道をはさんでスーパーFantasiaの反対側になります

←まんなかがカノ・ツーリスム・キャンプの正門です.

ボンパイロードから100mほど入りますが、運転手がツーリスム・キャンプを知らなくてもボンパイロードは知っているでしょう。向かって右側はナサラーワー・ローカル・ガバメントのオフィスです.




  ビアフラの記憶・ナイジェリア・ハウサランド

 ビアフラという言葉をきいて栄養失調で骨と皮ばかりの子供を思い浮かべる人は少なくなりました。アフリカが貧しいというイメージは何度かリバイバルされていますが、ビアフラはおそらくその最初のものではないかと思います。わたしが小学校に入った頃、ビアフラの子供たちのための募金がありました。それで覚えているのですが、ビアフラがナイジェリアの南東部であったことはずいぶん後になって知りました。日本ではビアフラ内戦として知られましたが、ナイジェリア内戦というべきかもしれません。ナイジェリアを旅していると従軍した人々と出会うことがあり、当時の様子を聞くことができます。もっともビルマで日本軍と戦った話も希に聞けますが。

 2000年秋英国からの独立40周年を迎えたナイジェリアは、ライベリアやシエラレオーネに代表される混迷する西アフリカのなかでも数少ない希望の星としてほんとうにかろうじて存続しています。同年8月に5000人のセキュリティをともないクリントン大統領(当時)が首都アブージャへやってきたのも西アフリカのハブとしての現況認識ゆえと考えられます。また、2002年3月のジンバブエ大統領選挙における不正および対立候補の国家反逆罪での逮捕をめぐり、コモンウェルスの決議においてナイジェリアが重要な役割を果たしたことも記憶に新しいところです。でもその道のりはビアフラに象徴されるようにけっして平坦なものではありませんでした。この2年はイスラム法シャリーアがキーワードとなってビアフラの前兆を思い出させるような暴動が発生しています。しかし、それが野火のように全土へと拡散しないのは二度とビアフラを起こしてはならないと多くのナイジェリア人が感じているからだと思われます。

ナイジェリアン・スプライトベンチもナイジェリア色.ボンパイロードをはさんで向こうに見える建物がセントラルホテル.誰でも知っている目印です.ツーリスム・キャンプはここから徒歩5分です.→


 本ホームページで紹介しているカノ州は、そのナイジェリアの北部に位置しています。州都のカノ市はハウサ語を話す人々のミヤコのような場所でもあります。日本でほとんど知られていないハウサ語ですが、西アフリカのスーダンサーヘル地帯に沿って東西に広く通用する言葉です。ハウサ語を母語とする人々もいてナイジェリア北部からニジェール南部に分布しています。この広がりをハウサランドといいます。19世紀初頭にフラニ人ウスマン・ダン・フォディヨがはじめた聖戦とヨーロッパ人の植民地化が輻輳した結果、ニジェールとナイジェリアに分かれたハウサランドを今日のわたしたちは目にすることになるわけですが、カノはハウサランドの中心として存在し続けているのです。


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