合い取り組む心が人一倍あるように思います。
 だからこそ、重度障害と認定された当初には、とても不可能と思われていた機能回復を姉は着実に実現していけたのだと思います。
 「だれでも伸びる」という姉の教育信念は、学校を離れても生きています。
 重度の障害は負いましたが、今後の長い人生を思って、希望を持って努力していきたいと思います。

 

 

2004年10月

 

ごぶさたしております。

 昨年、鹿教湯病院に移ってからの姉の成長には目を見張るものがあります。 入院当初は、長くて6ヶ月程を目標としてという医者からの話でした。 以前の実績があるので、一年はねばれるだろうとは思ってはいましたが、退院をせかされるのは気が重いものです。 しかし、一年を過ぎても退院の話しはでてきません。 リハビリ専門の病院ながら、慢性期の患者さんが多くなっています。姉も発症から考えれば、この時期に機能回復が画期的に進むのはとてもめずらしいようです。歩行ができるようになったのにもびっくりだし、「疲れるからイヤ」とか、「やりたいけど自信がないなあ」とか感情や意志を表現できようにもなってきました。 リハビリの先生達もやり甲斐を感じてもらっている様子です。

 もう四年もたつというのに、私も張り合いのある日々をおくらせてもらっています。

                                         

手摺なしでも歩行
 

 

2005年1月

 姉のリハビリは5年目になりました。

 うれしいことに、まだまだ回復の可能性が見え、期待以上の成果が表れています。
 引き替え、義母の衰えが進み、私はあいかわらず介護に追われる日々です。
 どんなに健康を自負してきた人でも、いつかは迎えなければならないのが老いであり、病のない老後も困難です。
 病を嘆かず、あるがままに受け入れることを、姉の介護の体験から私は学びました。

 上田に姉の家を持ちました。時々外出して、病院とは異なる雰囲気を二人で楽しんでいます。
 今年も不自由ながらも、豊かな生活と思える日々を過ごしたいと思っています。

 

 

 

2005年4月

  姉の近況をお知らせします。

 姉は幸いにもリハビリを続ける介護を、長期に受けることができ、先生達も驚くほど、リハビリの成果があらわれていました。
 しかし、入院を一生続けられるわけではなく、いろいろな施設に申し込みをしておりました。500人待ちと老人施設では言われ、先行きに不安を抱えておりました。
 ところが、ほとんど可能性はないと言われていた障害者施設への入所ができました。
 いつも追われている気がした5年間でした。
 生活の基盤が定まったので、安心して、のんびりじっくりと姉と関わっていきたいと思います。

  これからも、まだまだ姉は良くなっていくような気がします。
 施設は私の自宅からも近く、これからは訪問や外出もしやすくなります。

 

しいのみ療護園にようこそ

大師小学校時代の先生達と    2005年5月