2000年のダーバ

 ダーバ(daba)はなんといってもカノ観光の目玉でありましょう。一見大名行列に見えてしまいます。日頃町中で写真撮影をきつ〜くいましめるカノのコワ〜イおじさんたちもこの日だけはやさしく見えます。とにかくフリーなのです。カメラをかまえても誰も何にもいいません。なお、ダーバの日程は年によって異なりますのでご注意を。
王様!
 おもしろいことにダーバはハウサ語ではありません。英語のdurbarが訛ったものなのです。でも英語を母語とする人々がどの程度durbarという単語を知っているのか定かではありません。もともと西アジアのdarbarが英語に採用され、はるばるこの地にやってきたという経緯があるからです。そして今や北ナイジェリアではなくてはならない年中行事となっているわけですね。
今年のポスター
 1913年には「神話的」行政官ルガードのために一大ダーバがおこなわれました(この間の事情はルガードの伝記 Margery Perham 1960 Lugard: the Years of Authority 1898-1945. や M. G. Smith 1997 Government in Kano: 1350-1950. なぞを参考にしてください)。ダーバはナイジェリアの文脈としてはイギリス統治時代につくりだされ、地元の権威と外来の権威を演劇的に対面させる仕掛けとなったのでありましょう。ハウサの歴史学者のなかにはそのため、ダーバをきらって自らの伝承から排除する姿勢もみられます。しかし今日ダーバが欧米人やアジア・アフリカ人観光客ばかりでなく、ジモティにとっても欠かせない伝統行事となっていることは確かでありましょう。

 2000年は、サッラーの休みにはいった3月16日に王宮gidan sarkiの前で盛大なパレードがおこなわれ、王権が再演されました。前年、王sarkiは体調をくずしただけに、元気な姿をひとめ見てひとびとの喜びもひとしおだったようです。カノ王は馬からおりるところを見られてはなりません。服装のみだれを見られたくないからだと合理的な解釈をする市民もいますが、それだけではないようです。こうした王権にともなう一連の所作は各地域で異なっています。翌日一行はガバメント・ハウスを訪問しました。知事にあいさつをするためです。沿道は王一行に声をかけようとする男達であふれかえりました。

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